虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第10回 日常としての異世界・中二病 『AURA  魔竜院光牙最後の闘い』と『中二病でも恋がしたい!』(2)

10月 26日, 2016 古谷利裕

 
 

ツギハギの繋がり

そして事件が起きます。孤独な二つの独自ルールの集まりであるこのサークルに、公式ルールの勝者であるはずのリア充、森夏が加入したのです。サークルのたちあげを手伝ってはいるものの、サークルそのものに興味はなく、参加する気がなかった勇太も、それによって気が変わります。サークルの活動の目的は「不可視境界線の探索(+昼寝)」という、彼女たちの独自設定を共有していなければ意味の分からないもので、絵に描いたようなリア充である森夏が興味をもつ要素は見あたらないのです。勇太は、森夏が自分への好意から入部したのではないかと妄想します。

実は、森夏もまた元中二病で、過去にモリサマーという名で、「500年間生きている本物の魔術師」という設定のもとにネットに多くの文章をアップしていました。それは、高校デビューによってリア充という勝者の立場を手に入れている森夏にとっては消し去らなければならない過去なのです。ネットのログは既に削除済みなのですが、六花と同様に中二病である早苗が、かつてのモリサマーの文章に心酔していて、それらをプリントアウトして「マビノギオン」として1冊にまとめたものを持っていることを知り、サークルに入ることで彼女たちに近づいて、恥ずかしい過去の詰まった「マビノギオン」を奪回し消去するというのが、彼女の目的だったのです。

さらに、くみんへの好意から軽音部であるはずの誠もこのサークルに入り浸るようになり、六花と早苗だけに通じる独自ルールのもとにたちあげられたはずのサークルが、中二病、リア充、普通の人、天然、という複数のルールが共存し、それら間で遊戯的抗争が生じる場となるのでした(リア充と普通の人は、同じ公式ルール上の階層の違いなので、ここには一つの公式ルールと二つの独自ルールがあることになります)。六花と早苗が、同じ独自ルールの同志として繋がり、六花とくみんが、サークル設立の利害によって繋がり、森夏と早苗が、「マビノギオン」奪還という目的において繋がり、誠とくみんが、誠の好意によって繋がり、勇太と森夏が、勇太の下心で、勇太と六花が、縁によって繋がる、というふうに、ルールだけでなく、このサークルに参加する目的(繋がり方)も皆違っています。

(サークル名である「極東魔術昼寝結社の夏」は、「極東魔術結社」+「昼寝部」+「森夏」であり、このサークルの異なるルールからなるツギハギ性を見事に表しているといえるでしょう。)

食い違う抗争から生まれる関係

「マビノギオン」のコピーが無数にあることを知り、その奪回と消去をあきらめた森夏は、早苗に対して、モリサマーは過去の自分であり、ネットの文章は500年生きている魔女が書いたものなどではなく無価値だと明かしますが、早苗はそれを信じず、森夏をモリサマーの名を騙る「偽モリサマー」と罵ります。ここから、サークル内での森夏と早苗の抗争がはじまります。

この抗争は半ば本気であり、半ば遊戯的であると言えます。森夏にとって「マビノギオン」の無意味化は、リア充としての高校生活の是非が懸かっていると同時に、自分の過去に対する「恥ずかしさ」とも繋がっているのでシビアなものです。一方、早苗にとっての「偽モリサマー」との闘いは、六花と共有する虚構上の「不可視境界線管理局」との闘いの延長とも言える遊戯的なものです。中二病の者にとって、虚構-遊戯という場があることそのものは死活問題(リアル)ですが、そこでの闘いは遊戯的と言えます。森夏の闘いは現実ですが、早苗の闘いは虚構です。森夏と早苗とでは、闘いが生じている平面が食い違っているのです。

森夏にとっては深刻な問題も、早苗にとっては「お姉さんがかまってくれている」のと大差ありません。六花以外にもう一人、遊んでくれる人が増えたのです。しかし森夏にとっては、本気の抗議を冗談で返されるようなもので、早苗への怒りは空回りし、このことが森夏を苛立たせます。

森夏が「早苗の妄想世界」の内部へ入り込み、(『AURA』の一郎がそうしたように)その登場人物を演じ、早苗の虚構世界のなかで早苗に尊敬されるようになれば、早苗は森夏の言葉を信じるのではないかと勇太が提案し、森夏はそれを試みますが、公的ルールに目覚めてしまった彼女は中二病の恥ずかしさに耐えきれず、演じ切ることができません。平面は共有されないのです。

この食い違った抗争は、食い違ったままでも繰り返され、それにつれて次第に儀式化し、遊戯の方へと寄っていきます。サークル内では森夏の元中二病という素性はバレてしまっているので、彼女はリア充的にとりつくろう必要はなく、一方、同時につづけているチア部では、リア充たちの内実が見え始めて嫌気がさし始めてもいるなかで、森夏が中二病に対する「恥ずかしさ」の感情を次第に後退させていくことも、抗争が遊戯性へと傾く一因となります。そして、この食い違った抗争は、それが繰り返されることで、結果として、共有する地平のなかった森夏と早苗の間に、姉と妹のような親愛の関係、「ケンカするほど仲がいい」というような関係を生むことになります。

森夏は、リア充たちも結局は、必死にリア充的な物語を演じているにすぎず、その点は中二病と大差がないという認識を得ます。それにより、公式ルールからの抑圧を少しだけ緩め、独自ルールへ感じる恥ずかしさを緩和させます。しかしそれでも、公式ルールと独自ルールとか逆転することはありません。公式ルールは多くの人たちに共有され、それにより現実的な力をもっていますが、独自ルールはどこまでも特殊であり、孤独で、他者をもちません(だから森夏はリア充の位置をあきらめはしません)。独自ルールは、そのルールの内に他者をもちませんが、しかしそれでも、森夏と早苗がそうであったように、他者をもたないまま(食い違ったまま)で、他者と相互作用し、他者への通路をつくることがあり得ることが示されます。

それぞれが異なる目的や思惑をもつことで、均された一つの平面に収束しないまま、しかし一つの「まとまり」ではあるというツギハギ状のサークルが、異なるものが異なったまま相互作用することを媒介する場となったのです。

独自ルールに対する「恥ずかしさ」の感覚を減少させた森夏は、作品の後半(10話)には、文化祭で、中二病的な妄想世界をゲリラ的なパフォーマンスとして演劇的に演じるということをします(勇太と六花にそれをさせようと画策するのですが、事情により自分で演じることになります)。中二病において演じられる虚構は「自分の居場所」ですが、演劇として演じられた虚構は独自ルールだとしても「他者への表現」と言えます。ここで森夏は、孤独な独自ルールを公式ルールの上に乗っける、ということをしたのだと言えます。これは一般的に言って、作家による表現活動に近いのではないでしょうか。森夏はこのパフォーマンスによって演劇部からスカウトされます。独自ルールに公式ルール上の場を与えたと言えます。森夏はあくまでリア充志向です。

『中二病でも恋がしたい!』における強い「現実」の層

しかし、このような出来事が可能なのは、『中二病でも恋がしたい!』の学校には、圧倒的に強い公式ルール、あるいは権力関係が存在しないからだとも言えます。つまり、学校はそもそも遊戯的な自由度の高い場として設定されているのです。では、『AURA』における、文化的な貧しさによる抑圧や圧倒的な権力関係のような、強い「現実」はどのように現れているのでしょうか。

結論から言えば、この作品の強い現実は三つの層として現れていると言えます。一つ目は、家族関係、二つ目は、父の死、三つ目は、恋愛(性欲)です。これらの問題は、作品の後半になって色濃く前景化します。前半の楽天的なコメディという調子が、後半になって急激にシリアスになっていくのです。

学校の空間は、中二病である六花を受け入れているとは言えませんが、彼女の奇異な振る舞いに対し、いじめを行ったり、笑いものにしたり、強制的に矯正しようとしたりはしません。六花は、クラスでは勇太としか話さないし、サークルのメンバー以外の友達はいないようですが、彼女はそれでも充分に楽しそうです。しかし家族はそうではありません。同居する姉は執拗に六花を矯正しようとします。別居している母は、過剰に心配しています。そして実家にいる祖父は、六花の振る舞いを特に強く否定しています。このような家族の態度は、六花の虚構的な設定では、「敵である不可視境界線管理局による攻撃」として見立てられています。

高校生である六花には、家族は自分の生存にとって不可欠な条件であり、その意向は強い力として作用します。六花は、姉である十花(とうか)による公的ルールへの矯正に対する抵抗として、それを不可視境界線管理局との闘いとして虚構化します。学校という空間では、森夏のリアルな抗争と早苗の虚構的抗争という食い違いは、虚構的な遊戯性の方へと傾いてゆくのですが、十花のリアルな矯正を必死で虚構化しようとする六花の場合、食い違いは起こらず、現実と虚構の両面でシリアスなものになってしまいます。つまりそれは、この抗争は充分には虚構化できないということです。これは、虚構のなかでの闘いではなく、虚構を通じて行われる、虚構(独自ルール)のための場をもつ権利についての現実的な闘いなのです。

では、六花は虚構において何をしようとしているのでしょうか。それはおそらく、父の死を認めることに対する保留だと思われます。六花の父は彼女がまだ幼い頃に病気で亡くなりますが、六花がまだ小さかったため、父の病気が死へ至る可能性があるほど重いものだということが、彼女にだけ知らされてなかったのです。六花にとって父の死はあまりに突然であったため、それを受け入れることができませんでした。

実は、不可視境界線とは生と死を切り分ける境界線であり、それを越えて向こう側に行けば、死んだ父に会えるはずだということから設定されています。または、それは越えられないとしても、不可視境界線の存在が確認されれば、父がその向こうからこちらを見てくれているということになります。だから、父は死んだのだという現実を認めさせようとする家族は、見立てのなかでは不可視境界線を見つけられないように妨害する管理局なのです。六花の中二病は、彼女にとっては父の死の否認であり、虚構的設定は、死を受け入れるのを保留するためにあり、父の死こそが中二病の原因だとも言えるのです。

もちろんこれは設定であり、この意識的に演じられた設定を六花がどこまで信じているのかは分かりません。しかしそれでも、保留のためには設定が必要なのです。保留というのは、たんなる時間稼ぎではありません。父の死という現実を、どのような形で受け入れるか、どのような形でなら受け入れられるのか、その形を探る試行錯誤の時間であり、その試行錯誤が虚構的設定と虚構的立ち振る舞いを通じて行われていると言えるはずです。そのために、虚構は現実的に必要とされているし、現実的に機能しているのです。ここに、この作品のリアリティがあるのだと思われます。

(この、保留のための虚構的な設定が、自分や他者を破壊してしまうような、破滅的な方向へと育ってしまう可能性もあります。六花の家族はそれを心配しているのです。)

『中二病でも恋がしたい!』にシリアスな影が射し始めるのは、夏休みに入ってサークルのメンバーが全員で六花の実家に遊びに行くところからです(7話)。それは六花にとって、父の墓への、お盆の墓参りを強いられることを意味します。父の死を否認する六花は、父の墓参りも拒否しています。ここで家族との摩擦が顕在化されます。だから実家は、六花にとって管理局の勢力が絶大な危険な地域として設定されているのです。

ここには2種類の異なる現実があります。家族関係からくる抑圧は、関係のなかで生じるもので、「人の意向」によるものであり、困難ではあっても交渉や説得による変更余地がまったくないわけではありません。実際、劇場版『小鳥遊六花・改』では、勇太が六花の家族を説得して、彼女の一人暮らしを認めさせます。それに対し、父の死は、関係やルールによってでは変えることのできない種類の現実と言えます。

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