「憲法学の散歩道」書籍化第3弾『思惟と対話と憲法と』が2025年10月15日に発売となりました。第44回までの連載分に単行本用書き下ろし1篇が加わった、著者・長谷部さんとの散歩をぜひみなさまも一緒に楽しんでください。[編集部]
次の一節は、カント『人倫の形而上学』の中で、もっとも有名なものの一つであろう。
人を殺害したのであれば、死ななくてはならない。これには正義を満足させるどのような代替物もない。苦痛に満ちていようとも生きていることと死のあいだに同等といえるところはなく、したがって、犯人に対し裁判によって執行される死刑以外に、犯罪と報復とが同等になることはない。ただしその死刑は、処刑される人格における人間性に残忍となりかねない方法で行われてはいけない。──たとえ市民社会がその全成員の合意によって解体することになろうとも(たとえば島に住んでいる人民が、別れて世界中に散らばろうと決める)、そのまえに、監獄に繋がれた最後の殺人犯が死刑に処されなければならない。そうすれば、だれもがその行いに値する報いを受けることになり、この処刑を貫徹しなかったゆえに、その人民が人殺し呼ばわりされることはない。なぜなら、処刑しなければ、正義に対するこのような公的な侵害の共犯者とみなされるからである*1。
カントはここで、目には目を、歯には歯をというスローガンでおなじみの同害報復の法を提唱しているかに見える*2。伝統的にカントは、典型的な応報刑論者と見なされてきた。しかし、なぜ同害報復が正義にかなうのか、その理由は、一見して明らかとは言い難い。
H.L.A.ハートは、犯罪と刑罰という反対方向の害悪を鏡のように重ね合わせることが正義を生み出すというのは、摩訶不思議な道徳化学であり、そもそも刑罰の道徳的正当化をあきらめた議論ではないかとさえ、示唆する*3。トマス・スキャンロンも、悪行を犯した者が苦痛を被るのは善いことだという考え方を受け入れることは難しいと言う*4。
近年、カント研究者の間では、カントの道徳理論・法理論全体と整合するのは、むしろ、刑罰の威嚇によって犯罪を防止する一般予防論であって、応報の観念は犯罪者に対する個別の刑の執行の局面における正義を保証するためのものだとの考え方が支持を得つつある*5。
カントによれば、選択意志(Willkur)とは、人(主体)にとっての目的(Objects)を実現するために行動し、あるいは行動しない能力のことである。感性的衝動によってのみコントロールされる選択意志は純粋とは言えない。それは動物的な選択意志にとどまる。人の選択意志が自由であるとは、まずは、それが感性的衝動のコントロールから独立していることを意味する(選択意志の自由の消極的側面)。
それとともに、人が意志によって定立する格率(指針)*6が普遍的法則として通用するという条件下にあり、しかもそうした格率にしたがって人が行為することも、人が自由であることの意味である(選択意志の自由の積極的側面)。
人が感性的衝動から独立し、普遍的に妥当する法則に沿って行動することが、人が純粋な実践理性に従っていること、人が自由の法則に従っていることを意味する。そのとき人は、自由である*7。
各人が定立する格率に普遍的な妥当性があること、つまり道徳格率が定言命法の要請を満たさなければならないことの意味については、すでに触れている*8。たとえば「自分の便宜に沿って他人の財物を盗んでも構わない」という道徳規範は、それが万人にとっての普遍的規範となると、何が誰の財産かという区別も不可能となり、そのため、他人の財物を盗むこと自体が不可能となる。
「自分の便宜に即して嘘をついても構わない」とか「あらゆる手段を通じて自身の財産を増やすべきだ」といった規範も、同じく、普遍的に妥当しているとすると自己破壊的となり、人の行動指針にはそもそもなり得ない。
定言命法の要請は、普遍的に妥当しているとすると自己矛盾に陥り、そもそも行動指針になり得ないものを見分けるための条件を示すものではある。しかし、あらゆる人にあらゆる場面で、いかに行動すべきかを客観的に指し示す規準ではない。定言命法の要請を満たしつつも、相互に矛盾・衝突する数多くの格率を考えつくことが可能である*9。
意志の自由を備えた人々は、それぞれ自由に自身の格率を定立し、それに沿って行動しようとする。そこに発生するのは、トマス・ホッブズが描いた、万人が万人と闘争する自然状態である。それは、人間の本性が悪だからではない。
人間をたとえどのように善良で正義を愛するものと考えようと、法のない状態という理性の理念にアプリオリに含まれるのは、公的な法のある状態が設立されないかぎり、暴力行為に対して個々の人間や人民や国家は互いに決して安全ではありえないということであり、しかもそうした事態は、だれもが自分にとって正しくかつ善いと思われることを行い、この点で他の人の意見に左右されないという、だれもがもつ固有の権利に由来するということである*10。
人がそれぞれ自分にとって正しくかつ善いと思われる格率を定立し、それに沿って行動したとしても、多様な格率が相互に矛盾・衝突する以上、人々が安全な社会生活を送る余地はない。そのため、すべての人に共通する公的な法によって、各人が自由に行動し得る範囲が平等な形で設定され、それに従ってすべての人が生きることで、平穏な社会生活が確立される必要がある。
別の言い方をするならば、各人の自由な判断にもとづく自由な行動は、客観的な法秩序により、相互に両立可能な形で交通整理される必要がある。「法とは、そのもとで、ある者の選択意志が他者の選択意志と自由の普遍的法に従って統合されることを可能にする諸条件の総体である」*11というカントの謎めいた言明は、こうした考え方を示している。
「だれのどのような行為も、その行為が(あるいはその行為の格率から見て)、その人の選択意志の自由が、だれの自由とも普遍的法に従って両立できるならば、その行為は正しい」*12というカントの言明が述べているのも同じことである。
両立可能でなければならないのは、各人の行動である。各人がどのような動機にもとづいて行動したかは、問題ではない。社会生活を可能とするのは、各人の行動の相互両立可能性であり、各人の倫理観ではない。遵法精神にもとづいて法に従おうと、自己利益の観点から法に従おうと、法的には無関係である。
つまり、法が問題にするのは外的な行動であって、内心の動機ではない*13。「自由の法則が単なる外的行為とその合法則性とにかかわるかぎりで、それは法的(juridisch)と呼ばれる」*14。
だれもが共通の法秩序に従って各人の自由な行動を相互に両立させて社会生活を送る市民社会が成立する以前の段階が、自然状態(status naturalis)である。そこでは、何が正しいか、だれの権利がなにかについて多様な見解が成立し得る。各人が自己の権利を実現しようとすれば、戦争(bello)によってしか決着をつけることはできない。したがって、それは正戦(bellum justum)の状況である*15。
各人の権利が確立し、平穏に社会生活を送るためには、人々は自然状態を脱して、だれもが共通の(公的な)法秩序の下で生きる市民社会(societatas civilis)に入る必要があるし、だれもが他の人にそうするよう強要することが許される*16。「ホッブズが、人は自然状態を脱する必要があると言ったのは、完璧に正しい」とカントは言う*17。
市民社会、つまり国家の下での生活では、だれの権利が何か、どれがだれのものかは、国家権力が刑罰を通じて執行する共通の法によって定められ、配分される*18。ウルピアヌスの法諺「各人に各人のものを配分せよsuum cuique tribue」は、カントの解釈では、各人のものが何かが法によって設定され、配分される社会に他の人とともに入れ、という趣旨である。各人がすでに持っているものをさらに与えることはできないので、「各人に各人のものを与えよ」と、この法諺を理解することはできない*19。
他者の権利を害しない限り、人はどんな動機にもとづいてでも、さまざまな行動をとる自由がある。「他者の選択意志によって強制されることのない自由は、それが普遍的法に沿って他のだれの自由とも両立可能である以上は、すべての人に、人間であるがゆえに帰属する唯一の生来の権利である」*20。
しかし、他者の権利を害することは、自由のあらわれではない。他者の権利を害する外的行動に対する普遍的法にもとづく国家の強制(刑罰)こそが、自由を回復する。それは万人の自由と当然に両立する。違法な行為は他者の自由を阻害する。
そうした行為(阻害)の阻害は、普遍的な自由を実現することであって正しい。違法行為の阻害は、自然状態では戦争によって、市民社会では裁判を通じて、実現する*21。
犯罪を罰する市民社会の権利は、人々が共通の法により、それぞれに割り当てられた枠内で自由に行動する権利を保障する義務に由来する*22。刑法の唯一の役割はそれであり、そうである以上、刑罰の役割は犯罪の抑止にある。応報は刑罰の機能それ自体ではあり得ない*23。
ところがカントは、冒頭で見たように、刑罰に関して応報あるいは同害報復の観念に言及している。シャロン・バードによれば、この表見上の矛盾は、刑罰の機能とその個別の執行における正義の観念を区別することで、解決できる*24。
前述のように、法が問題にするのは、外的な行動であって、内心の動機ではない。法の命ずる義務は外的な義務にとどまり、倫理的な義務の観念が行為者をコントロールすることを要求しない。それでも、外的な法的義務に行為主体が適合して行動するよう動機付けることは必要である。法が動機付けに用いるのは感性的衝動であり、とくに嫌悪である*25。
義務だけでは動機づけられない人には、恐怖と希望、とくに恐怖により強制する必要がある。恐怖と希望は、法に反する傾向性に対抗する*26。法の違背と結びつけられるのは刑罰であり、そうする法が刑法(leges poenales)である*27。
法的な強制と威嚇によって人々の権利と自由は保障され、自然状態において権利を守るために必要であった正当防衛は不要となる*28。カントの法理論における刑罰の機能は、あくまで犯罪(違法行為)の抑止にある。
これに対して、応報の観念の主要な役割は、個々の犯罪者を正義に即して扱うこと、人としてそれ自体を目的として扱うことを担保する点にある。カントによれば、刑罰は、
犯罪者自身にとって、あるいは市民社会にとって、別の善を促進する手段にすぎないということはけっしてありえず、つねにもっぱら、その人が罪を犯したがゆえにその人に科されるのでなければならない。というのも、人間が他の人の意図のための手段としてのみ扱われることは許されないからである*29。
犯罪者に下される刑罰の種類と程度を決めるために、公的正義が規準とし得るのは、平等原則(Prinzip der Gleichheit)のみである。つまり他人を侮辱すれば自分自身を侮辱することになり、他人から盗めば自分から盗むことになり、他人を殴れば自分を殴ることになり、他人を殺せば自分を殺すことになる。同害報復の法(ius talionis)だけが、刑罰の質と量を明確に示す*30。
つまり、刑罰の機能は犯罪の抑止にあるが、刑罰を執行する個別の段階では、犯罪者に対して犯した罪と同等の刑罰を与えることのみが正義にかなう。それ以外の事柄を考慮することは、犯罪者を手段として扱うことである。
たとえば100万円を強奪した犯人には、必ず100万円の罰金を科さねばならない。法と経済学の観点からすると、立件されて有罪判決を受ける確率が50パーセントであるとすると、犯罪の効果的な抑止のためには、200万円の罰金を科す必要がありそうだが、そうした計算はカントの同害報復論からすれば許されない。100万円を超える残りの100万円に関しては、犯罪者は単なる手段として扱われていることになる*31。
疑問が浮かぶのは、このカントの議論では、同害報復こそが正義にかなうことが、当然の前提となっていることである。犯罪者当人に刑罰を科すことは、確かに正義の要請であろう*32。一般予防に役立つからといって、罪もない人を犯人に仕立て上げて刑罰を科すなら、明らかにその人を単なる手段として扱っていることになる。
しかしなぜ、刑罰の質と量は同害報復でなければならないのか。それは、論証抜きで前提されているように思われる。この前提があるからこそ、100万円の強奪犯への刑罰は必ず100万円でなければならないし、殺人犯への刑罰は必ず死刑でなければならない。しかしその点について、論証らしいものは見当たらない*33。犯罪が非難にあたいすることを社会に、そして犯人に伝えるために、必ず同害報復の刑罰を科すべきことになるだろうか。100万円の損害に対しては、民事裁判を通じて100万円の賠償を支払うべきだというのであれば、まだ理解はできるが。
応報の観念が、犯した罪と刑罰とが釣り合いのとれた(proportionalな)ものであることを要求するのは確かである。罪と比べてあまりに過酷な刑を科すべきではない。しかし、罪刑均衡の原則は同害報復と直結するわけではない*34。
道徳や法に関わる古くからの哲学的難問として、意志の自由がある。因果的決定論と人間の意志の自由とは両立し得るだろうか。両立し得ないとすると、犯罪者に責任を問い、刑罰を科すことは、正当化し得ないように思われる。意志の自由がないのは裁判官も同じで、彼らも正当化し得ない刑罰を科すよう因果的に決定されているという答え方もあるかも知れないが、これはただの居直りではあっても正当化ではない。
現代では神経科学(neuroscience)と意志の自由とは両立し得るかが問われる。人の思考のすべては神経系統の因果関係で決定されている以上、意志の自由は存在しないとの立場もあれば、細胞レベルのプロセスと神経細胞の活動にノイズとしてあらわれる量子レベルの不確定性が、意志の自由の根拠だとの立場もある*35。
カントの生きた時代では、ニュートン力学の描く決定論と意志の自由とは両立し得るかが問われた。決定論と意志の自由とを両立させる一つの仕方は、スピノザやライプニッツが示したものである。
彼らによると、自然界は因果法則によって変化し、精神の世界では理由の有無の判断にもとづいて行動が決定される。二つの世界は同時に、かつ並行して生起するが、両者の間に因果関係は働かない。両者の間に矛盾は起きず、常に調和している*36。
こうした考え方からすると、人の行動は因果関係によって決定されている以上、他の行動の選択肢は実はなかったことになる。それでも、人はだれに強制されるわけでもなく、みずから考え、欲求し、判断して行動している以上、意志の自由はある。
カントは、こうした議論は「惨めな言い逃れelender Behelf」にすぎないと言う*37。自然界の事象がすべて因果的に決定されているのであれば、人がいかにみずから考え、欲求し、判断していると思っていようと、自身の行動は自身の選択のおよぶところではない。それを自由意志と呼ぶことができるだろうか。それは一度ゼンマイを巻かれると自動的に運動する回転串焼き機(Bratenwender)の自由にすぎない*38。
それでもカントは、意志の自由と因果的決定論とは両立すると言う。しかも、ある人間の心構えについて深く洞察することができ、その行為に対するあらゆる動機を知り、かつ、影響を及ぼすすべての外的要因を知るならば、その人の将来の振る舞いを月食や日食のように確実に知り得るとしても、やはりそうだと言う*39。
この問題は、カントが『純粋理性批判』で採り上げた四つのアンチノミーのうち、第三のアンチノミーと関連する*40。他のアンチノミーと同様、このアンチノミーもテーゼとアンチテーゼとからなる。テーゼは、なにものにも起因しない(原因のない)原因が存在すると主張し、アンチテーゼは原因のない原因は存在しないと主張する。
一見したところ、原因のない事象など存在しないように思われる。因果関係はどこまでも遡ることができそうである。たとえビッグバンが世界の始めだったとしても、そのビッグバンはどうして起こったのかを問うこともできるだろう*41。
他方、因果関係を無限に突き詰めようとも、われわれの疑念が尽きることはなさそうである。無限に続く因果関係の連鎖自体は、何に起因するのかという疑問が浮かぶからである。その疑問に答えようとすれば、なにものにも起因しない原因(prime mover)を想定せざるを得ないのではなかろうか*42。
カントはこの問題を次のように解きほぐす*43。われわれの認識する世界の事象はすべて因果関係によって決定されているかのようである(それはわれわれの認識の構造がそう仕組まれているからではあるが)。しかしそれらは、現象界の枠内での話である。われわれの認識能力を超えた物自体の世界では、なにものにも起因しない原因が存在するかも知れない。つまり、テーゼとアンチテーゼとは矛盾しない(かも知れない)。
カントはこの問題が、意志の自由の有無という問題と直結していると考える。生物としての人は、そのすべてが因果的に決定されているように見える。行動のすべても因果的に説明することが可能であろう。しかし同時に人には理性があり、何をなすべきかを考え、判断する叡知的(intelligibel)な、感性を超えた性格も備わっている。
叡知的性格においては、人は自然の因果性から独立しており、自由である。人は現象界における因果関係をみずから開始する起点となる。因果関係に支配されているように見える人の行動は、因果関係に支配されることのない人の叡知的性格のあらわれにすぎないと考えることも可能である*44。
以上のカントの議論は、人に自由意志があることの証明ではない。意志の自由と因果的決定論とが論理的には矛盾しないという証明にすぎない。
しかしカントは、『実践理性批判』においては、神の存在と魂の不死とともに、意志の自由を措定することも純粋実践理性の要請だと主張するにいたる*45。道徳的主体として、人は自身の意志は自由であると考えざるを得ない──その証明は不可能だとしても。自由な意志にもとづいて行動し、自らが因果関係の起点となるからこそ、人は他者の権利を侵害する行為について、責任を問われる。
神の存在や魂の不死の措定と同様*46、意志の自由の措定に関するカントの議論がどこまで説得的かについては、見解が分かれるであろう*47。われわれが認識し得る現象界を超えた物自体の世界は、本当に存在するのだろうか。
とはいえ現代の法学者は、意志の自由について、あるいは違法行為の因果関係について、より確かな論拠を持ち合わせているであろうか。
*1 カント『人倫の形而上学』樽井正義=池尾恭一訳(岩波書店、2002)180−81頁[A6: 333]。
*2 カントは、「同害報復の法だけが……刑罰の質と量を明確に示すことができる」と言う(ibidem 179頁[A6: 332])。なお、訳語等を含めて、厳密には訳書に従っていない。以下同じ。
*3 HLA Hart, Punishment and Responsibility: Essays in the Philosophy of Law (2nd edn, Oxford University Press 2008) 234−35.
*4 TM Scanlon, The Difficulty of Tolerance: Essays in Political Philosophy (Cambridge University Press 2003) 220.
*5 B Sharon Byrd, ‘Kant’s Theory of Punishment: Deterrence in Its Threat, Retribution in Its Execution’ (1989) 8 Law & Philosophy 151; Thomas Hill, Human Welfare and Moral Worth (Clarendon Press 2002) 329−36; Marcus Willaschek, Kant: A Revolution in Thinking (Peter Lewis trans, Harvard University Press 2025) 121−22. 他方、こうした刑罰論自体の妥当性はともかく、カントの解釈としては支持できないとの見解として、Allen W Wood, Kantian Ethics (Cambridge University Press 2008) 212−13がある。
*6 格率とは、「主体が自らその規則とする(つまり彼がどう行動したいかに関する)原理である」カント(n 1)42頁[A6: 225]。
*7 Ibidem 25−26頁[A6: 213−214]および42頁[A6: 226]。ここで言う「自由の法則」は、人の内心にかかわる倫理規範と人の外的行動にかかわる法規範との両方を含んでいる[A6: 214]。
*8 長谷部恭男『歴史と理性と憲法と──憲法学の散歩道2』(勁草書房、2023)1−4頁、同『思惟と対話と憲法と──憲法学の散歩道3』(勁草書房、2025)131頁。
*9 この点については、誤解が行き渡っている。定言命法の要請にもとづいて人々が遵守すべき道徳規範が客観的かつ一義的に定まるとカントが考えていたとの誤った理解は、たとえばジョン・ロールズやトマス・ネーゲルによっても抱かれていた。See John Rawls, Lectures on the History of Moral Philosophy (Barbara Herman ed, Harvard University Press 2000) 244; Thomas Nagel, Equality and Partiality (Oxford University Press 1991) 48.
*10 カント(n 1)153頁[A6: 312]。
*11 Ibidem 48−49頁[A6: 230]。
*12 Ibidem 49頁[A6: 230]。
*13 Immanuel Kant, ‘Natural Right Course Lecture Notes by Feyerabend’ in Immanuel Kant, Lectures and Drafts on Political Philosophy (Frederick Rauscher ed, Frederick Rauscher and Kenneth R Westphal trans, Cambridge University Press 2016) 103 [A27: 1336].
*14 カント(n 1)27頁[A6: 214]。
*15 Kant (n 13) 163−64 [A27: 1381].
*16 カント(n 1)154頁[A6: 312]。
*17 Kant (n 13) 164 [A27: 1382].
*18 カント(n 1)347−48頁[A6: 460]。
*19 Ibidem 56−57頁[A6: 237]。ウルピアヌスの法諺は、『学説彙纂』1.1.10.1にあらわれる。
*20 カント(n 1)58頁[A6: 237]。
*21 Kant (n 13) 151 [A27: 1372].
*22 Byrd (n 5) 181; Hill (n 5) 329−30; Wood (n 5) 215−16.
*23 Byrd (n 5) 183; Hill (n 5) 329−30.
*24 Byrd (n 5) 183.
*25 カント(n 1)33頁[A6: 219]。
*26 Kant (n 13) 95−96 [A27: 1331].
*27 Ibidem 174 [A27: 1390].
*28 Byrd (n 5) 186.
*29 カント(n 1)178頁[A6: 331]。
*30 Ibidem 179頁[A6: 332]。
*31 See Byrd (n 5) 193−94. 別の言い方をするならば、具体的事件における個別の科刑に関しては、裁判官は特別予防効果も一般予防効果も考慮してはならない(Hill (n 5) 331)。
*32 See Hart (n 3) 9.
*33 See Wood (n 5) 214. アレン・ウッドは、厳格な応報刑論はカントの倫理哲学・法哲学と両立しないとする(ibidem 219−22)。同害報復が必ず求められるとすると、情状に応じて酌量減軽することも許されないこととなる。あまりにも硬直的ではなかろうか。
*34 ヘーゲルは、秩序が強固な社会では、犯罪に対する刑罰は軽くなるとする(『法の哲学(下)』上妻精=佐藤康邦=山田忠彰訳(岩波文庫、2021)135頁[§135R])。
*35 See Kevin J Mitchell, Free Agents: How Evolution Gave Us Free Will (Princeton University Press 2023).
*36 さしあたり、長谷部恭男「スピノザ国家論序説」同『憲法の階梯』(有斐閣、2021)34−38頁および長谷部恭男「スピノザから逃れて──ライプニッツから何を学ぶか」同『神と自然と憲法と──憲法学の散歩道』(勁草書房、2021)107−08頁。厳密に言うと、スピノザの場合、思惟と延長とは一つの世界に対する二つの描き方である。
*37 カント「実践理性批判」坂部恵=伊古田理訳、カント『実践理性批判・人倫の形而上学の基礎づけ』所収(岩波書店、2000)263頁[A5: 96]。
*38 Ibidem 264頁[A5: 97]。
*39 Ibidem 267頁[A5: 99]。
*40 カント『純粋理性批判』熊野純彦訳(作品社、2012)483頁以下[A444−451/B472−479]。
*41 Willaschek (n 5) 295.
*42 Ibidem.
*43 カント(n 40)552−72頁[A532−558/B560−586]。
*44 Ibidem 556−59頁[A538−541/B566−569]。
*45 カント(n 37)327−28頁[A5: 142]。
*46 長谷部恭男「神の存在の証明と措定」同『神と自然と憲法と──憲法学の散歩道』(勁草書房、2021)90−93頁参照。
*47 See Willaschek (n 5) 299.
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https://www.keisoshobo.co.jp/book/b10145412.html
【内容紹介】 書き下ろし1篇を加えて、勁草書房編集部webサイトでの好評連載エッセイ「憲法学の散歩道」の書籍化第3弾。心身の健康を保つ散歩同様、憲法学にも散歩がなにより。デカルト、シュミット、グロティウス、フィリッパ・フット、ソクラテス、マッキンタイア、フッサール、ゲルバー、イェリネク等々を対話相手の道連れにそろそろと。
連載書籍化第1弾『神と自然と憲法と』のたちよみはこちら。→《あとがき》
連載書籍化第2弾『歴史と理性と憲法と』のたちよみはこちら。→《あとがき》

