虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察

虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察
第2回 はじめに(2)「たんなるリアル」を開く技術

5月 11日, 2016 古谷利裕

 

夢見られた一義性と、たんなるリアル

『パーティクル・フィーバー』に登場する物理学者たちは、その来歴も語られます。ニマ・アルカニ-ハメドという学者はイラン出身で、両親とも物理学者だったのですが、革命があって何年も身を隠して暮らし、7歳で逃亡を余儀なくされ、馬に乗って国境を越えてトルコに入り、クルド人居住区を通って、ようやくカナダ大使館にたどり着いて亡命したと言います。サバス・ディモポロスという学者の両親はギリシャ人で、家族はトルコで暮らしていましたが、60年代になってキプロス島をめぐってギリシャとトルコが争うようになり、難民として国を出ざるを得なくなったと言います。

映画のなかでサバスは語ります。右派と左派との間で政治が揺れ、ある時は右派の、またある時は左派の主張が正しいと感じ、なぜ正反対の主張の両方を正しいと感じるのか混乱した、と。そして、「真実が話者の雄弁さに左右されない」ような分野に進もうと、物理学を志したといいます。

幼少時に政治的混乱のただ中を生きたニマやサバスにとって、話者に左右されない「人類共通の真理(普遍)」の探求である証として、物理学の排他性(一義性)がとても重要だったのだと考えられます。しかしそうだとすれば、彼らにとっては政治的混乱(多義性)こそが強いられたものとしての「現実」であり、物理的な排他性(一義性)こそが、夢見られたフィクションであるとはいえないでしょうか。

もしかすると、現在強くあらわれている「現実主義」とは、あまりにも多義的であまりにも政治的でありすぎることを強いられた現在の「現実」に対する、排他性、一義性への夢(希求)なのだと考えることができるかもしれません。つまり、現実主義というフィクションではないか、と。

しかし、仮にそうなのだとしても、科学と、それを根拠とした技術が、それ以外にあり得る多くの世界観たちに対して圧倒的な優位にあり、圧倒的に大きな成果をあげているという事実は変わりません。科学が、人間たちによる夢として探求されたのだとしても、それが人間の夢やリアリティとは無関係の、「たんなるリアル」へと突き当たり、その領域へのアクセスを開いてしまったことは否定できません。この事実が事態をややこしくしているように思われます。
 

SFアニメの世界観

一つ目の前提として、強いられたものとしての「現実」があり、強いられたものに対する可能性拡張の実験(あるいは遊戯)である、夢見られるものとしてのフィクションがある、という区別を考えます。現実とフィクションは、きっぱりと分けられるというより、その強制の度合いによって、より現実的、より虚構的というように、段階的な区別としてあるでしょう。さらに二つ目の前提として、一方に、強いられた一義性と夢見られた多義性という対があり、他方に、強いられた多義性と夢見られた一義牲という対があると考えられます。現実とフィクションという対立項のなかに、一に対する多、多に対する一という、対立と置換関係の問題が潜んでいるように思われます。

ここまでは、人間的なリアリティ(現実感)の領域であるといえます。このような、人間的なレベルでの現実/フィクションという二項の対立とは無関係にあるものとして、たんなるリアル(現実)という領域の存在を考えることができます。そして、科学と、科学を根拠とする技術が、本来人間とは無関係にあった「たんなるリアル」の領域へのアクセスを、人間に対して無視できない形にまで大きく開いてしまったと考えられます。

いや、たんなるリアルが人間と無関係であったというのは間違いでしょう。我々は、たんなるリアルのという地盤の上に存在しているのですから。しかしそれは、世界の神秘として、触れることのできない深淵として、直接的なアクセスが不可能な、認識できる世界の外部にあるものという表象によって、捉えられていました(象徴秩序にあいた穴、表象不可能なもの、語り得ぬもの、現実界、崇高、など)。世界の外部というイメージが、様々な形をもつ彼岸や異界、冥界のフィクションを産み出し、我々はその作動を通してたんなるリアルと関係していたと考えられます。たんなるリアルという穴(深淵)を、様々なフィクションで必死に蓋をして、その上に生きていた。しかし現在では、彼岸や冥界が科学と技術の言語によって描かれ、あるいは翻訳され、しかもそれが技術を通じてものすごい勢いで人間的な内部世界に侵入し、内部世界の構成に、(フィクションを通じてではなく、直に)ドラスティックな変化をもたらしているといえます。

以上の前提を確認した上で、ここでは今後、主にSFアニメにおける世界観の形を検討することを足掛かりとして、フィクションについて考えていきたいと思っています。主にSFであるという理由は、フィクションの成立に技術的な要素が強く絡んでいるからです。フィクションというものの可能性(あるいは限界)を考える上で、SFアニメというフィクションのなかで、現実と彼岸(≒フィクション)とがどのように構造化され、その構造に技術的要素がどのように絡んでいるのかという点についての分析を入口としたいということです。
 
次回、6月1日(水)更新予定
 
 
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第1回 はじめに(1)フィクションの価値低下のなかでフィクションを問うこと
 
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