虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察
第4回 冥界としてのインターネット 「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」と「serial experiments lain」(1)

About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
Published On: 2016/6/22By

 
 

科学的世界観とオカルト的世界観

「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」(以下「攻殻」)も「serial experiments lain」(以下「レイン」)も、どちらも情報のネットワークの中から意識、あるいは人格、魂と言えるようなものが発生するというアイデアを共有しています。「攻殻」では、外務省が情報収集のために極秘で用いていた違法なプログラムに、情報の海の中を彷徨ううちに自律した意思が芽生えます。並外れた力量をもつ謎のハッカーが出現し、それを捜査するうち、そのハッカーはネットで自然発生した存在だったという事実に行き着くという物語の展開は、「マイクロチップの魔術師」と重なっています。「レイン」では、ネットにアクセスする人々の集合的無意識がつくり出したアイコンであるレインが、いつの間にか意識をもつようになります。どちらの物語においてもインターネットは、それ自体が新たな魂を生み出す力を秘めた特別な領域であるかのようなイメージで捉えられています。

しかし、二つの物語の指向(嗜好)性は大きく異なっています。「攻殻」は、様々な先進的なテクノロジーが実現した未来社会を舞台としており、基本的に科学を真理とみなす世界観を背景として展開します。出来事に対して論理的で科学的な理屈付け(裏付け)ができることが前提で物語が語られるという意味で、正しくサイエンス・フィクションであると言えるでしょう。一方「レイン」の方は、インターネット(作中ではワイアードと呼ばれています)やパソコン、モバイル端末以外にも、ナノテクノロジーを用いた麻薬や没入型のネットゲームなど、当時考え得るものとしてはきわめて先鋭的なテクノロジーの数々が(それに加え様々なギーク的用語も)登場しますが、それらは媒介物であり小道具であって、基本的にはオカルト的な世界観によって物語が展開されてゆきます。テクノロジーは、リアリズムの世界とオカルト的世界とを結び付ける霊媒のような役割をもちます。テクノロジーとオカルトの結び付きは疑似科学的な胡散臭さを発生させますが、ここではその胡散臭さが胡散臭さとして楽しまれます。胡散臭いことと、それを認識しつつもそこに抗い難い吸引力を認めることとの、ギリギリのバランスがこの物語の魅力だと言えます。

(1995年にオウム事件があり、日本ではその後、オカルト的な想像力をもとにした思想や創作物は強い抑圧を受けます。このような作品が、事件の2年後という抑圧がきわめて強い時期に制作されたということは驚くべきことでしょう。)

つまり、冥界=インターネットが、科学的な描像で描かれるか、オカルト的な描像で描かれるかの違いがあります。そして、「攻殻」の科学指向と「レイン」のオカルト指向とは、逆向きのベクトルのように見えて、実は相補的であるように思われるのです。では、それぞれの物語についてもう少し詳しくみていきましょう。
 

「私」に関する思考実験

「攻殻」は、世界的にも高い評価を得て、その後も長くつづく人気シリーズとなりますが、アニメとしての第一作であるこの作品は80分程度の比較的小さな作品です。物語もそれほど複雑なものではありません。多くの人を驚かせたのは、物語以上にその背景にある世界観の新しさと深さでしょう。

まずここでは、電脳化と義体化という概念が重要です。電脳化とは、脳のなかにマイクロマシン(自律的に稼働する超小型の機械)を注入することで、脳(意識)を直接ネットワークにつなぐ技術と考えてよいでしょう。ネットへの接続方法は無線と有線の二種類あり、首の後ろ(うなじ)に取り付けられた接続用ジャックにプラグを差し込む仕草は公開当時とても斬新に感じられるものでした。電脳化によって、自分の手足を動かすのと同じように、ネットワークに接続した機械を動かすことができるようになりますし、電脳化した他人の脳と直接コミュニケーションすることも可能になります。もちろん、アクセスには制限があり、ネットワークや他人の脳にどこまでも深くに、勝手に侵入することができないのは、我々が使うインターネットと同じです(そして、インターネットと同様ハッキングされる危険はあります)。電脳化によって、自分の体の一部分を機械化することが可能になり、それを義体化と言います。

主人公の草薙素子は、事情により生まれた時から全身義体で一度も生身の体をもったことがありません。脳だけが唯一の生身の自分であり、自分の根拠です。そのため、草薙は常に自分が自分であることの不確かさの感覚を抱えています。

思考実験をしてみましょう。私の体の部分を、少しずつ機械と取り換えていくとします。まずは左脚のひざの下の部分、次に右手首より先、というふうに。脳も、その機能の一部ずつ、小分けに機械へと代替します。すると、私は「私である」という連続性(意識)を保ったまま、少しずつ機械と入れ替わっていき、ある時すべてが機械となります。その切れ目のない連続的変化の過程の、どこまでが私で、どこからが私ではないのでしょうか。もう一つ。例えば、私は私の記憶の一部を外部化します。メモをとったり、日記を書いたり、写真を撮ったりします。私は、私のする計算や思考の一部を外部に依存します。そろばんや計算機を使ったり、前例を調べたり、経験豊かな先輩に相談したりします。私はこの文章を書くために図書館やネットを利用します。本を探したり、ウィキペディアで調べたり、検索して見つけたサイトを参照したりします。この時、どこまでが私の頭(脳)が行う思考で、どこから先が私ではなく、周囲の環境の利用と取り入れなのでしょうか。

草薙は全身が義体であるため体のパーツをいくらでも自由に取りかえることができるし、特別に高い能力をもつハッカーでもあるため、ネットワークや他人の脳の奥深くにまで比較的自由に侵入できます。だからこそ、自分が無限小の点にまで縮小してしまうように感じ、また、ネットワーク全体へと拡散して消えてしまうようにも感じます。このような草薙の感情が、この物語の基底にあります。

草薙は、その存在が「私」の固有性や連続性についての思考実験であるようなキャラクターだと言えます。つまり、極端な例ではありますが、草薙が抱く「私」の不安定感は誰にでもあてはまるものでしょう。「攻殻」では、「私」の固有性や連続性を保証する根拠がゴーストと呼ばれます。さしあたり、「私」の連続性を内的に保証する指標として、記憶の一貫性が挙げられるでしょう。しかし、ゴーストはたとえ記憶が失われたとしてもなお一貫する「私」の指標であり、そうであるが故に、「私」の固有性や連続性を保証する魂のような何か、という抽象的な定義しか与えようがありません。

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About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
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