単線的決定論(長門)と、偶然による可能性の現実化(ハルヒ)
世界を元に戻すことを決断し、脱出プログラムをスタートさせたキョンは、まず3年前の7月7日に飛ばされます(世界改変は過去にまでは及んでいないようです)。キョンは以前、未来人である朝比奈みくるとこの日にタイムリープしたことがありました。その時に出会った「大人になった朝比奈みくる(未来人のさらに未来の姿)」であれば、この出来事について何か知っているのではないか、と考え、「この時間」に来ているはずの彼女を探します。そしてキョンは、大人になった朝比奈みくるに促され、二人で連れ立って3年前の長門有希に会いに行くのです(この時点でキョンは、世界改変が長門によって引き起こされたことを知りません)。
長門有希は、高度な文明をもつ情報統合思念体によってつくられたインターフェイスなので、過去から未来に渡るすべての時間に存在している自分と相互に交信が可能です。しかし、3年後の12月18日以降の自分とは連絡がつかないことを知り、異変を理解します。そこで彼女は、自分自身を修正するプログラムをつくり、3年後に、自分と世界とを改変した直後の自分に、そのプログラムを注入するようにキョンに命じます。
しかし、考えてみればこれはかなりおかしな話です。3年前の時点で、「3年後の12月18日に自分が誤った決断をしてしまう」と知っていれば、それを回避できるのではないでしょうか。しかし長門有希は、それは回避できない、その日に自分は必ず誤作動を起こす(世界を改変する決断をする)、と未来を予測するのです。高度な文明によってつくられた彼女は、ハルヒの力をかすめ取って世界のすべてを改変させてしまえるほどの力をもっているにもかかわらず、自分がする「世界を改変しようとする決断」を事前に改変することは不可能だというのです。世界が改変されることはもう決まっているから、改変された後に、それを回復するしかないのだ、ということなのです。
しかし、もしそうであれば、世界が改変された後に、キョンの決断によって再び元の世界が回復されるということもまた、すでに決まっていることになってしまうのではないでしょうか。つまり、すべてはあらかじめ決定されている出来事のなかを、未来を知ることを禁じられた登場人物が未来方向へとただ移動している、ということになってしまいます。これは先ほど挙げた、(1)の単線的決定論と同じ世界観です。
確かに、『涼宮ハルヒの消失』という物語では、世界のなかに何か新しい出来事が出来するという感じが希薄だと言えます。すでに決まっている出来事の顛末を、キョンという「いま・ここ・わたし」である視点(これは観客の視点でもあります)が移動してゆく。何かが起こるというより、ただ、知られていなかったことが露わになってゆく、という物語の展開にみえます。キョンというキャラクターは受動的な性格をもち、ハルヒに振り回されるばかりなのですが、この性格は、以上のようなこの物語の性質と深く噛み合っています。だからこそ、キョンの「決断」は物語上でたいした意味をもたず、未知の世界の探求の方こそが重要になるのです。
世界が改変された12月18日にタイムリープしたキョンは、世界改変後の長門有希に修正プログラムを打ち込もうとするのですが、思わぬ相手に襲われて瀕死の重傷を負います。しかしその時、未来からタイムリープしてきた自分自身に助けられ、修正プログラムは無事、長門に打ち込まれ、世界は回復されます。未来の自分は、当然この時に自分が襲われるのを知っているので、自分を助けに来ることができるのです。しかし、自分が襲われたという過去は確定しているので、襲われることそれ自体を避けることはできず、襲われた後に助けることになります。
(実はここで、原因と結果の間にあってはならない循環が生じてしまっているのですが……。未来のキョンが襲われたキョンを助けられるのは、世界の回復が成功したからですが、しかし、世界の回復が成功できたのは、襲われたキョンが未来のキョンに助けられたからだ、と、堂々巡りになります。)
未来の自分が誤作動することを知りながら、それを変えることはできず、誤作動後に修正するしかない長門有希と、過去の自分が襲われることを知りながら、襲われることそのものを避けることはできず、襲われた後に自分を助けるしかないキョンは、とても似ていると言えないでしょうか。この物語では、出来事に対する能動性が、常に後手後手にまわる形でしか発揮されないのです。分かっていても起こることは避けられない、と。
(ここで、後手というのは、「いま・ここ・わたし」という移動する視点にとっての後手ということで、あらゆる事柄があらかじめ決定されているとしたら、本当は先手も後手も意味がないのですが。)
しかしキョンと長門では時間の向きが違います。人は普通、現在から過去を見渡すことはできますが、現在から未来を見渡すことはできません。それは、未来は不確定でまだ定まっていないからだと、常識的には考えられています。しかし長門有希は、過去方向だけでなく、未来方向も見渡すことができるのです。過去の自分を思い出すように、未来の自分と対話できるのです。だとすれば、未来はすでに確定されて存在しているのだけど、ただ、私たちはそれを知らない、ということになります。そもそもこの物語には、未来からやって来た人も存在するわけですが。
ただ、それを強く言い切れないのは、この物語には、ハルヒという長門よりも上位の存在がいるからです。長門有希は、ハルヒの監視や、ハルヒの起こす騒動のフォローによって疲労が蓄積し、誤作動を起こしてしまうのでした。つまり、ハルヒが長門による制御を越える存在である以上、長門はハルヒに振り回されつづけ、ゆえにこの誤作動は回避できないのだ、とも解釈できます。ハルヒが長門より上位の存在であれば、ハルヒのきまぐれ(無意識)は、あらゆる出来事が決定されているという単線的決定論よりも上位にあることになり、未来の不確定性はハルヒによって確保されます。
ハルヒという存在によって、絶対的な偶然性が世界に導入されるとすれば、世界観は先ほど挙げた、(2)の、偶然によって可能性が選択される世界ということになるでしょう。世界のなかにあり得る複数の可能性が回復したとしても、その可能性は神であるハルヒのきまぐれでしか選ばれないので、ハルヒ以外の人にとっては無自由の世界ですが。
物理学的な世界像
ここで、物理学的な世界の描像を確認しておきましょう。物理法則は時間対称性をもつものとされています。時間対称的であるということは、ある時点での状態のデータが与えられれば、それにより、その未来の状態も決定されるし、過去の状態も決定されるということです。時間発展に、前と後ろの区別はないのです。それは、ある時点での、この宇宙に関する完璧なデータがあるとすれば、宇宙のはじまりから終わりまですべての状態がそれによって決まるということです。だから、これは(1)の、単線的決定論と同じということになります。
しかしそこに、量子力学の観測問題が浮上します。ある電子のスピンの状態を観測する時(量子的なミクロの系から古典的なマクロの系へと移行する時)に、それがアップとなるのかダウンとなるのかは確率的にしか知ることができません。1回1回の観測において、その結果は偶然によって決定されることになります。偶然と言うのは、物理的、因果的な根拠がどこにもない、ということです。つまり、観測は不可逆の過程となり、時間対称性は破れます。これは、この世界に可能性はある(単線的ではない)が、その可能性の実現は偶然によってしか決まらないという、先ほどの(2)の世界観と同じと言えます。
そして、観測問題に対してあり得る解の一つとして、エヴェレットによる多世界解釈と呼ばれるものがあります。可能なものはすべて実在するという考えで、先ほどの(3)ととても近いと言えます。ただ、青山拓央の挙げる多世界は、単線的決定論的な宇宙がはじめから可能性の数だけあるというものなのに対して、エヴェレットは、可能性の分岐が起きる度に宇宙が分岐するというイメージなので、厳密には同じとは言えません。この違いは看過できませんが、この点に触れると煩雑になるのでここではこれ以上追及しません。
分岐問題から導かれた3種類の世界観は、論理的な過程によって導かれたものであり、物理学への参照によるものではありません。しかし、そうであるにもかかわらずきれいに対応し、しかもそのどれもが常識ではなかなか受け入れ難いものになっています。