虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第21回 哲学的ゾンビから意識の脱人間化へ/『ハーモニー』と『屍者の帝国』

About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
Published On: 2017/7/12By

 

【単行本のご案内~本連載が単行本になりました~】

 
現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
 
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
 

【ネット書店で見る】
 
 

 古谷利裕 著
 『虚構世界はなぜ必要か?
 SFアニメ「超」考察』

 四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
 ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]

 
 

哲学的ゾンビ

哲学的ゾンビと呼ばれる思考実験があります。オーストラリアの哲学者、デイヴィッド・チャーマーズが考案した唯物論に反対する議論です。チャーマーズは、「意識」は空間や時間と同様に宇宙の根本原理の一つであり、物理によって意識を還元する(物理的事実によって意識を説明する)ことはできないだろうと考えています。彼は、情報論的汎心論とでもいうような立場をとっており、一貫性のある情報処理系には原初的な意識の萌芽のようなものが自動的に宿ると考えます。例えば、サーモスタットのような装置にすら、単純で原始的な意識形態があると考えるのです(註1)。

哲学的ゾンビの論法は以下のように組み立てられています。(1)我々の世界には「意識」という体験がある。つまり、少なくとも「このわたし」が意識を持っていることは、わたしにとっては自明だということです。(2)物理的には我々の世界とまったく同じでありながら、我々の世界にある「意識」にかんする事実がまったく成り立たない世界を想定することが、論理的に可能だ。これは、我々の宇宙とまったく同じ物理法則を持ち、銀河や太陽系や地球を持ち、わたしやあなたと何も変わらない人間が、我々とまったく同じように活動していながらも、誰も「意識」を持っていないという別の宇宙を想定したとしても、論理的に矛盾はないということです。(3)したがって、意識にかんする事実は、物理的事実とは別の、我々の世界にかんする事実である。意識は物理から独立している、と。(4)故に、唯物論は間違っている。つまり、物理と意識を切り分けることが可能なのだから、物理的事実から「意識」を導き出すことはできないはずだ、ということです(註2)。

この論法によって唯物論が否定できるかどうかは微妙です。その理由は、(2)が成り立つということを証明することができないからです。(2)の条件は、現在の人間が持ち得る科学や論理の範囲であれば成り立ちますが、本当に成り立つのかどうか、実際にそのような宇宙をつくることができるかどうかは、神でない我々には分かりません。この宇宙とまったく同じ物理法則を持つ宇宙を実際にもう一つつくったとしたら、必然的に「意識」もついてきてしまうかもしれない(哲学的ゾンビ宇宙の実現は不可能かもしれない)ということを、現状で完全に否定することはできないと私は考えます。もし、唯物論が間違っていれば(2)の条件は成り立つでしょうが、唯物論が正しければ(2)の条件は成り立ちません。しかしこれでは、唯物論が間違っていれば唯物論は間違っている、ということになって、論理が循環してしまいます。

なので、これは証明というより思考実験です。意識の機能については、様々な説明があり得ます。意識は計画のために必要とされただとか、意思決定(決断)のために必要だとか、意識とは統合情報量にかかわるとか、いろいろ言えますが、しかし、意識なしでも、それは実現可能なのではないかという反論が、どのような仮説に対しても常に可能であり、しかしそれでも「意識はある」ということを、哲学的ゾンビの想定は表現しているのです。哲学的ゾンビによって、唯物論が間違いだと言い切ることはできませんが、しかし、唯物論(物理的一元論)が正しいと言い切ることもできないということも、同様に意識されるのです。一見素朴だと感じられる心身二元論ですが、それを論破する(完全に排斥する)ことは、実はかなり難しいことだということを、哲学的ゾンビは示します。

哲学的ゾンビ論法の是非はともかく、(2)のような世界のイメージ、わたしやあなたと何も変わらない人間が、我々とまったく同じように活動していながらも、誰も「意識」を持っていないという哲学的ゾンビ宇宙のイメージは、とても強いインパクトを持っているので、多くの人の思考を刺激します。それは、哲学的な議論を越えて、様々なフィクションにも影響を与えます。
 

メアリーの部屋とクオリア問題

アラン・チューリングは、チューリングテストに合格し、人間からみて、人間と区別がつかない知的な振る舞いができると判定された機械には、知性があると言ってよい(人工知能と言い得る)と考えました。つまり、知的であるということは、知的であるようにみえる振る舞いができるということなのだ、と。我々には他人の心を内側から体験することはできないので、結局は人(他者)に対しても同じような判断をするしかないでしょう。しかし、機械に知性を認めることと、意識を認めることとの間には、微妙な違いがあります。自分が今使かっているパソコンにさえ、我々は充分に知性を感じることができると思われますが、そこに意識があると感じるのは難しいでしょう。パソコンの持つ知性はまさに、チャーマーズの言う哲学的ゾンビ的な知性だと考える方が自然であるように感じられます。

では何を満たしていれば、それに「意識がある」と認められるのでしょうか。まず挙げられるのが、「わたしは、わたしという意識を持って存在している、ということを意識している」という自己言及性でしょう。我は、我ありと思う、故に我あり、です。そして、その「わたしという意識」を持つ自己言及的わたしが、時間や空間のなかで連続して存在している、という感覚も必要でしょう。昨日はA地点にいて、今日はB地点にいて、明日はおそらくC地点にいるであろう「わたし」は、すべて同じ「このわたし」であるという感覚があるということです。それは、わたしは常に「このわたし」の位置に固定されていると感じられるということでもあります。この二つが成立していれば、少なくともゾンビではないと言えそうです。さらに、自己言及的で同一性が持続する何かである「わたし」が、喜びや快感、苦痛、恐怖や欲望や様々な感覚など、世界を価値づけ、色づける感情とともに、それらと切り離せない形で存在している、という感じを持っていれば、ほぼ完璧に「意識がある(ゾンビではない)」と認められるのではないでしょうか。

(分析哲学系の心の哲学では通常、意識の内容を、何かが成立していると考えたり感じたりしている状態としての「信念」、何かが成立することを欲している状態としての「欲求」、何かに喜んだり悲しんだりしている状態としての「感情」、何かを見たり聞いたり味わったり、痛みや痒みなどを感じている状態としての「知覚・感覚」などと、細かく分節しますが、ここではそこまでは立ち入りません。)

チャーマーズと同じく、オーストラリアの哲学者であるフランク・ジャクソンによって提示された「メアリーの部屋」という思考実験があります(註3)。メアリーは、視覚の神経生理学について完璧な知識を持っているものとします。光の特性、眼球や網膜の仕組み、視神経と視覚野の繋がり、脳のなかで視覚像が構成される仕組みなどをすべて理解しています。つまり、視覚にかんする物理的事実はすべて知っていると仮定するのです。しかし彼女は、何かしらの事情で、あらゆるものが白黒としてあらわれる部屋のなかに、生まれてからずっと住んでいるとします。そんなメアリーが白黒の部屋から解放され、外に出てはじめて「色」を見たとします。この時、彼女は何か新しいことを知ったと言えるのでしょうか。

もし仮に、この時彼女が新しい知識を得たと言えるのならば、(彼女は物理的事実のすべてを既に知っていたはずだから)定義により唯物論(物理的一元論)は間違っている(物理的事実には還元できない何かがこの世界にはある)ことになります。しかし、この結論は直観的にもどこかおかしいと感じられます。この思考実験では、三人称的な知識と一人称的な経験とが混同されてしまっているように感じられます。実は、このような違和感を生むことこそがこの思考実験の重要なところです。三人称と一人称の隔たりをどうつなげるのか。ここでクオリア問題が発生します。

知的であるということは、環境から情報を収集(入力)し、それに対して的確な行動(出力)ができるということでしょう。何をもって「的確」とするのかという点に、その知性のあり様が現れるでしょう。人間から見て的確だと感じられる行動を起こせる人工知能は、人間的な知を持っていると言えます。しかし、チャーマーズの言う通り、知はゾンビでも可能です。つまり、三人称的な視点に還元できそうです。そこに、持続する同一性と自己言及性、そして世界への(世界からの)色付けが加わることで、意識があると言える状態になります。しかし、この部分には、三人称には還元できない一人称的なもの(クオリア問題)がどうしても入ってきてしまうでしょう。そして、通常はこの上にもう一つ魂という問題が重ねられます。魂の問題には、たんに環境に対する応答(知)ではない、たんに一人称的な経験(意識)でもない、自己を乗り越えて善を選択する自由意思、あるいは個を越えて永遠に持続する魂という問題が絡んできます。

自由意思の有無や魂の永遠という問題は、あまりに大きすぎる問題なのでここではこれ以上は扱いません。確認しておくべきことは、通常「意識がある」と言う時、今までみてきた「知」「意識」「魂」という三つの層の重なりが意識され、そしてしばしば混同されているということです。そして、「知」はある程度三人称な問題に還元して扱うことができます(故に人工知能は可能でしょう)。しかし、「意識」を扱うには不可避的に一人称的な視点の導入が必要となります。そして、自由意思や永遠が問題となる「魂」とは、三人称と一人称との相克が問題として浮上する場であると考えることができるのではないかと思います。
 

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About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
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