山根 先ほどの「ケアの倫理」の解釈には以下のような批判もあると思います。ケアする人は「ケアの倫理」だけでなく「正義とケア」を統合すればよい、つまり自分の権利と他者へのニーズを調停してなんとかやっていくべきだという議論です。相手を支配しないように自分の感情をコントロールし、自分を潰しちゃわないように自分の権利にも配慮し、それをうまいことコントロールしていく。すばらしいことですが、どれだけ強い人間であることを求められているんだろうと思います。ケアをしている人たちに、自分のニーズにも他者のニーズにも敏感であれ、それをうまく調停していくんだなんていう、そんなことまで要求できないですよね。そんなことでケアする人が葛藤しなくてもいいような仕組みを作らなきゃいけないのに。自分のニーズも他者のニーズもうまいこと調整してバランスとって、自分の健康を維持しながら、支配関係を避けながら最後まで親を看取るのがいい子どもだって言われたら、誰が介護したいですかっていう話です。
平山 あとがきにも書きましたが、私たちがこの本を書いたのは、もっとテキトーにケアに携われるような社会のあり方に変えていきたいからです。いま現在、大変すばらしいケアをしている人がいて、その人たちのおかげで生き延びられてる人がいることは本当にありがたいことなんだけど、ケアをするとなると、そういうすばらしい形で携わるしかないのだとしたら、ケアしたい人もケアできる人も限られてくるだろうし、ケアをちゃんと受けられる人も限られてしまう。
親が子どもに常に注意を払っていなくても、自分のことを優先する時間を増やしたとしても、子どもが安全に育ってくれる社会のシステムがあれば、ケアに携わりたいと思う親は増えるだろうし、子どもだって結局きちんとケアを受けられる。それこそがケアに満ちた社会なんじゃないですか。私たちがいま現在知っているケアには、ケアする人による注視や慈しみのイメージが貼り付いていて、ケアの倫理の議論はそういうこれまで通りのケアの概念を所与としているように見えます。でも、ケアすることのハードルをそんなに高いままにしていたら、ケアに満ちた社会なんていつまでも実現できないように思います。
山根 そうですね。私たちの話は、家庭であれ外であれ、ケアワークをしている人たちにケアの倫理が抑圧になるのではないかっていうことだったんだけど、もう一つ、今現在ケアをやってない人とかやらずに済んでる人たちには、じゃあケアの倫理って必要なのかっていうことについてはどう思いますか?
ケアの倫理が、正義の論理やリベラリズム一辺倒ではダメだって言うのはそのロジックなんですよね。個人の権利やプライバシー権のようなリベラリズムの論理で中絶の自由を根拠づけようとすると、他者の責任を考えざるをえない中絶の決断を理解できず、「胎児」の権利を主張する人たちからの道徳的な非難を招くことになる。だから、自律的個人を大前提とした政治哲学や法哲学を見直していく必要がある(山根 2004)。「ケアの倫理」の論者が一生懸命やってるのは、そういう政治哲学の人たちを説得することですよね。もっと違う方向に、生存の問題や脆弱性に目を向けようということを議論してきたわけです。これは現実の男性を変えるためにはある意味、意義がありそうにも見えます。でも、じゃあ男性も「ケアの価値に気づいて」にはどのくらい意義があるのか。もちろん、先ほどから繰り返しているように、それが本人にとって良いケアかどうかなんてのはわからないわけですし、それによって社会が良い方向に変わるかなんてわからない。結局はさっき言ったように、今ここでこの人が困ってる、どうしてこういう状況が生み出されたのっていう知識がなければ変わらないはずです。
ただ「みんなでケアをしよう」の必要性について思うこともあります。いつも平山さんにもお話ししてるネタですが、以前私が電車に乗った時に80歳ぐらいのおじいちゃんたちがいっぱい乗ってきて、おにぎりがたくさん入っているビニール袋を網棚に乗っけたんです。そしたら電車が揺れて、袋の口からおにぎりが全部床に落っこちたんです。私はちょっと遠くにいたんですけど、おじいちゃんたちの近くにいた男性が、拾ってあげるんじゃなくて、ここ、あそこ、っておにぎりが落ちてるところ指さして、おじいちゃんたちに拾わせるんですよね。指示は得意なんです。いや、本人は気遣っているつもりなんだと思います。でも拾わない。拾ってあげたらいいじゃないってこっちは思うんですけど、それをやるのが恥ずかしいんでしょうか。パブリックスペースで人を助けるなんてできない。これは極端な例ですが、そういう人たちに向けて、個人レベルでケアの倫理の主体になろう、一緒に拾ってあげたりするのっていいことだよねっていうのは、意味はありそうだなっていう部分はあるんです。そこは全否定はしない。
平山 何をもってケアとするのかでも違ってくるかもしれないですが、男性がケアすること、ケアできるようになることで男性や社会が変わるのでは、って考える時って、現在の男性のありかたとケアがかけ離れていることを前提にしてますよね。でも、さっきのカラサンティの研究でも指摘されていたように、悪い意味での「男らしさ」とケアって親和的なんですよ。たとえば、伊藤公雄さんは、男性が身に着けてきた「男らしさ」には権力や所有や優越の志向があると指摘されてるけど、そういう志向をケア関係のなかで満たすこともできますよね。依存的な他者をケアすることって、そういう相手の生殺与奪の権を自分が握ることだから。そういう意味では、これまで通りの「男らしさ」を大して変えなくても「うまく」ケアできちゃうことだってありうると思いますよ。
もう一つ、ケアの倫理の議論に即して考えると、男性はすでにケアしていることになる。トロントのケアの定義に従うと、たとえば交通機関を動かす仕事も、誰かの生活を支えているという意味でケアになる。要するに、人の行うほとんどあらゆる営みがケアになるわけだから。それに従って考えると、男性がケアをすれば社会が変わるとは言えない。なぜならこの社会で男性はすでに何らかのケアをしていることになるからです。だから、山根さんが男性がケアをしたら社会は変わるのでは、と考えるとき、おそらくそこでのケアは、トロントのような立場でのケアの倫理のケアとは、必ずしも一致してないと思う。
それに関連して言わせていただくと、ケアの定義を拡張することで、ケア責任のジェンダー不均衡を問題化することが難しくはならないのかな、っていうのはいつも思う。さっきのトロントのケアの定義に従えば、男性だってこの社会ですでにずっとケアを提供してきているわけじゃないですか。ケア責任のジェンダー不均衡を問題にする場合には、あまり良い手とは言えないように思うんですが、あの議論って。
山根 「ケア労働」という文脈以外での「ケアの倫理」についてはどうでしょうか。「ケアの倫理」の読者って多分男性もたくさんいて、そこには「自分たちが忘れてきた何か」みたいな、さきほどのゲマインシャフト幻想的なものがあると思うんですけど、でもそれを実際の社会に当てはめて考えている男性って見たことなくて。むしろ女性が「こういう場面ではもっとケアの倫理的に考えなきゃいけない」って頑張っている。
私は女子大でも教えているのですが、女子学生同士ってすっごい気遣いあってるんですよ。同じ人を好きになったら、友人を尊重するために好きな人あきらめるとか、それだけ関係性を重視して、関係性を維持している人たちに「ケアの倫理」なんて言ったら、一体何が起こるのって思うんです。だからって自分の声をあげよう、個人の権利をもっと主張するように、っていうのは単純な考え方だと思うんですけど、関係性を維持することに女性たちだけが一生懸命になっちゃう社会ってやっぱりおかしいなと思います。でも、たとえばエリート男性に、「脆弱」な状態にある人への責任を考えなさい――あなたたちみたいに自分の体を自由に動かせて、やりたいことができてみたいなのはすごく限定的で特殊なんだよみたいな議論っていうのは、まあ意味は持つだろうなっていうふうに思う。だから、誰がどこに向けて語るかが問題ですね。
次ページ:「性役割の社会化」論としての「ケアの倫理」が行きつく先

