虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察
第5回 冥界としてのインターネット 「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」と「serial experiments lain」(2)

7月 13日, 2016 古谷利裕

 
 

テクノロジーという手続きと、直接性

「攻殻」において、物理世界と冥界としての情報世界とをつなぐのはテクノロジーです。電脳化、義体化、そして情報ネットワークというインフラの整備があってはじめて、物理的生物である草薙と、情報的生物である人形使いとの融合という出来事が生じ得る土台ができるのです。テクノロジーという条件なしにそれはあり得ません。これは例えば、ヒッグス粒子が、精密な物理学の理論や数学、LHCのような巨大な精密機械などを媒介としなければその実在に触れることができないということと同様です。ヒッグス粒子を人が直接五感で感じることはできません。そこに至るためには、複雑な因果関係のネットワークを一つ一つ手繰ることが必要なのです。

一方「レイン」では、情報に関するテクノロジーはあちら側(冥界)の扉を開くための道具の一つであり、きっかけとなるものに過ぎず、最終的には情報世界と物理世界とが「デバイス無しで」、つまり手続きを経ずに直接的に結ばれることが目指されます。この底にあるのは、人々が集合的無意識によって繋がっているという感覚でしょう。

「レイン」において、デバイス無しで人々が情報空間にアクセス可能であるとする(つまり、情報世界と物理世界との無媒介での融合が可能であるとする)根拠は、シューマン共鳴(シューマン共振)に求められています。以下に、総務省のホームページにある東海総合通信局の記事から、シューマン共振についての説明を引用します。
 

 自然界で、電磁波の主な発生源と言えば雷です。

 雷雲内に発生した多量の電荷が雷によって大地に放電されます。その電流は、数千アンペアから数万アンペアに達します。

 雷によって発生した、数ヘルツから数百メガヘルツの電磁波のうち、電離層に反射する低い周波数は、大地と電離層の間を何回も反射しながら進行し、特定の周波数で共振します。

 雷は、世界中で絶えず発生しています。(1日に約5万個の雷雨が発生し、1秒間に100回ぐらいの雷が落ちているといわれています。)

 従って、太古の昔から低い周波数の電磁波は地球上を駆けめぐっていたのです。
http://www.soumu.go.jp/soutsu/tokai/mymedia/26/1224.html

 
 太古から現在まで、地表と電離層との間で途切れることなく常に響きつづけている特定の周波数(7.8キロヘルツを中心とした一定範囲の周波数)の電磁波があり、あらゆる存在は地球上にある限りずっとその周波数とともにある。「レイン」では地球の脳波と呼ばれるこのシューマン共鳴に、すべての人間の脳は影響を受けているはずだ(実際、人の脳波も近い周波数をもつという)というのが、脳と脳とのデバイス無しネットワーク形成の根拠となります。その信憑性はともかく、ここでの根拠はテクノロジーではなく自然であり、地球そのものにあるということです。だからこそ直接性が肯定されます。

このようにして、科学を根拠にした詩的イメージによって無媒介(直接)性を正当化するのが疑似科学のパターンであることは言うまでもないでしょう。しかしここで「レイン」という物語が、科学の詩的な流用を肯定して謳い上げてはいないことに注意すべきです。むしろここではその胡散臭さこそが強調されます。シューマン共鳴について触れられる第九話「PROTOCOL」では、情報技術が発展する歴史を紹介しつつ、それとUFOを廻るオカルト話やかなり怪しいニューエイジ的実験の話を同列に並べ、関連づけて示しています。その流れの最後にシューマン共鳴の話が出るのです。そこには、この「根拠」もそれらのトンデモ話と同様のものであり、信用に足るのもではないというメタ・メッセージが発せられているのです。つまり、これは物語を支える根拠などではなく、シャドーピープルや陰謀論などと同様に、物語にオカルト独自の感触(ヤバさ)を付与する要素の一つであるにすぎないのです。
 

疑似科学への批判性

比較のために別の作品を取り上げてみましょう。「攻殻」と同様に、士郎正宗が原作でプロダクションI.G制作の「RD 潜脳調査室」(2008年)というアニメがあります。オカルト的ではなく科学を真理とする世界観の合理的なSFで、電脳、義体化などの技術が可能になっている点など多くの設定が「攻殻」と共有されています。ここで、情報ネットワークの世界はメタル(メタ・リアル)と呼ばれ、ネットワーク世界が「海」として表象されています。ハッカーはダイバーとして表象され、情報空間への関与は海に潜るのと同じイメージで表現されます。ネットワーク世界としての海は、比喩やイメージを超えて実際の海と連続的であるかのように扱われます。つまり、テクノロジーと自然とが比喩を介して当然のように混同されています。さらに、地球律と呼ばれる、ガイア(地球)の意思のような「自然」が、テクノロジーに抗するものとして物語上で非常に大きな意味をもちます。そして最後にはすべての人の意識が(テクノロジー抜きで)海=水を通じて繋がる瞬間が訪れます。

海=無意識=ネットワークというイメージ上の同一化、そしてテクノロジーへの批判として地球律(=海の神秘主義)というガイアの意思をもち出すこと。これらに比べて、「レイン」におけるという物語が、ことさら疑似科学に対する批評的距離を欠いているとはいえないと思います。むしろ、あからさまにオカルト的意匠を纏う「レイン」の方が、その取扱いが繊細であるでしょう。

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