治らない病気を抱えながら、なお社会で人として生きるとは、いかなることであるのか 連載・読み物

治らない病気を抱えながら、なお社会で人として生きるとは、いかなることであるのか
第1回 難治性疾患の患者として生きるということ

6月 02日, 2016 大野更紗

 
「これで、終わりにしよう」と決めた――20代半ばで自己免疫疾患系難病患者となった著者は、いかにして難病医療の世界の住人たちと出会い、孤独な経験から抜け出す糸口を得たか。
指1本を動かせなくても、医師、ケアに従事する専門職、研究者、官僚、政治家、企業、それらのネットワークの中心にいてつなぎとめ事態の進展を促すというあり方も現実にあり得るのだ――治らない病を抱え生きることの意味は、多元化し、かつてとは異なる病者/患者が出現しようとしている。[編集部]

 
 
 私は普段、「難病」と呼ばれる医療政策について、医療社会学の研究をしている。自分自身が自己免疫疾患系難病の患者でもある。

 

現代の日本社会において、難治性疾患の患者として生きるということは、いくつものコンテクストに否応なくさらされ巻き込まれながら、ようやく生きるための術をその場にある限られた選択肢から選択していくことだ。「あなたはご自身の自由意志に基づいて選択し決定をすることができます」という趣旨が記してある用紙を病院の廊下で握りしめながらも、生きのびるための窮余の策はただ1つしかなかったと感じる。

小説や教科書に出てくるような「病者」として常日頃振る舞っているわけでもない。

ある日は早朝から永田町駅まで出て参議院会館のセキュリティ・チェックを通過し、国会議員の部屋で資料を指示しながら患者の窮状を滔々と説明する。ある休日は近所に新しくできたカフェで友人と待ち合わせし何時間もお喋りに興じて、疲れきって怠さが満ちる身体に明日の仕事への影響を憂いつつも、生きていることの喜びににんまりと笑む。ある日は文献調査に出かけて行った施設の書庫の中で、実際に会うことは叶わない記録の中の患者や医師と会話をする。ある日は大学附属病院の検査室の入り口の前で青い検査服に着替えながら、いつまでも続く身体的苦痛に耐えながら生き続けていることについて、葛藤や精神的痛みはそのほとんどをたった1人で孤独に砕いていることについて、否定も肯定もせずにただ考え込む。

現代の病者としての自分をめぐる多岐に渡る複雑な現実について、よく整理して言語化することは容易なことではない。刻々と浮き沈む病状に対応することに追い込まれ、無秩序でとりとめがないように感じる事実の羅列は明確な思考の邪魔になるような気さえしていた。謎は深まるばかりである。ともかく朝起きて副作用が強いが症状を抑制するためには欠かせない薬を、ポットの中で冷めている白湯と一緒に飲み込んだらば、自分自身の経験の世界からはいったん離脱しドリップコーヒーをがぶがぶと飲みながら論文を書くのが仕事だ。

 

疾患が傍らにあることはこれほど大変で苦しいのになぜ生きながらえるのかという暗い霧に迷い込んだような、他人とは共有し難い自問は、次々と単純で解きにくい質問を生じさせていった。われわれは、社会にとって依然として無用の存在であるのか? 歴史上の声無き多くの難治性疾患患者がそうしていたように、次世代に同様の状況とならないよう疾患の研究の貴重なサンプルとして身を捧げるほかは、現代社会の人間が皆当然に享受する自由を追求することは叶わないのか? 少数の幸運で恵まれた人を除いては、多くの患者が日々生活することそれ自体の苦しさにあえぐ現実にどうしたら解決策を見いだせるのか? こうした自問を孤独に繰り返しては堂々巡りするのは長い期間続かなかった。

 

憂を晴らす糸口

難治性疾患の患者さんが、多くの場合独りよがりな憂いを晴らす糸口を示してくれた。ALS(筋萎縮性側索硬化症)[i]という神経難病の患者さんで、岡部宏生さんという方がいる。岡部さんは24時間常時人工呼吸器を装着しており、経管栄養で生命維持に必要な栄養を摂取する。街中でお会いする時は、シンプルな構造のストレッチャー式の手押し車いすに横たわり、2人のコミュニケーション支援ができる介助者に付き添われている。身体の運動をつかさどる運動ニューロンが変性していく疾患に罹患しているので、岡部さんが現在日常的に動かせるのは目線と瞼、唇がわずかに変化するのみである。顔の表情ですら時の経過とともに次第にわずかな変化のみとなっていく。岡部さんと繋がっているマシーンが静かに規則正しく呼吸する音を聞き、微動だにしない身体を目の前にして、私がまず直感的に感じたことは底知れない尊敬だった。あまりにも重い障害に接すると、人は他人に対して敬意を通り越して一種の神秘性のような感情すら抱くらしい。岡部さんがどれほどの知性と途方もない忍耐力の積み重ねによって1回の呼吸をして一言を紡ぎだしているのかということを、ほんのわずかな程度でしかないが自身の身体的経験から想像するからである。岡部さんは普段はほんの少しだけ動く唇と瞼で子音と母音を介助者に伝え、介助者は動きを読み取って代わりに音声にする。年に何度かお顔を拝見する機会を得るが、岡部さんから「忙しいですか、疲れているのではないですか」と声をかけていただくと、「いいえ、まったく!」と反射的に返してしまう。

 

Patients centered healthcare

岡部さんを初めてお見かけしたのは、有楽町の東京国際フォーラムの小さなホールで、岡部さんが大勢の研究者と技術者に囲まれ、動かない腕の表面に試作されたばかりのスイッチを装着している時であった。HAL[ii]と名付けられたサイバニックスイッチが微弱な生体電位信号を感知して、物理的な身体の動きがなくても入力信号を得ることができる。岡部さんは文字通り「念じて」キーボード入力を行い、代読する電子音声が研究者たちの労をねぎらった。会場には異様な緊張感が生じていて、出席者のほとんどがその様子を息をするのも忘れて見つめていたように思う。目の前で、何事か大きな変革が起こっていた。この方々が「社会に無用」などと、何故一度でもよぎっただろうかと猛烈に自分を恥じた。指1本を動かせなくても、医師、ケアに従事する専門職、研究者、官僚、政治家、企業、それらのネットワークの中心にいて繋ぎとめ事態の進展を促すというあり方も現実にあり得るのだ。

医科学による治療するための介入について、今日、難治性疾患の患者当事者は積極的な参画をしている。現代においては、医薬品の創薬や臨床研究での希少性・難治性疾患の患者の参与の様相は単なる介入の対象には留まらない。医療者による疾患の基礎研究やレジストリの構築に協力をし、患者団体で患者主導型調査研究を行うことなどは、日本でも物珍しいことではなくなってきている。「エキスパートの素人」として専門家の言語と論理を理解し高度に戦略的に行動する患者さん方を見ていると、このような現象そのものが現代の難病医療の営みの一部となりつつあるのかもしれないとも考える。

 

2016年に開催されたある医科学系の学会で、ヒトゲノム計画の立役者の1人であるMITのエリック・ランダー教授の発表を聞いていた。アメリカの臨床研究の進捗に関する発表だったが、力強く「今後の研究の展開にとって、最も重要な要素は『患者』だ」と話していた。私が着席していたラウンド・テーブルに座っていたのは医師の研究者ばかりで、そばに知り合いもいなかったので、1人で目をぱちぱちと瞬きしながらその言葉を聞いた。そんなことを聞いたことがなかったから、少なからず驚いたのだ。スライドには ”Every patient should have the right and the ability to access and share their genomic and clinical information to accelerate progress against disease.”  と記してあった。急いでメモをとり、学会の帰り道に地下鉄の中でノートを見直した。患者は、医療という社会サービスを受ける対象でもあるが、提供側のメンバーの一員となることも要求されているのである。

 

孤独な経験のあとで

患者が発症後に最初に迷い込むのは、多くの場合、先の見えない苦痛と救いのない混迷だ。疾患に誠実な専門家の存在なくしては、息をつくこともできない。

2009年の9月。私は過去1年間にいったい何人の医師に助けを求め続けてきたのか、わからなくなっていた。個人開業のクリニックから中小規模の一般病院、誰もが知っている有名な大学病院まで、数多の病院の診察券でトランプができそうだったが、薄いプラスチックのカードに触れるだけで、炎症で真っ赤に腫れた指先は針を刺すように痛んだ。手指のあちこちには潰瘍の穴が深くあいていて、もう骨まで見えそうだった。けれども誰も、消毒液を綿に染み込ませて血液や浸出液を静かに拭き取る処置すらしてくれなかった。ある大学病院の診察室で皮膚科医は、診察までこちらは半日狭い病院のソファで身を強張らせて待ち続けていたのだが、数分間問診するだけで「様子をみてください」とろくすっぽ私の顔も見ずに応えてその日の診察の終了を告げた。違う大学病院の膠原病内科医は、医療に不慣れな患者にも初見でわかるくらいに露骨に面倒くさそうな顔をして「今後はご実家にお戻りになられてはどうか」と言った。症状が日に日に増悪してゆくが、一向に診断が出ないのだ。39度の熱は何をしようとも下がらない。全身症状が進行して痛み続ける。

既に、飲むことも食べることも、眠ることさえ苦痛だった。消化器の粘膜も眼球の中も、身体のどこの筋膜も炎症だらけだった。筋肉や皮下組織は腫れて動かず、布団から台所まで水を取りに行くことができなかった、朦朧としながら床をはいつくばってシンクの蛇口を捻った。喉の粘膜は血がにじんで乾いていたが、トイレまで動くことができずにほんの一口だけなめるように嚥下して水分摂取は我慢をした。25年間生きてきて、これほど長い時間身体的苦痛に苛まれるのは初めてのことだった。ずっと人並み以上に健康だと考えていたし、20代前半は体力にかまけて僻地を歩き回るような研究をしてきた。年齢も若く、体調が急変して悪くなるような心当たりもない。

すっかり、医師を信じられなくなっていた。検査のバイオマーカーの結果が医学の教科書に載っているほどには明確でない時、アルゴリズムで導き出せるありきたりの診断像よりも現実の患者の症状が複雑な時、標準的な診断基準から大きく外れるケースを目の当たりにした時。医療が発達したと世間で言われていても、簡単に20代半ばで人間は死んでしまうのだと思った。私はそのようなケースなのかもしれないと考えると、天井に真っ黒に穴があいている悪夢をみた。死の恐怖からではなく、症状からくる痛みや苦痛を何の有効な医学的介入無しにこの先ずっと耐え続けなければならないことを想像してのことだった。

 

そのような経緯から「これで、終わりにしよう」と決めた。1人では水も飲めなくなってからは福島県にある実家に一時的に身を寄せていたので、郡山駅の東京行新幹線ホームのへりに立って携帯電話を痛む手で握った。東京の、次に新しく診察を受ける大学病院の電話番号をプッシュした。この電話をかけ、いかにも機械的な応答をされたり厄介がられたり、どうやら手に余りそうだというあの独特の堪えがたい雰囲気が伝わってきたならば、ホームの下へ飛び降りる予定だった。呼び出し音が数回鳴ると異様に明るい揚々とした声が電話口から聞こえた。「ハイハイ、こちら××研究室!」 大学病院に電話をかけて、研究室の呼称をそのまま名乗られたのは初めてだったので驚いてホームから後ずさりした。いったんは決めていた予定は、先送りとなった。難病医療の世界の住人との出会いだった。

 

難病医療の世界の住人たち

これまで難治性疾患の患者として、医療の世界で「専門家」と呼ばれる類の医師たちを傍目から見てきた。診断がつかなかった時期の出来事をすぐに整理はできずに当初は恨み節半分だったが、治療を受けている途中で考えが変わった。主治医らの仕事ぶりを見ていて「なんて、大変な仕事だ」と思いはじめたのが契機だった。自分自身が大学院の研究の場に戻り、難病対策の政策を議論する審議会の中心に座している専門医らの言行に接するようになってからは、考えがさらに変わってきた。医療の世界では、難病を取り扱う医師たちほど興味深い住人はいない。大学病院の臨床の最前線に立ちながら、同時にラボで研究もする。凄まじいワーカホリックな臨床医でありながら、アカデミックなフロンティアを開拓する研究医[iii]でもある。大学病院や国公立医療機関の診察室で主には難治性疾患の患者を診察しながら、和文、英文の医科学のトップ・ジャーナルに投稿をし続ける。そして、常時はほとんど俗世間に登場してこない。したいとも思っていなそうである。独自の行動形態、慣習、行動の論理を持つこういう特殊な専門家たちが、今、あるいはかつて、何を志向して難病という人類にとっての謎に関わってきたのかが現在の私の研究上の関心事の1つでもある。

 

患者が社会における生存を求めるための争議と、医科学コミュニティの営みと、公共のヘルスケアシステムが交差する境界のうえに、今日の難治性疾患をめぐる医療は複雑に形を成している。治らない病を抱え生きることの意味は、多元化し、かつてとは異なる病者/患者が出現しようとしている。

 


 
 

[i]筋萎縮性側索硬化症(ALS)は、2014年末の特定疾患医療受給者証所持者数は9,950人である[厚生労働省 2015]。
[ii]HAL®はCYBERDYNE社が技術開発を行い、医療用ロボットスーツ等で実用化がなされつつある。厚生労働科学研究費補助金難治性疾患実用化研究事業「希少性難治性疾患―神経・筋難病疾患の進行抑制治療効果を得るための新たな医療機器、生体電位等で随意コントロールされた下肢装型補助ロボット(HAL-HN01)に関する医師主導治験の実施研究」(研究代表者・中島孝)で医師主導治験が実施され、2016年4月に医療用下肢タイプが特定の神経・筋疾患患者の治療に限定して初めて医療機器として保険収載された。
[iii]「研究医」とは保健医療政策上に公的に策定された用語ではなく、筆者の造語である[渡部 2016]。国公立病院や大学病院等の公的な医療機関に所属しながら、国の難病等に関する医科学研究事業に参与する形態を有する医師を指す。
 
文献
厚生労働省[2015],「平成26年度衛生行政報告例」。
渡部沙織[2016.4],「戦後日本における「難病」政策の形成」『季刊家計経済研究』第110号,pp.66-74。
 
/今岡一穂

大野更紗

About The Author

おおの・さらさ 1984年福島県生まれ。明治学院大学大学院社会学研究科社会学専攻博士後期課程。日本学術振興会特別研究員(DC1)。専攻は医療社会学。難病の医療政策史、難治性疾患の医療政策、ジェネティック・シティズンシップ(遺伝学的市民権)論、難治性疾患患者の社会経済的負担の分析等が直近の研究テーマ。 Website: https://sites.google.com/site/saori1984watanabe/