虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第12回 量子論的な多宇宙感覚/『涼宮ハルヒの消失』『ゼーガペイン』『シュタインズゲート』(2)

12月 07日, 2016 古谷利裕

 
 

「涼宮ハルヒ」シリーズの概要

「涼宮ハルヒ」シリーズのヒロインの女子高生、涼宮ハルヒには、世界を自由に書き換えられるばかりか、この宇宙を根本から作り替えてしまうことすら可能である能力が与えられています。しかし、本人は自分がそんな能力をもっていることを知りません。彼女の抱く願いや不満が、自分の能力に無自覚な彼女の知らないところで勝手に世界の秩序に混乱をもたらし、彼女の周りの人物たちがそこに巻き込まれ、混乱を回収するために右往左往するというのが、物語の基本的な構えです。

三つの異なる団体が、あまりに強大すぎる力をもつハルヒという存在に興味をもち、脅威を感じて、彼女の高校に構成員を派遣し、密かに監視し調査しています(宇宙人、未来人、超能力者)。この三つの団体はそれぞれ、ハルヒという存在に対して異なる見解、異なる解釈をもっています。ハルヒはほとんど神のような存在なので、ハルヒに対する解釈の違いは、そのままこの世界に対する解釈の違いとなるでしょう。ハルヒの鋭い無意識は、それら三つの団体から正確に一人ずつを選び出し、自分がつくったS0S団というサークルに参加させます(もちろん、ハルヒはそれを自覚していません)。それによって、世界に対する解釈を異にする三つの勢力が、互いに協力しあって、ハルヒがつくりだす無秩序や混乱に対処することになります。

つまりここにみられるのは、三つの異なる世界観の共存と共働です。原作の第1作である『涼宮ハルヒの憂鬱』に当たる部分では、この三つの世界観に優劣はなく、つまり正解はありません。三つの世界観はそれぞれ異なる方向から現実を照らし出しており、そのどれもが同程度に現実に対して整合的であり、同程度に現実に対して力をもつのです。ここにはかすかな多世界の香りがあります。

しかし、物語の進行につれて三つの世界観に優劣が生じてきます。超能力者による解釈は、三つのなかで最も限定された場面にのみ適応するローカルな世界観であり、宇宙人による解釈が、最も広範囲に適応する普遍性の高い世界観であることが明らかになってゆきます(解釈の多重化だけでは世界そのものの多重化にはならないということでしょう)。宇宙人による世界観が最も普遍的であるということは、様々な混乱の回収に関して、宇宙人の力に頼る場面が多くなり、宇宙人にかかる負荷が高くなるということです。

あまりに多くの負荷がかかりすぎたため、宇宙人(正しくは、非物質的な存在である宇宙人――情報統合思念体――がつくった、対人型インターフェイス)は、ついに誤作動を起こします。宇宙人は、ハルヒのもつ力を流用することによって、「ハルヒが何の力ももたない世界」へと世界全体を書き換えてしまうのです。その物語が『涼宮ハルヒの消失』です。
 

『涼宮ハルヒの消失』

12月18日の早朝、宇宙人によってつくられた対人型インターフェイスである長門有希は世界を改変し、ハルヒが特別な能力をもたない、ゆえに、宇宙人も未来人も超能力者も存在しない世界が生まれます。そこでは、世界を改変した長門有希自身も、特別な能力のない普通の女子高生となり、過去の記憶のすべてを改変されています。つまり、世界が改変されたという事実を知っている人は、改変後の世界には一人もいないことになります。誰も改変に気づくことができないのです。

しかしこの世界のなかで一人だけ、世界改変前の記憶をもつ人物が残されます。それがこの物語の主人公であり、ハルヒシリーズの語り手であるキョンです。長門はキョンを、決断する主体としました。つまり、以前の、ハルヒの気まぐれな力に巻き込まれて右往左往する世界か、改変された平穏な世界か、二つの世界のどちらを選択するのかをあなたが決めてくれ、ということです。後者がよければ改変世界にそのまま留まり、前者がよければ、改変世界からの脱出プログラムを実行せよ、と。

とはいえ、ここでは判断や決断は真の問題ではありません。なぜなら、観客には、キョンが元の世界への帰還を望むであろうことがはじめから予想できるからです。この物語のキモは、朝起きたら世界が自分の記憶と大きく違ったものになっていたことで、世界のなかで孤立してしまったキョンが、不安を抱えながら未知の世界を探索してゆくプロセスにあると言えるでしょう。以前の世界の記憶をもって改変後の世界を生きるキョンの頭のなかでは、世界が多重化していると言えます。キョンは、記憶と知覚とでそれぞれ別の世界に分かれて存在しているとも言えるのではないでしょうか。
 

決断と分岐問題

ここでは決断は真の問題ではない、と書きましたが、ではなぜ、「決断」はこの物語の主題にならないのでしょうか。この物語には二つの大きな決断があります。一つは長門有希による、世界を改変しようとした決断。もう一つは、キョンによる、改変以前の世界へ戻すことにした決断。この決断はどちらも、「消失」に至るまでのハルヒシリーズの物語を追ってきた者にとって納得のできるものです。

決断というものの不可解さについて、哲学者の青山拓央が「分岐問題」という形で分析しています(『時間と自由意志』筑摩書房)。たとえば、体温計が39度を指しているのをみて、私は病院へ行くことを決断した、とします。私が病院へ行くという歴史Aと、私は病院へ行かないという歴史Bと、二つのあり得る歴史(可能性)があったとして、体温計をみるという行為によって決断Xが生じ、病院へ行くという方の歴史Aが現実として選ばれた、と。それを図1のように書くことができます。
 

図1
図1

 
 しかしここで問題が生じます。二つの歴史の分岐点で「決断X」が生じるとしたら、この決断の瞬間は、歴史AとBの両方に共有されていることになります。つまり、歴史Aに固有のものではなく、決断XがあったとしてもBの方へも行き得るということです。決断と分岐とは関係がないことになります。決断が歴史Aに固有のものだとするならば、図2のように書かなければなりません。
 
図2
図2

 
 しかしこの場合、決断が生じた時には既に歴史Aへの分岐が起こった後であり、決断そのものは歴史に何の影響も与えていないことになります。これでは、歴史の分岐(可能なものたちのなかから何が現実化するのか)は、無根拠な偶然に任されることになってしまいます。

青山拓央は、この分岐問題に対してあり得る答えは3種類しかないとします。(1)単線的決定論。これは、この宇宙がはじまった瞬間から終わるまでの歴史は、あらかじめ一つの筋道として決定しているという立場です。だから「可能性(分岐点)」というものはそもそも世界には存在しないことになります。(2)偶然によって可能性が選択される。これは、様々な可能性は存在し、その多様な可能性のなかから一つの現実が選ばれるのですが、そのどれが現実に選ばれるかについての根拠はどこにもないとする立場です。この場合、世界そのものがサイコロのようなものであることになります。(3)多世界を認める。つまり、可能なことがらはすべて(無限に近い多数の単線的歴史のなかで)実現している、可能な世界はすべて実在する、ということになります。

そして、この三つのどの立場をとったとしても、決断には意味がない、決断はただ生じるだけで、歴史の分岐に何の影響も与えない、ということになってしまいます。青山拓央はこのような世界を、自由でも不自由でもない、無自由の世界と呼びます。

この分析は、自由意志について論じられる『時間と自由意志』という本の第一章に、議論の前提としておかれたもので、《私はこれらの「解決」がどれも十分な解決には見えない》と書かれており、この本の最終的な結論ではないということを確認しておきます。ここで言いたいのは、『涼宮ハルヒの消失』という物語には、分岐問題とその(常識から外れた)帰結に、非常に近い感触があるということです。
 

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