コヨーテ歩き撮り#226
捕ったトビウオはこうして干しておき、スープにもするし炒飯にもする。 The catch of the day is immediately dried and later consumed all year round in soups or fried rice.
捕ったトビウオはこうして干しておき、スープにもするし炒飯にもする。 The catch of the day is immediately dried and later consumed all year round in soups or fried rice.
台湾の南東海上にある小さな島、蘭嶼(らんゆい)。島人たちは森で木を伐り、美しい釣り船をつくる。捕まえるのはトビウオ。 Ponso no Tao, also known as Orchid Island, is a small island southeast of Taiwan. The islanders cut down a huge tree and make it into a beautiful fishing boat. They catch flying fish which is at the center of their annual life cycle.
報道するために必要な取材。その取材方法として許される限界はどこにあるのでしょうか。[編集部]
この花の名は知らない。でもこの青は強烈。春の花。 I don’t know the name of these flowers. But their blue is striking. The color belongs to spring.
お札にいたずら書きをしてはいけません。でもこんなお札が回ってくると、ちょっと楽しいね。 Oh, please, absolutely no writing on a bill! But if it comes around, it will make your day.
カール・フリードリヒ・ゲルバーは1823年、チューリンゲンに生まれた。ライプツィヒ大学とハイデルベルク大学で法学を学び、弱冠23歳にしてイェナ大学の教授となった。その後、エアランゲン大学、チュービンゲン大学を経て1863年、ライプツィヒ大学教授となった。逝去したのは1891年である。学外では、ヴュルテンベルク王国の上院議員、ザクセン王国の首相等を務めている。ゲルバーはドイツ近代公法学の父と目されている。……
前回の記事の最後の部分にちょっとだけ立ち戻り、解説映像『ロバート・モリス 心/身問題』(1995年)でロザリンド・クラウスとロバート・モリスが昔語りをする老人たちを演じていたことを思い出してみよう。それがわざとらしい演出を伴っていたのは、老人の眼差しが本来クラウスにとって、批評家に相応しからぬものだったからである。遠くの過去ばかりを見ようとする老人の眼差しは、美術史家にこそおあつらえ向きだと、彼女は考えていた。クラウスは著書『視覚的無意識』において、影響源を探り当てようとする美術史家の関心を「出典探しのゲーム(game of sources)」と皮肉をこめて呼んだ。
映画館の看板に自分の名前が表示されたのは最初で最後でした。朗読劇『銀河鉄道の夜』を追ったドキュメンタリー映画『ほんとうのうた』(河合宏樹監督)の上映、ケンタッキー州レキシントンの老舗映画館ケンタッキー・シアター(1922年開場)にて。ぼくは舞台挨拶をした。 This is the first and only appearance so far of my name on the marquee of an American movie theater! In 2015, we screened the documentary film “True Song” (dir. Kawai Hiroki) that follows the travel of our reading play “Night on the Milky Way Train.” The theater is the historical Kentucky Theater in Lexington that opened in 1922. Thank you Doug Slaymaker (U of Kentucky) for arranging this event!
古い建物の壁一面を使った壁画。さむざむしい春の一日によく合った絵。ケンタッキー州レキシントンにて。 It’s a nice mural drawn all over the wall of a run-down building, matching the gray of a cold early spring morning in Lexington, Kentucky.
前回の記事で論じたように、ロバート・モリスもロザリンド・クラウスも、特殊な遊び場としての解説映像『ロバート・モリス 心/身問題』(1995年)で既存の現実に対し批評的な距離を取ることを試みた。モリスが距離を取ろうとしたのは、既存の芸術と既存の産業の双方が別々に築き上げてきた価値体系であった。とりわけこの解説映像で度々取り上げられるパフォーマンス《サイト》(1964年)は、階層化された既存の芸術とも、労働者を労働から疎外する既存の産業とも切り離されながら、芸術と産業の労働が交差するような実践の場にほかならなかった。……