虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第21回 哲学的ゾンビから意識の脱人間化へ/『ハーモニー』と『屍者の帝国』

About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
Published On: 2017/7/12By

 
 

『ハーモニー』と意識の消失

『ハーモニー』は、あらゆる物事に対して健康の維持が優先される生命至上主義的な未来社会が舞台となる物語です。人々は一定以上の年齢になるとWatchMeと呼ばれる健康状態を監視する装置を体内に埋め込み、それは各個人に最適な薬を自動的に提供するメディケア(個人用医療薬精製システム)とつながり、さらに生府(ヴァイガメント)による恒常的健康監視システムに繋がっています。人々の健康状態は常に監視され、一人一人が個別に、将来予想される生活習慣病を未然に防ぐための、栄養摂取や生活パターンなどにかんする助言(圧力)をシステムから受けています。各々の身体はすべて個としてではなく「社会的に希少なリソース」として尊重されているのです。健康の過剰な尊重だけでなく、社会は、争いや摩擦をでき得る限り避けるように制度設計がなされているようです。

このような社会が生まれたことには理由があるようです。物語の時代の半世紀前に、大災禍と呼ばれる、人類を滅ぼしかねないほどの世界的な大混乱の時代(流出した十数発の核兵器が使用されるなど)があり、それへの大きな反省から、人々は、思想信条や立場の違いによる摩擦や対立、そこから生じる暴力や破壊、そして健康被害や死というものを非常に強く忌避するようになったのです。極端な生命至上主義思想が受け入れられるようになり、政府に対する生府の優位、WHOの権限の過剰な拡大などが進行していったということのようです。

医療技術の進歩と極端な健康管理システムにより人々は長寿になり、大災禍の生き残りの世代の多くが現役として社会の中枢的な地位を占めており、そのことにより、大災禍はいつまでも過去の歴史的出来事となることなく、社会のなかで未だ生々しいトラウマでありつづけているのです。社会全体が、混乱の兆候に対して過剰に敏感になっている状態だと言えるでしょう。社会の混乱や破壊を極端に恐れる大災禍の生き残りである生府のトップたちは、WatchMeシステムを用いて人の意識をコントロールすることができないかと、秘密裏に実験を行ってもいます。そんな社会のなかで、6582人もの人が、同じ日の同じ時刻に一斉に自殺を図るという事件が起きるのです。

主人公は、WHOの一部局である螺旋監察事務局(生命権の保全のための監査を行う)の上級監察官であるトァンという女性ですが、彼女はミステリにおける探偵のような役割で、事件の核心にいるのはトァンの同級生でもあるミァハという女性です。生命至上主義の時代のなかで、あからさまな死への傾倒を隠そうとしなかった高校生時代のミァハは、トァンやその友人のキアンにとってカリスマ的な強い影響力を持つ人物でした。

フーコーの自殺論を引用し、死のみが権力によって侵されない唯一の自己の権利だと主張し、死への傾倒への人一倍強い意志を持つミァハは、人々の意識を制御しようと試みる科学者たちには恰好の実験材料でした。極めて強い意志を持つミァハの意識さえ制御可能ならば、他の多くの人々の意識の制御も可能であろう、と。ここで制御とは、人形使いのように人を思い通りに操作するというのではなく、社会が混乱や破滅へと至らないような安定性を持つため、他者や環境との合理的な調和を自然に実現するような方向に、人々の意識を自動的に仕向けていくというものでした。研究が進み、とうとうそのハーモニー・システムが完成したその時、なんとミァハは意識そのものを失っていたのです。

ミァハは、ハーモニー・システムが稼働している時も、普段の通りに行動し、会話もしていました。しかし、実験終了後のミァハは、ハーモニー・システム稼働中の記憶が一切ないというのです。意識はなく、ただぼんやりとした幸福や恍惚のなかにいたのだ、と。つまり、社会の調和を実現するハーモニー・システムは、人を哲学的ゾンビにするというのです。
 

意識は調和によって消失するのか

ここでもう一つ重要なのはミァハの出自です。彼女はつい最近発見されるまで外部との接触を一切もっていなかった未接触部族の出身で、長い世代にわたって近親婚を繰り返すその部族に属する人たちの多くは、遺伝的な欠損によって意識を持っていない、というのです。彼らは意識を持たないまま(あるいは持たないからこそ)、物事を極めて合理的に判断するのだと。彼らには、選択も葛藤も決断も必要ないから、意識も必要なかった、ナチュラルにハーモニー・システムである人たちだというのです。そしてミァハもまた、もともとは意識を持たない人であった、と。

しかしミァハは、八歳の時にロシア兵に誘拐され、人身売買のネットワークから、ロシア兵士専用の性的奴隷が集められた場所へと送られてしまいます。そこで日々繰り返される言語を絶する悲惨な出来事のなかで、本来、意識も苦痛も持たなかった彼女のなかに、徐々にエミュレートされた意識のようなものが芽生えていったというのです。そのようにして生成された「意識」が、世界を強く憎悪し、死へと傾倒するものであることは納得ができるでしょう。そして、意識のない状態から、苦痛と恐怖と憎悪としての意識が芽生え、さらにその後に、ハーモニー・システムによる意識のない幸福を経験したとすれば、ミァハが「意識のない世界」を望むことも納得ができます(ネタバレですが、自殺騒ぎやその後の脅迫的宣言で社会を混乱させた組織の黒幕はミァハでした。彼女は、社会に大きな混乱を招くことで、生府の中枢がその収拾のためにすべての人に対してハーモニー・システムを作動させて、人類すべての意識を失わせることを促したのです)。

ここでは二つのことが主張されていると読み取れます。一つは、完全な合理性や調和が実現されれば、意識は必要がない。あるいは逆で、意識さえなければ、完璧な合理的判断と調和による安定した世界が可能である。もう一つは、完璧な合理性や調和とはほど遠い、偏った強い負荷や不合理な混乱から、意識が生じる。あるいは、偏った負荷や混乱が、意識というものを要請する。つまり、意識というものがある以上、世界は不合理でありつづけ、混乱や暴力、破壊は免れない。これが、『ハーモニー』という物語から導かれる一つの結論と言えるでしょう。前述したように、知、意識、魂の三層があるとして、魂や意識の層をなくし、知の層だけに還元してしまえば、混乱はなくなり、世界は調和するであろう、ということでしょうか。

しかしここで、「哲学的ゾンビ」というものがどういうものだったのかもう一度思い出してみましょう。それは、わたしやあなたと何も変わらない人間が、我々とまったく同じように活動していながらも、誰も「意識」を持っていないという宇宙のイメージが想定可能だ、ということでした。つまり、意識がなくなっても、意識がなくなるだけで、三人称的にみれば何もかわらないと想定することができる、ということです。『ハーモニー』のように、意識があるから脳内のシステムの調和が不可能で、意識がなくなることでシステムの調和が可能になるという形で因果関係を結ぶことは、一人称的な経験の次元(メアリーの経験する色)と、三人称的な知(メアリーの持つ光学的物理的知識)とを混同してしまうことと、同じ混乱に陥っているのではないでしょうか。

『ハーモニー』の原作小説では、脳の報酬系とその不適切な重みづけ(「痛み」に過剰な価値がつけられるなど)の問題として、この不合理が語られています。しかしこれについても、意識の有無とは無関係に、三人称的に語り得ることであるはずです。(ハーモニー・システムにかんして)意識があるままでも、この重みづけの変数を、適切な配置へと変更させることは可能であるかもしれないですし、(ミァハの出身部族にかんして)意識をなくしただけで、重みづけの変数が自動的に適切な値へ変化するということも考えにくいです。これは、意識(一人称)の問題ではなく、脳という装置の構造(三人称)の問題だからです。報酬系の重みづけの変数を変えること(ハーモニー・システムを作動させること)によって、意識そのものが消失してしまうという論理の展開は、「意識」の問題について考えるときに陥りがちな、三人称的な知と一人称的な経験の混同が起きているように思われます。間違いであるとまでは言えませんが、根拠があやふやであるという印象を受けます。

さらに言えば、脳の報酬系の重みづけの変数を適切な(外的環境に対して調和的な)配分に変えたくらいで、脳のシステムに完璧な調和状態が訪れるというのも考えにくいように思われます。脳の内部で、より適切な、バランスのよい対立や葛藤が行われるようになると考える方が常識的であるように思われます。
 

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About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
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