現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
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古谷利裕 著
『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』
四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]
冠葉の犠牲と陽毬の覚醒
物語の前半では、陽毬の死はプリンセス・オブ・ザ・クリスタルのもつ謎の力によって延期されていました。そこで陽毬の命の代償は、表向きには「ピングドラム」を手に入れることでしたが、同時にその裏で、冠葉の命がなにかしらのやり方ですり減らされているようでした。表現は抽象的ですが、おそらくこれは、桃果が「運命の乗り換え」を行う時にその代償として自らの身体の一部を焼くことが強いられるのと似たものだと考えられます。つまりそれは、愛を与えるには代償が必要だと言う、この物語世界の理にかなったことでした。
しかし後半になって、延命を眞悧によって供給される薬が担うことになると、その代償は「お金」ということになります。高校生である冠葉が高額な薬代を手に入れるためには、テロを起こした「企鵝の会」との関係をこれまで以上に深めていくしか手はありません。そして物語が進むうちに、薬を提供している眞悧は「企鵝の会」のリーダーの亡霊であり、16年前の、桃果に邪魔されたことで世界を充分に破滅させ切れなかったテロ事件を、再度、より完全な破壊として実現しようと考えていることがわかります。つまり眞悧の策略により、冠葉は、陽毬の命をエサにテロの協力者となるように巻き込まれてしまっているのです。眞悧は、世界を破壊する意思が親から子へと受け継がれていくことを望んでいるのです。そして冠葉の思いは、自分の命を犠牲にしてでも陽毬の命を存続させたいというものから、この世界が陽毬の命を存続させないのならば、「この世界」そのものを許さない、という破壊的な傾倒へと変化してしまっているのでした。二つに分離した桃果の一方であるはずの冠葉が、彼女と敵対する眞悧の側に取り込まれてしまうのです。
冠葉は、「陽毬が生き続けることのできないこの世界」とは別様な世界を想像し、思考していると言えます。その意味では、「存在するよりも前にあらかじめ消されてしまった子供たちの(非)存在」について想像し、思考しようとする物語的な想像力と重なる部分もあると言えます。しかし冠葉は、今、現にそうである「この世界」を性急に否定して、別様な世界の実現を考えています。「この世界」と「別様な世界」とは排他的です。これは一種の「現実主義」と言うべきものでしょう。そして、「この世界」を否定する根拠は、自分自身の存在の内にあらかじめ組み込まれた他者としての陽毬の存在です。確かに冠葉は、自分が死んでも陽毬さえ生きればよいと考えているので、その意味では利他的ですが、その時の陽毬とは、陽毬自身にとっての陽毬というよりは、冠葉にとって「世界の希望」として存在する、冠葉にあらかじめ組み込まれた陽毬であり、それはつまり、冠葉自身でしかないとも言えるのです。そして、冠葉の内にあらかじめ組み込まれた陽毬を否定できるのは、冠葉にとっての他者である、陽毬自身にとっての陽毬なのです。
3人が互いに食い合うような、高倉家の図3の安定的な関係のなかで微睡んでいた眠り姫である陽毬を覚醒させたのは、図2で示された、「晶馬を思う苹果」と陽毬の関係であり、「冠葉を思う真砂子」と陽毬の関係でした。安定的な関係により「自分から追いかける」必要のなかった陽毬は、晶馬を追いかけ、冠葉を追いかける女性たちとの関係から、互いに食い合う関係の外にある、他者としての晶馬や冠葉を見出したと言えます。そこではじめて、(それまでは「見ないこと」にしていた)自分のために過度な犠牲を払い、それによって道を見失ってしまった冠葉の姿を発見するのです。そこで陽毬は、自分にとって「運命の人」である晶馬を求めることを断念し(あるいは、3人による安定した家族を断念し)、自分のために多大な犠牲を払っている冠葉に寄り添い、今まで自分が与えられたものをすべて返すことを決意します。陽毬は、かつて運命の人から与えられたものの象徴であるマフラーを晶馬に返し、今、犠牲を強いている冠葉の元へと赴きます。この時に陽毬ははじめて、多蕗やゆりとは別種の存在となったのです。ここでの陽毬の欲望の断念=転向が、この世界の関係を動かす第一歩となるのです。
循環する「運命の果実」
一方で、16年前のテロ事件のやり直しを画策する眞悧がいる以上、もう一方ではそれを阻止するための「運命の乗り換え」のやり直しも必要となります。陽毬の命が、生とも死とも確定されないまま保留されているのと同様に、そもそもこの16年は、世界の存続と破滅が確定されないまま保留されている状態なのです。世界そのものが、シュレーディンガーの箱のなかの猫なのだと言えます。だからこそ、「運命の乗り換え」関係者以外はピクトグラムで表現され、主要な舞台である地下鉄のなかの人物だけがリアルなのでしょう。しかし、「運命の乗り換え」の能力をもつ桃果は既にこの世界には存在せず、乗り換えのための呪文が書かれた日記も、二つに分離したまま一つに統合されることなく焼かれてしまいました。16年前に「あの事件」と同時に生まれた、生まれながらに印づけられてしまった子供たちは、「運命の乗り換え」のやり直しをどうやって実現するのでしょうか。
ここでまず動き出すのは女性たちです。陽毬が、晶馬への思いを断ち切って、冠葉の元へ赴き、冠葉から得たもののすべてを彼に返そうとします。それはつまり、自分の存在を無へと戻すということでしょう。一方、苹果は、桃果の妹として「運命の乗り換え」を実現させて、自分の存在をこの世界から消してでも、陽毬が生き続ける世界を実現させようと考えます。ただ、この2人の願いは矛盾しています。
その前に、日記は既に失われていて、乗り換えのための呪文も失われてしまったのではなかったでしょうか。しかし呪文は、思いもかけない経路を通じて苹果にもたらされます。苹果は、陽毬が去った後に高倉家を訪れたアイドルグループ、ダブルHから、陽毬が編んでくれたマフラーの御礼として、新曲のCDを託されます。ダブルHはもともと陽毬を含んだトリプルHとして小学生時代に結成され、3人でアイドルを目指していたのですが、陽毬の両親がテロの容疑者と分かり、陽毬が学校へ行かなくなったことで別れ別れになったのでした。そのダブルHの新曲のタイトルが、陽毬がもっとも大切にしていた言葉だというのです。陽毬からダブルHに伝えられたというその言葉とは、実は陽毬が晶馬からかけられた言葉です。陽毬はその言葉によって自分が「見つけられた(存在できた)」と感じたのでした。さらにそれは、もともとは晶馬が冠葉から受けとった言葉です。晶馬が、世界から選ばれなかったことで自分の死を自覚したその時に、冠葉が檻のなかにあった林檎の半分を晶馬に差し出して言った、「運命の果実を一緒に食べよう」がそれです。
最初に、世界から無根拠に与えられた果実があり、その果実を分け合うという行為がある。この時に、「分け合う」という行為とともにある「一緒に食べよう」という言葉が、運命の乗り換えのための呪文なのでした。ここで再び図3を思い出してください。この言葉は、冠葉から晶馬へと贈与され、晶馬から陽毬へと贈与されますが、陽毬から冠葉には贈与されていません。それは、図1でわかる通り、陽毬にとっては晶馬こそが「運命の人」だったからです。そうであるにもかかわらず、見て見ぬふりをして、陽毬は冠葉の支払う代償を一方的に受け取っていたことになります(冠葉からみれば、陽毬の存在そのものが贈与なのだから、不満はないのですが)。それを自覚した陽毬は、冠葉にすべてを返そうとするのですが、何を返したら冠葉が納得するのかわからないのです。冠葉自身も、自分が何を求めているのかわからないでしょう。
そこへ、この言葉が、陽毬からダブルHへ、ダブルHから苹果へという迂回ルートを経て、高倉家の3人が集う場所に戻ってきたのです。それによって、陽毬はようやく、何を返すべきかを悟り、その言葉とともに運命の果実の半分を冠葉に返すことができるのです。陽毬が、晶馬から得た運命の果実を冠葉に返すことで、欺瞞ではない、フェアトレードとしての図3がここではじめて成立したと言えます(そして、この循環こそがピングドラムだと言われます)。そして、フェアトレードとしての図3の完結は、一巡することで、固定された三項関係を解消します。それにより、陽毬と冠葉という二項の関係が生まれます。そして、愛を与える者としての苹果と、与えられる者としての晶馬という二項関係も成立するでしょう。たった1人の桃果ではなく、2×2となってパワーアップした、この二つのカップルの誕生が「運命の乗り換え」を成功させます。
現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
【ネット書店で見る】
古谷利裕 著
『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』
四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
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「何者にもなれない者」をポジティブに反転する
陽毬が冠葉に運命の果実を返し、苹果が与える愛を晶馬が受ける。これらによって呪いが解消され、「運命の乗り換え」が実現されるのですが、ここで終らないところがこの物語の非凡なところです。冠葉が、陽毬から返されたものを再び陽毬に返し、晶馬が、苹果から受けた愛を再び苹果へと返すことで、この世界から消えるはずだった陽毬と苹果とを世界の風景へと押し戻し、冠葉と晶馬の2人の方が、いわば純粋な贈与の媒介者となって、その存在を世界から完全に消すのです。これを、たんなる利他的な自己犠牲と考えてはいけません。2人は、「何者にもなれない者」から、積極的に「何者でもない者」になろうとしたのです。これはポジティブな行為なのです。2人のこの行為によって、「何者にもなれない者」の意味が、ネガティブなものからポジティブなものへと転換するのです(苹果によって「運命」の意味が変化したように)。
存在するよりも前にあらかじめ消されてしまった(非)存在とは、誰からも愛されず、誰にも何も贈与されず、誰にも発見されないことによって、存在することさえできないネガティブなものたちではなく、自分自身が純粋な贈与であり、贈与の媒体であることによって、積極的に顕在化されることのない何ものかなのだ、と言うことができるようになるのです。それらは決して見えないままでこの世界を充たしている世界の「地」なのです。冠葉と晶馬は、純粋な贈与となり、世界が別様であり得る可能性そのものになることによって、この世界の図柄から姿を消すのですが、それによって「何者にもなれない者」を、潜在的な可能性のひしめく「この世界の地」という肯定的な意味に変えてしまうのです。
2人のこのような行為こそが、現実には起こらなかったことにまつわる、誰も思い出すことのできない記憶を、正確に掘り起こそうとするという、フィクションの意味を明らかにし、それを肯定し得るものにしているように、わたしには思われます。
現実主義に抗するフィクション
『君の名は。』は、世界そのものが忘れてしまったものを決して忘れないという物語でした。そして『輪るピングドラム』は、純粋な贈与の力となって世界から積極的に消えることで、「存在するより前に消えてしまう(非)存在」を肯定する物語だと言えます(これは、主人公が、世界の潜在性そのもの=唯一神のようなものになるという、『serial experiments lain』や『魔法少女まどか☆マギカ』とは、微妙ですが決定的に違っています)。それはどちらも、「このわたし」とは別様であり得るわたしを、「この世界」とは別様であり得る世界を、存在し得るものとして、潜在的に存在しているものとして、想像し、思考するフィクション(虚構世界)の意味を肯定的に物語っているように思われます。
フィクションの根拠は、ある意味では非常にか細くひ弱なものです。現実主義とはいわば「わたし以外わたしじゃないの」という世界だと言えます。それはとても強い常識であり、その常識を覆すことは困難であるように思われます。しかし、わたし以外はわたしではないという前提を受け入れてしまうと、現実としてある(「現実」として機能している)この世界以外は、嘘や空想や作り物でしかないことになってしまいます。それでは、今、目にみえている図柄だけが現実であり、存在するものだと考えることになってしまいます。そうではなく、図柄を支えている「地」まで含めて、この世界は存在するということを考えることが、わたし以外のわたしを考えることだと思います。
もちろん、「地」そのものを見ることは決してできません。しかし、地から立ち上がり得る様々な別様な世界、「そこ」としてありえるわたし、あるいは、存在するより前に消えてしまう(非)存在について考えること。それらを通じて、図柄だけでなく地も含んだ世界について、考え、感じることができるようになるのではないでしょうか。それをするのが、現実主義に抗するフィクションであると、わたしは考えるのです。
本連載は今回が最終回です。これまでありがとうございました。来年には単行本にまとめ刊行する予定です。お楽しみに![編集部]
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