虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第25回(最終回)「ここ-今」と「そこ-今」をともに織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』 (4)

9月 27日, 2017 古谷利裕

 
 

二つに分岐した桃果

高倉家の3人(冠葉、晶馬、陽毬)の関係と、その先行世代である「事件」を経験した同級生の3人(桃果、多蕗、ゆり)の関係は、反転した対称形のような形をしていると言えるでしょう。後者の3人の関係では、桃果が愛を与える者であり、多蕗とゆりの2人は桃果から愛を受ける者でした。多蕗とゆりは、桃果に「選ばれる」ことで、呪いが解かれ、この世界に居場所を得ます。しかし、『輪るピングドラム』の世界では、愛を与えた者は必ずその代償を支払うことになります。桃果は、多蕗やゆりを救うために、手を焼かれ、全身を焼かれることを強いられました。高倉家の3人の場合、冠葉と晶馬の2人が愛を与える者で、陽毬1人が愛を受ける者と言えます。愛を与える1が2に分離し、愛を受ける2が1に収縮します。つまり冠葉と晶馬は、二つに分かれた桃果で、陽毬は一つにまとまった多蕗とゆりなのです。桃果が二つに分離することによって、愛を与える者としての役割が晶馬に、代償を払う者としての役割が冠葉に割り当てられることになりました。晶馬が陽毬を見つけることで彼女に居場所を与え、冠葉が自身の身を投げ打って彼女の命を存続させるのです。

桃果の残した日記は、8話で二つに引き裂かれ、半分が何者かに奪われてしまいます(ここで日記を奪ったのはゆりでした)。そして、残りの半分も別の者(真砂子)に奪われます。冠葉と晶馬はいわば、二つに裂かれた日記の片方ずつに当たると言えます。この物語の前半では、桃果の残した日記は、桃果の代理である苹果の行動を促すものとして機能していました。そこで苹果は、桃果の残した物語を自らの身で再現することを通じて、桃果の代理であろうとし、代理であろうとすることを通じて、自分自身の運命と出会ったのでした。桃果の残した日記は、まず、妹である苹果の呪いを解いたのです。ここまでで、日記は第一の使命を果たしたことになります。

しかし後半では、日記はその意味を変化させます。日記のもつ意味は、そこに書かれた物語にではなく、そこに込められた魔法にあることになります。日記には、「運命の乗り換え」を実現させるための呪文が書かれているというのです。そしてその呪文は、半分ずつに分離してしまった二つの断片の、両方がそろってはじめて解読可能になるのです。つまり、桃果の残した日記は、一つであった前半の物語では桃果の代理としての苹果のあり様とパラレルであり、二つに分離した物語の後半においては、桃果の代理としての冠葉と晶馬のあり様とパラレルであるのです。

もちろんここで、2人はたんに桃果の代理役を振り分けられているのではありません。前半の物語において、苹果が桃果の代理であることを通じて桃果を越えていったように、後半の物語での冠葉と晶馬もまた、桃果の代理であることを通じてそれを越えることが要請されているのです。なぜならば、桃果は「運命の乗り換え」に失敗したからです。桃果の力では、自分の存在のすべてを犠牲にしてもなお、テロのない世界への乗り換えは叶えられませんでした。「ここ」と「そこ」との転倒は成らなかったのです。

つまり、高倉家の3人は、失敗した先行世代の代理であり、やり直しであると言えるでしょう。やり直しとは、反復することを通じて乗り越えるということでしょう。そして、先行世代の「やり直し」である高倉家の3人には、先行世代には存在しなかった、苹果や真砂子という新たなプレイヤーが加わっているのです。それによって何が変わるのでしょうか。

「2」であることの複数の意味

この物語には様々な二項対立が仕掛けられています。例えば、一方に世界を壊そうとする力の象徴としての眞悧がいて、もう一方に世界を救おうとする力の象徴としての桃果がいます。そして、一方に愛を与える者がいて、もう一方に愛を受ける者がいます。そうだとすれば、一方に愛を受けることでこの世界に居場所を得る者がいて、もう一方に愛を受けることなく透明になってしまう者がいます。さらには、愛を与える者もまた、愛を与える者(晶馬)と代償を支払う者(冠葉)とに分岐して対立します。現在と過去(あの事件)との対立もあり、先行世代とその後の世代の対立もあります。過去との断絶が強調される物語前半と、過去と現在が一つの「同時性」として混じり合う物語後半という対立もあります。この物語のマスコットであるペンギンは、黒/白という二項対立的な色をもち、水のなかにいる鳥という二項対立的なイメージを併せもってもいます。

とはいえ、この「2」という数字には注意が必要です。「2」だからと言って必ずしも対立的とは限りません。例えば、眞悧と桃果(≒プリンセス・オブ・ザ・クリスタル)とは、確かに対立する存在だと言えるでしょう。16年前の「あの事件」とは、世界を滅ぼそうとする眞悧が桃果によって二つに引き裂かれ、世界を救おうとする桃果が眞悧によって二つに引き裂かれるという形で、二つの力の相殺によって引き起こされたと言えます。つまり、世界は滅ぼされもしなかったし、救われもしなかったと言えるのです。陽毬の命と同様に、16年前の事件以来、この世界自体が生と死の間に保留されてしまっているかのようです

この、保留されてしまっている世界において、現在と過去とは、対立するというより循環する二項と言えるでしょう。現在は常に過去からの強い作用によって規定され(過去→現在)、現在を変えるためには過去(記憶)に対して何かしらの強い働きかけが必要となるでしょう(現在→過去)。この物語では現在の場面と回想場面とが緊密に相互作用します。登場人物たちは多くの過去を忘れてしまっており、まずそれらを掘り起こすことが、現在を変えるための条件でもあるのです。そしてこの物語のクライマックスは、現在における「過去(あの事件)のやり直し」にあると言えます。つまり現在と過去とは、対立というより循環によって互いを規定し合っており、一方の変化が他方にも及ぶという関係にあります(その変化を押し留めている力が呪いでしょう)。

次に、愛を与える者と愛を受ける者とは対立的なのでしょうか。例えば、晶馬と陽毬との関係において、晶馬は愛を与える者ですが、晶馬と苹果との関係においては、苹果の方が愛を与える者であり、晶馬は愛を受ける者となります。また、それによって陽毬-晶馬-苹果という三角関係も生まれます。そもそも、高倉家の晶馬-陽毬-冠葉という関係が三角関係的でした。さらに、冠葉は陽毬との関係においいては自らの身をもって代償を支払う者ですが、真砂子との関係においては、真砂子の方が冠葉を救うために自らの命を差し出し、愛の代償を支払うのです(21話)。ここから、陽毬-冠葉-真砂子という、もう一つの三角関係が見出されます。

彼らの関係を図で整理してみましょう。陽毬、冠葉、晶馬、苹果、真砂子の関係を、愛する(相手を求める)という観点からみると、図1のような形になります。この図1の関係は、重なり合う三つの三角関係からなっており、分解すると図2のようになるでしょう。そしてこの三角関係は、ライバル関係にある二者(冠葉と晶馬、陽毬と苹果、陽毬と真砂子)の間に、対立と同時にある種の信頼関係を生じさせるのです。信頼関係という言い方は必ずしも適当ではないかもしれませんが、三角関係によって対立的に関係づけられる二者の間に、たんなる対立に還元されない別の関係性が生じ、それが人物(特に陽毬)の認識や気持ちを変化させ、関係を変化させるのです。二項関係は三項関係の三角形を媒介にすることで互いに役割を入れ替え、別の関係へと発展していく動きを形作っていきます。

この三つの三角関係の重なりは、クライマックスで晶馬-苹果、冠葉-陽毬という二つのカップルへと発展し、この発展が「運命の乗り換え」を可能にするのです(この点については後で改めて詳しく書きます)。前の節で書いたように、桃果、多蕗、ゆりの関係において、「愛を与える者」対「愛を受ける者」の比は1対2でしたが、冠葉、晶馬、陽毬の関係ではそれが2対1へと変化します。このように、1は2へと分岐し、2は1へと統合されるというふうな分離と統合の働きもまた、この物語を動かしている力動的構造の一つと言えるでしょう。

(桃果、多蕗、ゆりの関係においては、三角関係は織り重なってはおらず、一つしかなかったため、彼らの関係は動きがとれなかったのかもしれません。)

以上のように、一見すると同じような二項関係にみえるものであっても、二項の対立とその宙吊りという関係もあれば、二項間の循環的相互規定(相互変化)という関係もあり、二項関係と三項関係の重なりによる、関係の発展的な動きを導く構造としてあるものもあり、それらの様々な二項が重なりあってこそ、この物語のダイナミックな展開があり得ると考えるべきでしょう。
 
(図1)

 
(図2)

 

1 2 3 4