虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第20回 人間不在の場所で生じる人間的経験/『けものフレンズ』

6月 21日, 2017 古谷利裕

 
 

回り道(1)パースペクティブ主義

人類学によってもたらされた知見の一つにパースペクティブ主義というものがあります。例えば、アメリカの先住民たちは、動物も、精霊も、死者も、すべて自分を「人間」だと捉えていると考えるのです。それらの存在はすべて共通する「人間の魂」を持っているのですが、異なる身体を持つ(あるいは、異なる自然のもとにある)ために、互いに違ったものに見えているのだ、と。例えば、人間にとって「血」として見えているものが、ジャガーにとっては(人間にとっての)「トウモロコシのビール」に相当し、人間にとって「コオロギ」として見えているものが、死者にとっては(人間にとって)「魚肉」に相当するものだ、というように。そして、人間が社会的な諸制度や文化を持つように、動物や精霊や死者もまた、彼らにとっての「人間的諸制度」を持っているのだ、と(註1)。

今、分かりやすいように「人間にとって」と書きましたが、動物も精霊も死者も皆、自分たちを「人間だ」と思っているので、正確には、今、自分のことを人間だと思っている私にとって、と言い直すべきでしょう。今、自分のことを人間だと思っているこの私には「ジャガー」だと見えている相手もまた、自分のことを人間だと思っていて、自分を人間だと思っているジャガーから見た私は、人間ではない、動物や精霊や死者や何かとして見えているはずだ、ということになります。

私も動物も精霊も死者も、自分を人間だと思い、相手もまた、こちらも同じ魂をもつ者だと知っているはずだけれど、ジャガーは私を襲って食うかもしれないし、死者は私に呪いをかけるかもしれない。魂は同じであるにもかかわらず、違う自然、違う仕組みに属しているため、捕食-被捕食関係や敵対関係が発生することは避けられない、と考えられているのです。しかしだからこそ、例えば私がトナカイを狩るとき、同等であるトナカイを自分たちに必要である以上に狩ってはならないし、しきたりを守り、きちんとした儀礼を尽くした上で狩らなければならない、とするのです。狩猟と儀礼とは、互いに同等な関係として、与え得るものを与え合う対称的なやりとりなのです。

私は私として人間であり、熊やトナカイもまた、熊やトナカイとして人間だ、と。そこで、熊を狩る狩猟者は、「熊としての人間」のありようを模倣することで熊を出しぬき、熊の側では、「狩猟者としての人間」のあり様を模倣することで狩猟者を出しぬくという、パースペクティブの盗み合いという命がけのゲームが、狩りという行為において生じるでしょう。だから、狩猟者としての人間は、熊としての人間のありようをよく知っていなければならないのです。

エスキモーの神話に、狩人の兄弟のまだ半人前の末っ子が、山の中で女性に誘われ、ついていくと山羊の共同体があり、そこで生活し、山羊の毛皮を被って、そこのすべての雌山羊とつがうという話があります(註2)。すべての雌とつがうと、女から、「あなたはもう立派な狩人です、あなたは山羊が人であることを知りました、だから山羊を殺したら敬意を払って死体を扱わなければなりません、また、あなたはすべての雌山羊とつがったのだから、あらゆる雌山羊はあなたの妻で、あらゆる子山羊はあなたの子孫です、義理の兄弟である雄山羊だけを狩りなさい」と言われ、人のもとに帰されます(雌や子山羊を狩らないことは、環境の維持として重要です)。そして兄弟たちは、彼が山羊たちと暮らしていたこと、すべての雌山羊とつがったことを知っているのです。つまり狩人たちは、山羊と暮らし、つがうことで、山羊のパースペクティブを経験し、それによって一人前になるのです。

また、神話ではなく、実在する狩人が同様のことを語る場合もあります(註3)。ユカギールの狩猟者である彼は、長い時間かけてトナカイの群れを追っていて、空腹で、寒くて、不眠でした。群れの追跡を続けていると、夜明けに視線を感じ、20メートル先に老人がいたのです。誰かと尋ねても老人は応えず、自分についてくるようにと手招きをします。彼は老人が近くに小屋と食べ物を持っていると思ってついていきます。老人はスキーをつけているのに足跡がトナカイのようでした。変だと思ったのですが、彼は空腹で疲れていたので気にしている余裕もありません。しばらく行くと30以上のテントからなるキャンプがあり、あらゆる世代の人がいましたが、彼らが何を言っているのか理解できませんでした。食事は肉ではなく苔でしたが、空腹だったので悪くはありませんでした。ここで彼は、妻の名を思い出そうとしても思い出せないことに気づきます。その後、眠ってトナカイの夢を見ます。彼は、誰かの「ここはお前のいる場所ではない、帰れ」という声を聞き、ここにいるべきではないと思って、こっそりキャンプを抜け出して村まで帰ります。彼にとっては1週間程度の不在のはずでしたが、村人は1か月以上帰らないので死んだと思っていたと言うのです。彼は言います、《私が出会った人びとはトナカイだったように思えるし、私はそれらを殺すべきだったのかもしれないが、そのとき、私にはそのことが分からなかった。たぶん、それはすべて夢だったのかもしれない。でも、その時、そんなに長い間どうして私はいなくなっていたのだろうか?》
 

回り道(2)動物でもなく、動物でもなくはない

狩人たちは、獲物である山羊やトナカイのパースペクティブについてよく理解しているからこそ狩りを成功させることができるのですが、逆に、よく分かっているからこそ相手方に取り込まれるという危険もあるのです。『攻殻機動隊』で言われる《眼を奪う》という出来事が、ここではパースペクティブの奪い合いという形で、テクノロジーの媒介抜きで起きているのです。

デンマークの人類学者Rane Willerslevは、狩猟者が狩りの対象のパースペクティブを模倣することでそれを誘い出すとき、狩猟者は同時に二つの動機を持った空間で振る舞うのだとします(註4)。一つは「捕食者が支配する空間」であり、もう一つは「動物を模倣する空間」です。前者は、狩猟対象を殺すという狩猟者の意志にかかわり、後者は、その意図を達成するために狩猟対象のパースペクティブを模倣する必要性にかかわっています。彼はこのとき、狩猟者であると同時に狩猟対象の動物でもあるのです。

狩猟者と獲物(動物)という、二つのパースペクティブ、二つのアイデンティティの間で行動することは、とても高度な制御が必要となります。もし彼が、狩猟者としてのアイデンティティを外に匂わせるのならば、動物はそれを察知して逃げるか彼を襲うかするでしょう。もし彼が、狩猟対象のパースペクティブに近づきすぎて狩猟者としてのアイデンティティを失えば、彼は動物そのものになって(眼を盗まれて)しまい、狩猟を成功させることができないでしょう。だから狩猟者には、彼のパースペクティブが狩猟者のそれでも動物のそれでもどちらでもなく、その間か、あるいは同時に両方でもあるという状態であることが要請されるのです。このような狩猟者の状態は、「動物でもなく、動物でもなくはない」という二重の否定によって表現されます。狩る者のパースペクティブと獲物のパースペクティブとの関係の制御によって、狩猟者という第三のパースペクティブが成立する、と言うこともできるでしょう。
 

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