連載・読み物 医学史とはどんな学問か

医学史とはどんな学問か
第4章 ルネサンスと解剖学の発展 1500-1600

8月 10日, 2016 鈴木晃仁
「解剖劇場」という空間

 

以上に見たように、ルネサンスの解剖学は、医学と医学教育という特定の文脈を超えて、絵画の媒介を通じてより広い文化の中で共有される主題となった。解剖学がルネサンス文化と共鳴するにいたったもう一つの重要な装置は、それが行われた「劇場」という側面である。ルネサンス期のヨーロッパの各地で、シェイクスピアらが演劇を提供し、モンテヴェルディたちがオペラを上演した「劇場」という空間は、ルネサンス期に興隆・再興した文化的な装置であったが、解剖学も劇場で提供されるイヴェントという性格を強くもつ営みであった。解剖が行われる場所は「劇場」を意味する theatre の語が用いられていた。じっさい、何かを「上演」するために常設の建物を建てることが近代ヨーロッパで最初に行われたのは、解剖講義が行われる解剖劇場であると示唆する研究者もいる。

解剖講義は、通常は年に一度の一大イヴェントで、医学校にとってもっとも重要な公的な行事であった。市当局から公式に大学に死体が与えられ、聖職者や市の公職にあるものなどの重要人物が立ち並び、医学校からは、解剖学の教授・講師たちはもちろん、他の科目の教授たちも正装して出席した。それ以外にも、街の医師たち、医学部以外の大学の教授なども招待され、場合によっては、頭部を解剖するときには頭を使う学者を、情念の座である心臓を解剖するときには詩人たちを招待するといった趣向も凝らされていた。当初は、これらの招待者は、教会や会堂、あるいは解剖学講義にあわせて仮設的に建てられた設備に収容された。16世紀のボローニャ大学では、解剖台を取り巻いて4列の椅子を円形に並べ、約200人を収容できる仮設の設備を実施していた。

16世紀の末から、各地の大学で仮設の講堂から常設の解剖劇場への移行が始まり、解剖がもつ劇場の性格が顕著になった。ヴェサリウスが去ったのちのパドヴァでは、1584年に最初の常設の解剖劇場が建てられた。これが焼失したのち、1594年には第2の常設の解剖劇場が建設された。この常設の解剖劇場で解剖学を講義した最初の教授はファブリツィウス(Fabricius ab Aquapendente, 1533-1619)であったが、彼が常設劇場で行った解剖講義はヴェサリウスとはかなり異なった方向性をもっていた。ヴェサリウスの解剖講義が、短期間で人体の構造全体についての知識を得ることができ、視覚的・触覚的に確認できる構造を強調し、学生たちに「死体に手で触れてみて自分の感覚で感じてみなさい」と説くなど、手仕事としての解剖に興味をもつ外科医や外科的な傾向をもつ医学生たちに人気があったのに対し、ファブリツィウスの解剖講義は、ある特定の器官を選んで、その器官を取り出してその生理学的な機能を集中的に説明するという知的・理論的な面を強調していた。そして、ファブリツィウスの解剖講義はこの方向性に合わせて演出されていた。実際に聴衆・観衆がいる劇場部分と、デモンストレーションのために器官を標本にする作業室に分かれており、作業室で標本にされた器官が劇場部分にいる聴衆に回覧されて、それぞれの構造がもつ目的と機能が明らかにされた。解剖劇場は、人体という神の最高の被造物についての真理が語られる空間となり、自然についての真理が医学校の学生のみならず、大学教授や聖職者などの知識人たちに向かって語られる、厳粛で崇高な知的探求の場になった。劇場には壮麗な彫刻が施され、代々の解剖学講師の肖像や寓意的な意味をもつ絵画が飾られた。着席の位置は厳密に定められ、前列には大学の教授や招待された名士や司教たちが着席し、講義の最初にこれらの名士が入場するとともに楽士が音楽を演奏した。解剖講義は、仮設教室に学生たちがひしめいて死体に密着して経験する場から、崇高な探求の場にふさわしい新たな演出の中で行われた。

解剖学が医学の実用的な脈絡を離れて劇場化する過程は、当時の新興国のオランダにおいても顕著に見られる。イタリアとほぼ同時期に、オランダでも常設の解剖劇場が続々と設置され、ライデンは1597年、デルフトは1614年、アムステルダムは1619年に常設の解剖劇場を持つことになる。イタリアと同様に、それぞれの解剖劇場での解剖講義には、医師をはじめ自然哲学者や知識人・名士が参加し、一般人も入場料を払って見物することができた。これらのオランダの解剖劇場は、解剖学にとどまらない医学の他の分野や、医学を超えた文化のセンターとしての機能を発達させており、解剖学の教授、医学部の他の科目の教授、そして実験科学者などを含む自然哲学全般の知識人たちが解剖劇場を中心にして活動していた。そこには図書館や博物館も並置され、サイやクジラの剥製標本といった自然誌的な事物や、古代や現代の美術工芸品などを収集した美術館も並置されていた。1609年に製作されたライデンの解剖劇場を描いた版画に、解剖台の上の死体、その傍らに立つ講師、詰め掛けた聴衆といった『人体構造論』の扉絵と共通するものだけではなく、骸骨となった動物標本が並んでいるのは、博物館・美術館と融合したオランダの解剖劇場の特徴を反映している(図7)。

図7 ライデンの解剖劇場(版画)
図7 ライデンの解剖劇場(版画)
図8 レンブラント『ニコラース・テュルプ博士の解剖学講義』(1632)
図8 レンブラント『ニコラース・テュルプ博士の解剖学講義』(1632)
 オランダの解剖学も、17世紀のオランダの美術と深くかかわっていた。解剖学がもつ細部にわたって正確な図像表現への欲求は、当時のオランダ絵画の傾向に一致するものであった。カメラ・オプスクーラなどの新しい視覚的な表象をする光学器械は、フェルメールに代表される画家だけではなく、解剖学者によっても用いられていた。美術の技術的な側面だけでなく、主題においてもオランダの解剖学と美術は共鳴するものをもっていた。当時のオランダ絵画で流行していたヴァニタス (vanitas) と総称されるテーマがそれである。人生のはかなさと死の確実性を描き、「死を想え」(memento mori)という教訓を説くヴァニタスの主題は、解剖学の表象に深い影響を与えた。先に掲げたライデンの解剖劇場を描いた版画の骸骨の一つは、「男なんてシャボン玉」(homo bulla)というヴァニタスのモットーが書かれた旗を掲げている。解剖学講義が絵画と重なるとともに、解剖講義に出席した人々は、骨格や解剖中の死体を中心にして集合肖像画を描かせ、当時のオランダの繁栄と背中合わせの現世のはかなさを深く想う流行の身振りに参加した。これらの絵画の頂点にあるのが、レンブラントが1632年に描いた『ニコラース・テュルプ博士の解剖学講義』という有名な作品である(図8)。この絵のモデルであるテュルプ(Nikolaas Tulp, 1593-1674)は、アムステルダムの解剖講師で、ヴェサリウス以来の伝統に従って自ら死体の腕から手にかけての部分を解剖している。構図の中央の学生が持つ紙片には、解剖に列席している人々の名前が書かれ、これが集合肖像画であることが明示されている。その機能に加えて、人体という神の創造の神秘に触れ神の力に打たれた時の感動を鮮やかに表現している。後列中央の食い入るような学生の視線、前列中央の畏怖の念に打たれている学生の表情などが特に印象に残る。テュルプ自身も死体を見ておらず、学生たちに神の力の偉大さを説く驚嘆の声をあげる瞬間が描かれている。ここで描かれている解剖は宗教的感動が演出される空間であった。
 自然哲学の真理の探究と神の創造の荘厳さへの感動、自然誌の収集・展示、そして宗教的な感動といったエリートの正統文化の側からの意味づけと並んで、解剖劇場は民衆文化の側面、具体的にはカーニヴァルの文化とグロテスクな身体の文化をもつこともあった。これは一見すると逆説的であるが、解剖劇場は民衆にも「公開」されていたことを忘れてはならない。そこを訪れたのはエリート階層に限らず、また正統文化のメッセージが独占的に伝えられる場所ではなかった。解剖学の演劇は、その企画者が意図したのとは違う意味を与えられる可能性があったのである。17世紀初頭のパドヴァにおいては、入場は無料であったため、仕立屋、靴屋、肉屋、塩漬魚商なども訪れたことが記録されている。ボローニャの記録が伝えるところでは、1638年に改築された常設の解剖劇場では、死体が腐敗するのを防止するために寒冷な時期に解剖講義を開催し、また他の大学から学生を集めるために、ちょうど2月から3月初頭のカーニヴァルの時期に公開解剖が行われていたため、カーニヴァルの仮面をつけて浮かれ騒ぐ人々が公開解剖講義に詰め掛けたという。これに対して、大学当局は仮面をつけて解剖講義に参列することを禁止したが効果はなく、黙認の形をとらざるを得なかった。このように、民衆文化とエリートの文化がせめぎあって一時的に既成の秩序が逆転されるカーニヴァルの時期に、通常の身体という規範を根本的に否定した「グロテスクな身体」が解剖学講義によって作り出されたという事態は、解剖劇場には、その表向きの顔とは別の側面があったことを示唆している。

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鈴木晃仁

About The Author

すずき・あきひと  静岡県生まれ。静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻を卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号を取得した。博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史を主題とし、指導教官はロイ・ポーターであった。その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などを経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から慶應義塾大学経済学部教授。