原作とアニメ版との相違
興味深いことに『ハーモニー』では、アニメ版と原作小説とで結末の重要な部分に食い違いがあります。
アニメ版で主人公トァンは、ミァハが望む「すべての人間が意識を失う」世界は受け入れるのですが、大好きなミァハの存在(意識)が消えてしまうことは受け入れられないのです。ミァハはミァハでいてほしいという理由から、ミァハのままでいるうちに(意識を失い他者との完全なハーモニー状態になる前に)彼女を殺すのです。ミァハは、(トァンにとっての憧れの)ミァハとして死にます。世界の匿名化は受け入れても、ミァハの匿名化は受け入れられないという逆説が生じます(トァンのエゴ)。
しかし原作では、トァンがミァハを殺すのは、ミァハの行為によって友人(キアン)や父が死んだということを、トァンがどうしても看過できないからです。ミァハの望んだ世界は実現させてあげるけど、その世界をミァハには与えないということが、友と父の死に対するミァハへの復讐なのです。そして、ミァハはトァンに考えに納得し、トァンが自分を殺したことを受け入れます(撃たれた後に、これで許してくれる?、と言う)。
アニメ版のトァンは、自分のなかにある「幻想のちっぽけなカリスマ」としてのミァハに囚われつづけ、それを越えることもできずに、自分のなかのミァハを生かすために、現実のミァハを殺すのです。しかし原作の方では、トァンがあくまで自律的な意志(選択)によって撃ったという点に重きが置かれます。
この後、人類は意識(意志)を失ってしまいます。原作ではここで、コントラストとして、人類が今まさに失おうとしている(自らの行為を自律的に選択するものとしての)「意志」を強く示していると言えるでしょう。一方アニメの方は、何かを選択し決断する意志というより、人が「個としての意識(自他の区別)」を失うことに重きが置かれているから、ここでエゴ(利己的欲望)こそが強調されるのではないでしょうか。おそらくアニメのスタッフたちは、わたしというものの固有性において、意志(選択・決断)というものにそれほど重きを置いてはいなくて、「わたし」というものの実感として、他者と共有できない利己的欲望(解消できない自他の区別)の方を強くリアルに感じているのだと思われます。
『屍者の帝国』
『ハーモニー』では、人類のすべてを哲学的ゾンビにするというショッキングなイメージが提示されていましたが、そこへと至る(その根拠となる)理路がやや曖昧であるように思われました。そしてその曖昧さを補強し、批評する物語として、伊藤計劃によって書き出され、円城塔によって完成された『屍者の帝国』があると考えられます。本来、この連載はアニメにかんするものなのですが、アニメ版『屍者の帝国』はあまりに多くの欠落がありすぎるので、ここでは例外的に原作小説を直接みていきます。
『屍者の帝国』は、19世紀を舞台とした、現実とは異なるテクノロジーを前提とする物語です。この物語世界では、死体に疑似霊素をインストールすることによってロボットのように動かす(屍者)技術が確立されています。屍者は兵力や労働力として、社会になくてはならないものになっています。この技術を開発したのがヴィクター・フランケンシュタイン博士で、彼は唯一、魂を持つ屍者(ザ・ワン)を成功させましたが、その技術を記した「ヴィクターの手記」は、物語の現在では失われてしまっています。
主人公は医学生のワトソンで、彼は政府の諜報機関「ウォルシンガム機関」の指揮官「M」(シャーロック・ホームズの兄です)に諜報活動を依頼(強要)されます。そこに、ワトソンの行動の記録係である屍者のフライデー、ワトソンの指導教官のさらに師であるドラキュラハンターと呼ばれるヘルシング教授、トーマス・エジソンによってつくられた女性型ロボットのハダリー、『カラマーゾフの兄弟』の登場人物であるアレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフ、魂を持つ唯一の屍者であるザ・ワンなど、多数の人物たちが入り乱れて、失われた「ヴィクターの手記」を追いながら、魂や生命にまつわる物語が紡がれていきます。屍者とは端的にゾンビであり、この物語でも『ハーモニー』から引き継がれた意識の問題が重要な主題となっています。
一の多にあらず、多の一にあらず
100年以上も生き続ける、魂を持つ唯一の屍者であるザ・ワンは、魂や屍者技術について長年研究を重ね(ザ・ワンはなんとチャールズ・ダーウィンでもあるのです)、人間の意識について非常に重要な考え方を得ています。
人間の意識は(脳によってではなく)、人間のなかでだけ活性化されるある種の菌株の働きよって生じるというのです。人は菌から与えられたそれを、自分の意志だと勘違いしているのだ、と。腸内の細菌が、人間と共生し、栄養の消化、吸収になくてはならない存在であるのと同様に、その菌株は人間と共生し、人間に意識を与えて、人間の生存確率を高めることに貢献しているのです。意識は、多としての菌たちの生態系の結果として生じるのであり、様々な矛盾する行動パターンを持つ菌株たちの多くの派閥間のコンフリクトから生まれるといいます。ここでは、分析哲学で言う「随伴現象説」が採られていて、この菌株たちのもたらす物理パターンに、意識が随伴するということになっています。つまり、菌株たちの意識が人間を操作・支配しているというのではなく、菌株たちの行動パターンに随伴して、結果として人に意識が現われているということです。菌株は人の意識の起源(原因)であるにもかかわらず、菌株自身はそれを知らず、人の意識は菌株から来るにもかかわらず、人(の意識)はそれを知りません。一としての人間の身体が、多としての菌株たちに生態系を与え、多としての菌株たちのコンフリクトが、一としての人間の意識(状態)を与える、ということになります。
これが、『屍者の帝国』という作品で採用されている「意識」のあり様の説明で、『ハーモニー』における、自明で選択のない合理性と他者との完全な調和により「意識が消失する」という、やや曖昧な説明に対して、高い解像度の理屈が与えられたと言えるでしょう。たとえばここでは、随伴現象説が採られ、意識の原因が菌株にあるとされながら、それが菌株自身の意識の反映ではなく、多数の菌株たちの行動パターンによって生じるとされることで、三人称的な知と一人称的な経験との混同はとりあえず避けられています。
屍体化の技術とは、様々な行動パターンを示す菌株の派閥のなかの、ごく少数派である「拡大派」のみに通じる「言語」を用いて、拡大派の行動を制御し、それによって死体の行動を自由にコントロールする技術だとされます。拡大派は菌株全体では少数派なのですが、人間の死後も人のなかで生き続けられるので、死後の人間のみ、(ソフトウェアならぬ)「ネクロウェア」によって思い通りに動かすことができる、という理屈です。
ザ・ワンと対立するヘルシング教授は、言語の力で死体をコントロールできているのだと考えていますが、そう見えるのは、死体のなかでは既に「菌株たち(精神)の生態系」と言えるものが壊れてしまっていて、ただ拡大派だけによって一元的に支配されているからだと、ザ・ワンは主張するのです。つまり、屍者に意識がない(意識の消失)のは、葛藤のない滑らかな合理的決定と全体的な調和によってもたらされるものではなく、たんなる単調な一元支配によるものだという点で、『ハーモニー』への批評となっていると考えられます。