二つの世界と一つの現実
おそらく『涼宮ハルヒの消失』で最も感動的な場面は、世界改変後の、特別な力をもたず、キョンと知り合うこともなかったハルヒが、キョンが発した「ジョン・スミス」という名前に反応するところでしょう。「ジョン・スミス」とは「笹の葉ラプソディ」というエピソードで描かれる、キョンとハルヒとの時系列上の最初の出会いのキーワードのようなものです。改変前の世界では、中学時代にジョン・スミスという人物(未来から来たキョンなのですが)と出会ったことによってハルヒは進学先を決め、そこでキョンと出会います。しかし改変後の世界でハルヒは別の高校へ進学し、キョンとは出会いません。とはいえ、改変された世界の方でも、ハルヒはジョン・スミスとは出会っていたのです。
(ここにも分岐問題があらわれます。ジョン・スミスとの出会ったという出来事Xがあったにもかかわらず、別の高校を選ぶ世界があり得るとすれば、その出来事は歴史分岐の本当の原因とは言えなくなります。)
ここで起こっているのは、二つの世界(キョンの記憶のなかに残された改変前の世界と、いま・ここにある改変後の世界)が、ジョン・スミスという1点でリンクしたということでしょう。そして、キョンの語る改変以前の世界の話をハルヒは興味深く聞きます。ここでようやく、改変後の世界でもハルヒとキョンがつながるのです。ここでキョンが、改変前の世界のハルヒが神のような力をもつということをハルヒ自身に喋ってもかまわないのは、改変後の世界のハルヒは何の力ももたないからですし、二つの世界のハルヒの記憶は同期していないからです。二つの世界の通路はキョンの「記憶」しかないのです。つまり、キョンの語る話は、この世界のハルヒにとってフィクションでしかありません。しかしそれは、この世界のハルヒ自身が必要としていたフィクションだと言えるでしょう。
(おそらくこの世界のハルヒも、別の学校のクラスの自己紹介で「宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたらあたしのところに来なさい」と言ったでしょう。そして望み通り、異世界から来たと自称するキョンに会ったのです。ハルヒは、改変前の世界では、宇宙人、未来人、超能力者と出会い――しかしそのことをハルヒは知りませんが――改変後の世界では異世界人と出会うので、どちらの世界でも望みがかなったことになります。そう考えると、本当にハルヒの力が失われたのか怪しい感じもします。やはりハルヒは長門よりも上位の存在のようです。)
しかしこの物語で起こっているのは世界の改変であって分岐ではありません。少なくとも脱出プログラムが起動するまでは、改変以前の世界はキョンの頭の中にしか残っていません。前の世界は後の世界では、フィクションとか夢とか言われるものと同等の権利しかもっていません。そして、世界が復旧された後は地位が逆転し、改変世界が夢となります。ここにあるのは、一方が現実ならばもう一方は夢であるというような、世界の排他的な二者択一です。現実は一つしかないのです。
つまり、『涼宮ハルヒの消失』という物語は、長門有希の決断やキョンの決断をめぐる物語というより、二つのあり得る世界が「現実」という唯一の座を奪い合っている物語と言えそうです(二つの世界の勝敗を判定するのは、偶然なのでしょうか、ハルヒなのでしょうか)。その時に登場人物たちは、「いま・ここ・わたし」として、出来事についての情報を単線的な順路に沿って知って行く、一つの視点にすぎないものになるでしょう。
世界の多数化の香り
ぷよという漫画家によって描かれ、サテライトという製作会社によって製作された『長門有希ちゃんの消失』というアニメがあります(オリジナルのハルヒシリーズをアニメ化した製作会社は京都アニメーションです)。原作となっているマンガは、著作権者公認の二次創作のような作品で、それをオリジナルシリーズとは別の会社やスタッフがアニメ化したものです。オリジナルの『涼宮ハルヒの消失』では最終的に消えた、改変された方の世界が舞台となって、宇宙人ではない長門有希や、何の力ももたない涼宮ハルヒ、改変前世界の記憶のないキョンなどのキャラクターが登場する、ごく普通の(非常に他愛のない)ラブコメのような作品です。
オリジナルの『涼宮ハルヒの消失』では、世界の復旧によって消えてしまったもう一つの世界や、そこに住む普通の少女としての長門有希が、公式の二次創作という形で存続し、この世界に存在の場を得たのです。これをもって現実が多重化(多世界化)したと言えるのか、いや、二次創作では夢と同等の地位しかないと言うべきなのか、その判定は微妙ですが、オリジナルでは消えてしまった世界を、その後も存続させたい、それが存続に足るものだと考えた「別の作者」が存在するということの意味は無視できません。
ただし、この世界のキョンには世界改変前の記憶がありません。つまりこの世界は閉じて自律していて、復旧したオリジナル世界とは何の通路もないのです。仮に世界が多重化しているとしても、それぞれの世界が完全に閉じているとするならば、その世界の住人にとっては単線的決定論的世界と何もかわりません。
しかしここで重要な事件が起こります。自動車との接触事故がきっかけで、『長門有希ちゃんの消失』の長門有希と、オリジナルシリーズの(本来の)長門有希の人格が入れ替わってしまったかのような状態になるのです。つまり、多世界(他世界)へのチャンネルが開いたかのようになるのです。改変世界=『長門有希ちゃんの消失』の世界の長門有希は、オリジナルの長門自身が「そうなりたい」と願う長門でした。二つの閉じた世界が、長門の願いを媒介にしてリンクしたようにもみえます。
しかし、そう感じるのは外から見ている(オリジナルシリーズを知っている)観客だけです。作品世界は閉じていて、作品世界内の人物はその外にいる別の(オリジナルの)長門の存在など知らないので、ただ、長門が別人のようになったと思うだけです。長門本人も、(『長門有希ちゃんの消失』の世界の)長門有希としての記憶は完全にあるのに、自分のもつ自分に関する記憶が自分のものとは思えないことに戸惑いますが、自分が別の世界から来たオリジナルな長門だと主張するわけではありません。
常識的に考えれば、これは事故のショックによる一時的な離人症、もしくは解離性同一性障害の症状にすぎないでしょう。つまり、世界の多重化ではなく、脳のエラーによる自己の多重化(解離)です。しかし、『涼宮ハルヒの消失』という物語を通り抜け、その物語によって『長門有希ちゃんの消失』という別の世界が生まれたことをみてきたわれわれには、この自己の二重化のなかに、濃厚な世界の二重化の香りを感じるざるを得なくなっているのではないでしょうか。
『長門有希ちゃんの消失』の登場人物たちは、事故のショックによって変貌した長門を、一時の混乱した姿として片づけずに、元の長門と同等な「もう一人のあり得た長門」として受け止め、尊重します。それは、もう一人のあり得た長門が存在する別の世界の存在を、この世界(この現実)からも「考え得る」ということでもあると思います。
この項、つづく。次回12月28日(水)更新予定。
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