虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第17回 フィクションのなかの現実/『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』(1)

3月 22日, 2017 古谷利裕

 
 

物語内フィクションの三つの層

「マイマイ新子…」という物語のなかでは、いくつかの異なる空想=フィクションの層が重ねられています。まず一つめは、ただ新子の頭のなかだけで成立している空想です。それはたとえば先に挙げた緑の小次郎のような存在で、作品のなかでは見えないか、クレヨンによる殴り描きのような粗い形で表現されています。この一つめの層は、ただ新子だけを楽しませます。二つめは、先に書いた千年前の世界で、これは空想というより、物語の舞台である昭和30年の「この現実」と同等に、(作品内の)現実であるかのような、しっかりした構築性と表現が与えられています。

そして三つめは、土地の子供たちが共同してつくりあげ、管理している「池」です。子供たちは、せせらぎをせきとめて自分たちでつくった池と、そこに迷い込んだ金魚の「ひずる」とを含んだ一帯を、一つの象徴的な小宇宙のようなものとみなしています。この宇宙には、子供たちのリーダー格であるタツヨシの持つ木刀も含まれるでしょう。木刀は、頼りがいのある強い力と正義とを象徴し、金魚は、高貴でうつくしいものの価値を象徴しています。そのような力と美に守られて、その周辺に、子供たちにとっての価値あるものの世界の配置が池によって表されています。池は、子供たち自身によってつくられ、共同で管理される彼らの生きる世界の地図と言えます(この池をつくる過程を通じて、貴伊子は土地の子供たちと自然に馴染んでいきます)。この地図は、子供たちにとっての世界の姿を現すものであり、その世界は遊戯的であり、彼らの世界はこの地図を解釈格子として解釈されたフィクション的なものであると言えます。

現実的な次元では、力と正義は警察官であるタツヨシの父の存在によって支えられ(タツヨシの木刀は父の木刀です)、美と高貴さは学校教師のひずる先生の存在によって支えられている(金魚の名はこの先生からとられています)というように、子供たちの遊戯的世界の価値体系は、実在する大人への感情(信頼や期待)によって支えられています。新子にとっては、ここに、祖父によって支えられる知と世界への信頼が加えられるでしょう。

「マイマイ新子…」は、池という小宇宙によって象徴される上記のような子供たちの世界が揺らいでしまうという物語です。作中で新子は何度か、「思春期」という言葉を口にしますが、この言葉は身体的、あるいは性的な意味というよりも、子供として生きている小宇宙(世界観)の崩壊の危機を示していると考えられます。実際のひずる先生は、不倫の末に適当な相手と結婚して学校を去ってしまいますし(高貴というわけではなかった)、タツヨシの父は、博打でつくった借金のために母やタツヨシを残して自殺してしまいます(必ずしも強くも正しくもなかった)。

大人たちへの信頼は崩れ、それによって支えられていた価値は失墜し、小宇宙は支えをなくして意味を失いかけています。子供たちの小宇宙というフィクションの地図は、大人たちへの過剰な信頼や期待によって支えられていたために、大人たちの現実によって意味を失ってしまうのです。現実の大人は、常に高貴ではいられないし、常に強く正しくあることもできないので、子供たちの世界の価値を支えられないのです。
 

シリアスな「決死隊ごっこ」

子供たちの小宇宙における価値の失墜のダメージを特に大きく負うのは、貴伊子とタツヨシの二人です。貴伊子にとってひずる先生は、死んだ母と重なり、母の記憶の薄い彼女にとって母のイメージを補填する存在でもあります。だから、ひずる先生の高貴さの失墜は、貴伊子にとって母という存在を見失うことを意味します。タツヨシにとって父の真実(バーの女に入れあげ、博打で借金を重ねる)は、父の木刀によって象徴される力と正義が偽物であったことを意味します。

「マイマイ新子…」は、ここで現実に目覚めて大人になれ、と主張するような話ではありません。新たな金魚を、新たな木刀を、つまりより良いフィクションを、大人への過剰な期待に依存することなく見つけ出そうという話だと考えられます。そして、そこに空想する人としての新子の介入があるのです。

タツヨシの父の自殺を知った新子は、ウソをついて家を抜け出してタツヨシに会いに行きます。そして、タツヨシを焚きつけて、二人でタツヨシの父を陥れたヤクザや女のいる「バー カリフォルニア」へと殴り込みをかけるのです。客観的に考えれば子供たちだけでそんなことをするのはとんでもないことでしょう。しかし、ここで行われようとしているのは、木刀のもつ価値(力と正義)の失墜を避け、(父の権威によってではなく)自分自身の行為を通じて価値を再定位しようとする試みだと言っていいでしょう。

もちろん、子供たちの力と正義で悪者をコテンパンにやっつける、などという結果にはなりません。子供たちはそこで、自分たちの無力さと世の中のどうしようもなさを知ることになります。しかし、彼らはそのように行動することによって、木刀の価値を手放さずに済んだのです。父(への幻想)による万能の力と正義ではなく、自分自身の行為による、限定的な力と正義です。それは、父によって与えられたものではなく、自身の行動によってつくり出したものです。この行為を通過することによって、タツヨシは、酔って絡むようにしてベーゴマ必勝法を教えようとした父への嫌悪を語り(つまり、絶対的な力をもつ父への依存ではなく、父を客観視することができ)、自分はそうではなく、子供にちゃんとベーゴマを教えられるようになるんだ、と誓うことができるのです。

しかし、そのようなタツヨシの現実主義に対し新子は、それはそうだが、その前に一生懸命に遊ぼうや、と言うのです。もっとたくさんの遊びを憶えて、それを子供に伝えてやるんだ、と。つまり、タツヨシの父親の間違いは、十分に強く、十分に正しくあることができなかったというところではなく、充分に良く遊ぶことができなかったというところにあるというのです。

そして新子は、タツヨシに向かって「決死隊の戦友」と呼びかけます。ここで「決死隊」とは、二人でバーに乗り込んだ当の行為を指す言葉であると同時に、決死隊ごっことして、子供たちみんなで「山賊がいる(という設定の)防空壕」を探検した時のことも意味します。バーに乗り込んでいくことは、現実的には非常に危険な行為です。しかしこの危険で、さらには木刀の象徴的価値も賭けられたシリアスな行為を、のんきな決死隊ごっこの延長であるように名づけることで、タツヨシの父に依存した価値を振り払い、再定位された木刀の元での新たな遊戯が可能になる地平(地図)をスタートさせるのです。彼らの「決死」の行為は、タツヨシの父の仇などではなく、崩れかけた「遊び(フィクション)を可能にするための小宇宙」をバージョンアップし、よく良く、より強いものへと再設定するために必須の行為であったのです。普段ほとんど笑うことのないタツヨシが、「決死隊の戦友」という言葉に大きく笑います。決死の行為も、事後的に遊戯化されるのです。ここから再設定バージョンのスタートです。戦友という言葉は、決死隊があくまで「遊戯的」であることにおいて成立するのです。この後、タツヨシは母の親戚を頼って大阪に行ってしまうのですが、そこでも今までと変わらず「遊べ」というメッセージでもあるでしょう。

(父を亡くしたタツヨシが大阪へ去るということがらは、母のない貴伊子が防府へやってくるということがらと対称的だと言えます。)
 

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