虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第9回 日常としての異世界・中二病 『AURA  魔竜院光牙最後の闘い』と『中二病でも恋がしたい!』(1)

10月 05日, 2016 古谷利裕

 
 

「中二病」という語の意味の変遷

今回は、SFや科学、技術から少し離れて、フィクションのなかでフィクションが特殊な役割を演じている作品について考えたいと思います。アニメのなかで扱われる「中二病」についてです。中二病の物語は、フィクションの価値が低下する環境において、その貧しさのなかで必死に機能しようとするフィクションの姿を伝えているように思います。

Wikipediaによれば、中二病という言葉は1999年1月11日に放送された『伊集院光のUP’S 深夜の馬鹿力』というラジオ番組から生まれたということです。「因数分解など何の役に立つのか?」とか「大人は汚い」などの紋切り型の反抗的な言葉を唐突に口にするようになったり、「本当の親友」を探そうとしたりなどの、思春期特有の痛い言動を「症例」としてリスナーから募るコーナーが起ち上げられ、そのような言動の傾向に染まることが「中二病」と呼ばれたようです。誰にでも思い当たる節のある恥ずかしい過去を、懐かしさやむず痒さとともに、共感的に笑い飛ばすという感じでしょうか。

ラジオのコーナー終了とともにいったん忘れられていった「中二病」という語ですが、2005年ごろから再びネットで使われるようになります。2ちゃんねるなどで使われるうちに、自分の過去を恥ずかしさや懐かしさとともに笑い飛ばすというニュアンスが薄れてゆき、《思春期の少年が行いがちな自己愛に満ちた空想や嗜好などに対する蔑称》、創作物における《身の丈に合わない壮大すぎる設定や仰々しすぎる世界観》、《非現実的な特別な世界観や設定》への揶揄や否定をあらわすネットスラングとして定着します(Wikipedia「中二病」の項より)。つまり、恥ずかしさを共有するというよりも他者をバカにするような否定的な意味が前景化してしまいます。「中」という文字を「厨」と置き換えた「厨二病」という表記も生まれます。

(ネットスラングにおいて「厨」の文字は、中学生を指す蔑称「中坊」から「厨房」へと転じたもので、幼稚で自己中心的な振る舞いをする者という意味を表します。)

しかし、中二病という語はさらに、2012年に放送されたアニメ『中二病でも恋がしたい!』のタイトルに使用されることでニュアンスが変わっていきます。この作品と、その先行作と言える『AURA  魔竜院光牙最後の闘い』(2013年、原作は2008年)のヒロインは、この現実世界を仮のものだと信じる少女です。自分は、真の世界である異世界から特別な任務を負ってこの仮初の世界にやってきたのだと信じているのです。いや、本当に心の底から信じているのかは微妙ですが、少なくともそう信じているかのように常に振る舞うのです。いわば、デーモン小暮が「この顔こそが素顔なのだ」とか「年齢は10万43歳だ」とか言っているようなことを、日常でずっとやっているということです。ここで重要なのは、物語世界はファンタジーではなく、作品の設定上では、彼女たちはあくまで普通の女子高生だということです。彼女たちは、自分が好むファンタジーやオカルトの世界に染まっていて、自らが設定した架空の世界を「現実」として、二重の現実を生きています。『中二病でも恋がしたい!』において「中二病」は、ファンタジーやオカルトの世界に現実逃避的にどっぷりハマっていて、そのような世界のなかで自分を「特別な存在」と位置づけているような痛い人たちを指す語として使われています。

(同様の人物として、『シュタインズゲート』の主人公で、自らをマッドサイエンティスト鳳凰院凶真と名乗り、世界を裏から操る「機関」と戦っていると妄想する大学生、岡部倫太郎などが挙げられます。)

ここでは、『AURA』と『中二病でも恋がしたい!』の2作について考えます。アニメ作品としては、『AURA』が2013年4月に劇場公開され、『中二病でも恋がしたい!』がその前年の2012年の10月から12月にかけて第1期のテレビ放送がなされているのですが、原作の発表は前者が2008年で後者が2011年であり、設定などの面で明らかに後者は前者を前提にしていると思われます。なので、ここでは『AURA』を『中二病でも恋がしたい!』に先行する作品として扱います。なお『AURA』では中二病という言葉は使われておらず、ドリームソルジャーという語がほぼ同義として使われます。
 

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と郊外の閉塞感

設定はそっくりなのですが、『中二病でも恋がしたい!』がどちらかというと楽天的だと言えるコメディなのに対し、『AURA』は、閉塞的な人間関係のなかで生じるいじめが重要な要素としてあり、シリアスで重たい物語です。しかし、『AURA』という作品だけをみると、その閉塞感は大げさでやや不自然にすら感じられます。ヒロインは、学校の教室では孤立しているとしても、もう高校生なのだから学校外に居場所を探すことも可能なのではないかという疑問が生じます。さらに、この作品で学校の教室はごく少数の「イケている」スクールカースト上位のリア充たちによって牛耳られているのですが、彼らにとってとるに足りない存在であるはずのスクールカースト下層の中二病の生徒たちを、彼らがなぜ執拗に目の敵にする(いじめる)のかがよく分かりません。

しかし、多少の疑問があるとしても、この閉塞感には一定のリアリティを感じます。そこで、この閉塞感の在り処について考えるために、少し回り道をして他の作品をみてみたいと思います。アニメではありませんが、1985年に公開されて大ヒットしたハリウッド映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』です。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズの舞台は、カルフォルニア州の郊外にあるとされる架空の街ヒル・バレーです。タイムマシンで過去に戻った主人公の高校生マーティに、その時代に高校性だったマーティの母が一目惚れしてしまい、このままだと父との出会いが果たされず、自分(マーティ)が消えてしまうという危機を、マーティがどうやって回避するのかというのが主な物語内容です。パート2では、マーティが未来に行って、(現時点ではまだ生まれていない)自分の息子が窃盗グループに加わろうとしているところを阻止するというエピソードもあります。物語の「現在」が1985年に置かれていて、過去である1955年と未来である2015年という三つの時代が描かれます(パート3では19世紀まで戻りますが、ここでは触れません)。

マーティにはガールフレンドはいるのですが、学校に友人と呼べるような存在はいないようで、いわば浮いた存在です。教師からは「お前はたるんでいる、お前の父親も同じだった」と言われます。マーティは父と同じ高校に通い、そこには父を教えた教師がいるのです。マーティの父は、会社の上司であるビフという男にプライベートでもたびたび理不尽なことを言われ、その言いなりになるという関係にあるのですが、マーティが1955年にタイムリープすると、そこでは高校時代の父が高校時代のビフからいじめられているのでした。さらに、2015年では、マーティの子供がビフの孫から窃盗グループに入るように強要されているのです。つまり、ヒル・バレーという郊外の街では、子供の頃の人間関係が大人になってもそのまま継続し、さらに、1955年、1985年、2015年と、同じ関係性が3代にもわたって継続してもいるのです。パート2では、子孫さえもが、父や自分(マーティ)と同じような関係性のなかで暮らしています。「地元」で暮らしている限り、スクールカーストが一生つづき、子孫の未来までもが決まってしまっているかのようです。

このような環境は、それに適応できる人にとっては穏やかで過ごしやすいものだとも言えるでしょう。父と同じ学校に通い、父と同じ教師に習うことを伝統として幸福と感じる人もいるでしょう。しかし、適応できない人にとってはディストピアです。マーティはギターを弾いており、ミュージシャンを夢見ています。マーティの父は、高校時代にSF小説を書いていました。ギターやSF小説は、同じ関係が固まったままでどこまでもつづいてゆく地元世界とは「別の関係性」を開くための回路であり、願いであるといえます。しかし、マーティは地元のダンスパーティーで演奏するためのオーディションに参加するのですが、合格できず、自信を失います。しかしそれは、マーティの実力や才能の不足だけが原因とはいえません。オーディションの審査員たちも皆、地元の関係性に適応し、そこに自足しきったような人たちばかりです。それとは別の関係性への通路を求めているマーティの音楽を理解できるとは思えません(不合格の理由はなんと「音が大きすぎる」です)。地元の関係性は、マーティの必死の跳躍をも阻む方向へ機能してしまいます。都市部であれば、ライブハウスに通うなりすれば同好の士が自然に見つかるでしょうが、どうもそのような文化的環境がないようなのです。

そんなマーティにとっての唯一の友人は、地元の人間関係から離れ、たった一人で怪しい研究に没頭しているドクです。ドクは、地元で孤立してはいますが決して閉塞感を感じてはいないはずです。ドクには、地元の関係性よりも「科学」の方が重要だからです。ドクが見ているのは科学的な真理であり、目指すのはタイムマシンを完成させることです。地元の人間関係はそのための役にはまったく立たないので、どうでもいいのです。地元の関係性とは別の、もっと遠くの何かを見ている。この1点において二人は共通しています。そして、ドクのような年長者が友人として存在することが、マーティにとって救いであり、希望です。実際、ドクがつくったタイムマシンが、マーティの未来を変えるための可能性(能動性)を開くのです。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、基本的には軽やかで面白おかしいコメディですが、郊外の街の文化的環境や人間関係に順応できない青年のもつ閉塞感と、それを突破することの困難さというシリアスな事実をその背景としてもっているのです。
 

『AURA』の概要

充分に描き込まれているとは言えませんが、『AURA』の舞台もヒル・バレーのような郊外の街であるように見えます。さすがに現代の日本では、3代にもわたって「同じ関係」が継続しているというようなことは考えにくいですが(しかし、経済格差の固定化ということは言われています)、いま・ここにある閉塞感としては似たようなものだと考えられます。『AURA』の閉塞感にも『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と同様の背景があると考えると、その作品世界は一層リアルなものと感じられるようになります。

主人公の一郎は、中学時代にはオカルトやファンタジーに没入し「自分は異世界からきた魔竜院光牙という騎士である」という設定で日常生活も過ごしているような人物でした。彼は、「本当の両親は戦闘で既に亡くなっていて、今の両親は偽物である」という妄想の手紙を書いて妄想の姫に送ろうとして、それを両親に読まれて家族関係をぎくしゃくさせたり、普段の異様な風体や言動から酷いいじめにあったりしていました。そのため、高校進学を機にそれらの「設定」をすべて捨て、普通の高校生としての高校デビューを決意し、それに成功します。高校進学は彼にとって、別の土地への移住による関係のやり直しに近い意味をもちます。そして彼は、自然にクラスに溶け込み、最もイケているグループから声をかけられるようにまでなりました。

しかし彼は、忘れた教科書を取りに行った深夜の学校でヒロイン(良子)と出会ってしまいます。彼女は深夜の学校に一人でいて、引きずるほどに長い青いローブをまとい、妙な形の杖を持ち、呪文のような意味不明な独り言をつぶやいていました。異様な光景ですが、彼にはすぐ彼女がかつての自分と「同類」であることが分かります。深夜の学校という非日常的なシチュエーション、そして相手がかわいい女の子だったこともあり、彼は封印したはずの「そっちの世界」につい乗っかって、彼女の世界を「受け入れる」と言ってしまうのです。そして、翌日彼女が「その姿」のままで登校し、実は入学以来一度も来ていなかったクラスメイトだったということが分かります。彼女との関係により、一郎の順調な高校デビューに終止符が打たれます。

風体や言動があまりに突飛で常識離れしている良子が登校するようになることをきっかけに、クラスのイケているリア充グループは、それまでは見逃してきた良子以外の中二病系の生徒たちに対しても風当たりを強くし、良子に対しては特に露骨ないじめを行うようになります。一郎は、過去の経緯から中二病系の人たちをどうしても好きになれません。しかし同時に、リア充グループの中二病排斥を理不尽な許せない行為だと感じていて、クラスには、リア充系と一郎系の間の緊張が高まり、張り詰めた空気になってゆきます。そして、いじめを受ける良子へのケアを通じて、二人の関係は親密になります。

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