めんどうな自由、お仕着せの幸福
第3回:ぼくらは100点満点を目指さなくてもいい?《若松良樹さんとの対話》

サンスティーンとセイラーが広めた「ナッジ」という考え方、そのベースにあるリバタリアン・パターナリズムという理論。この視点を中心に、自由や幸福、社会制度、私たちの生活をめぐって、京都大学教授の那須耕介さんが「いま、ちゃんと話を聞くべき人びと」に会いに行ってきました。

 
【お知らせ】本対談連載ご登場の方々による書き下ろし単行本『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』(那須耕介・橋本努編著)が、2020年5月、ついに刊行となりました! この対談とあわせてぜひお読みください。また「けいそうビブリオフィル」では『ナッジ!?』の「はじめに」「おわりに」と各章冒頭をたちよみ公開しています。こちらもぜひご覧ください。→→【あとがきたちよみ/『ナッジ!?』】
 
 

那須耕介さんがナッジやリバタリアン・パターナリズムをめぐって語り合う対話連載、今回は学習院大学の若松良樹さんのご登場です。じつは学生時代からお付き合いのある同窓のお二人。あいまいなところへ、繊細に近づこうと、久々に差し向かいでお話しいただきました。【編集部】

 
 
那須耕介: 今回、この企画を考えたきっかけの一つは、若松さんの『自由放任主義の乗り越え方』(2016年、勁草書房)なんです。人のせいにして悪いですけど(笑)。これを読んで、「あぁ、もうサンスティーンが何を考えているか、というレベルだけでリバタリアン・パターナリズムやナッジの問題を考えてもしょうがないな」ということをはっきり教えられました。
 
でも、まずはサンスティーンの話から始めさせてください。最初、彼の議論のどのあたりにおもしろみを感じられて、どんな可能性があると思われたんでしょうか。
 
■「ゴリゴリの経済学」を批判する人々
 
若松良樹: もともと、新古典派みたいな「ゴリゴリの経済学をどう超えていくか」といった問題関心がありました。その過程で、『センの正義論』(2003年、勁草書房)でアマルティア・センの研究をして、センの翻訳『合理性と自(上・下)』(2014年、勁草書房)まで出させていただきました。
 
センを研究したのは、法と経済学のように経済学を直輸入するのではなく、また一部の人たちのように完全なる拒否でもなく、経済学の土俵に乗りつつなにかできないかと考えたときに、センはおもしろい切り口かなと思ったからです。そのうちに行動経済学も、従来の新古典派を乗り越えるやり方を模索していることに気づき、この2つが微妙につながりながらも離れていくように見えて、ものすごく気になったんです。
 
そのときはまだサンスティーンも大々的に行動経済学を入れておらず、リバタリアン・パターナリズムも確立していなくて、ちらちら話があった程度、という印象です。
 
那須: 2000年頃までは言及はしても、まだその発想を活かすという感じでは……。
 
若松: なかったですね。サンスティーンにはずっと関心があったんですけれど、2000年くらいにリバタリアン・パターナリズムが出てきて、「これはこれで行動経済学のひとつの使い方なんだろうな」と思いつつも違和感もあって……。「おもしろいな、やられたな」と感じながらも、問題関心は近いのにこの路線に乗れないという、なんともいえない居心地の悪さが自分のなかにありました。悔しさとともに(笑)。それが『自由放任主義の乗り越え方』につながったんです。
 
■何が「私の利益」なのか?
 
那須: 最初の勘は当たっていました?
 
若松: あたっていたのかなぁという気はしています。やっぱりサンスティーンは頭が良すぎるというか(笑)。自分の支持する政策をニュートラルに、しかもすばやく売り込むのがすごく得意じゃないですか。そのために、政策を理論から切り離して「このパッケージだけ売れますよ」、とやる。それはそれでいいのかもしれませんが、私には大きな問題点も2つくらい感じられます。
 
ひとつは自己利益という概念にかかわり、もうひとつはパターナリズムという概念にかかわります。どちらの概念も自己利益観や合理性についての観念などといった理論的な前提を有しているはずです。ところが、サンスティーンは自己利益や合理性の理論的前提についての言及を意図的に回避していて、「不完全に理論化された合意incompletely theorized agreement――表面的には一致があるが、必ずしもそれを説明する理論、原理のレベルでの合意があるとはいえないような合意――で止めないといけないんだ」といっていますよね。
 

若松良樹(わかまつ・よしき) 1958年生まれ。学習院大学法務研究科教授。法哲学。著書に『センの正義論』『自由放任主義の乗り越え方』(勁草書房)、訳書にアマルティア・セン『合理性と自由(上下巻)』(共監訳、勁草書房)、共編著に『功利主義の逆襲』(ナカニシヤ出版)、『政治経済学の規範理論』(勁草書房)ほか。

不完全に理論化された合意というアイディアは、われわれが完全に理論から切り離して政策を立案したり、実行したりできるのであればおもしろいとは思うのですが、実際には表立って議論をされていない理論を密輸入するという機能を果たしているのではないかという気がしてなりません。肥満対策のような具体的な政策においても、棚上げしていたはずのこれらの背景があちらこちらで顔を出しているように見受けられます。
 
なにかが自己利益に適うかは、ある程度まではみんなの意見も一致しますが、サンスティーンはそこを起点に、ほんとうは合意が存在しないはずの自分の政策パッケージをどこまで売り込めるか、試しているような気がしたんですね。だから、自己利益に関する最初の合意をほんとに政策レベルまでひっぱれるかを、次に問わないといけないはずです。
 
たとえば、彼は「限定自己利益bounded self-interest」という言葉を行動経済学から引用します。人間は必ずしもホモ・エコノミクスとして自己利益を追求しているわけではなく、時として他人にケアをしたり、公平性を気にしたりするものです。このことを限定自己利益という観念は示しています。
 
問題はそのとらえ方なんですが、「限定自己利益」という表現を使った段階で、自己利益は自分の一身にかかる、せまいものに限定されてしまっている。サンスティーンはそこから出発して、自己利益が実現できない場合には、非合理性が存在しているので、非合理性から保護してあげるためにパターナリズムが必要だ、という方向にいこうとする。
 
たとえば10万円失うのは自己利益に反すると誰でも認めると思うんですが、「勁草書房さんは立派な出版社だけど、最近儲かってないみたいだから10万円寄付しよう」と、言ったとすると――言いませんよ(笑)、仮の話で――、これは自己利益に反するともいえるし、私の自己利益だともいえます。で、「10万円失うのは自己利益に反するよね」という合意だけから、私の寄付行為に対してパターナリズム的に介入していいかというと、かなり疑わしい気がします。
 
つまり、不完全にしか理論化されていない合意が存在するとしても、政策についての議論をする際には、結論だけでなく、背景的な理論の力も無視することができないはずです。それをすっとばして「自己利益に反するからパターナリズム」とやると、私の寄付行為に介入するみたいな滑稽なことが起こるんじゃないかなぁと感じるんですね。
 
■肥満のなにが悪い?
 

那須耕介(なす・こうすけ) 1967年生まれ。京都大学教授。法哲学。著書に『多様性に立つ憲法へ』(2014年、編集グループSURE)、『現代法の変容』(共著、2013年、有斐閣)、共訳書に『メタフィジカル・クラブ』(ルイ・メナンド著、2011年、みすず書房)、『熟議が壊れるとき』(キャス・サンスティーン著、2012年、勁草書房)ほか。

那須: 理屈のうえでは、「寄付は自己利益に反するからやめさせよう」と介入する場合と、「ほんとは寄付したかったはずなのにいろんなことが邪魔してできなかったのでさせてあげましょう」という介入と、両方出てくると思います。
 
若松: ですよね。どのような政策手段を利用すべきかを考えようと思ったら、もうちょっと自己利益について真剣に考えないとまずいのではないかな、と。とくにパターナリズムって強烈な政策になりうるので、慎重に検討しなくてはならないという気がしていたんですね。
 
ちょっと自慢をすると、「肥満の法哲学」(TASC MONTHLY、2016年2月 No.482)という記事を書いたんですよ。たぶん肥満について研究した唯一の法哲学者(笑)。
 
サンスティーンたちがよく使う肥満は、アメリカでは年々進行していて大きな問題ですけど、どこまでなにが問題かというといまひとつ曖昧で、「自己利益に反するからパターナリズム」でいいの?という問題があると思うんです。
 
アメリカの10代の肥満の人たちの自己認識を調査すると、肥満がここまで進行していない時代は「まずいかな」という答えが多かったのに、肥満が増えるほど「自分は問題ない」と答える人が増えています。つまり「肥満って問題だよね」と言えば言うほど、自己認識がゆがんでいく側面もあります。そのような場合に、「自分は問題ない」と思っている人に対して、肥満は非合理であるという非難を裏側に有しているパターナリズム的な政策をおこなうことが、肥満を抑制するうえでほんとに有効なのかどうか、疑問があります。
 
那須: なるほど。
 
若松: パターナリズムという考え方の背後には合理性についての一定の観念があって、この観念は近代経済学でも行動経済学でも共有されています。近代経済学に対する批判としては、行動経済学の議論はまぁまぁよくできている。まぁまぁというのも失礼だけど(笑)。伝統的な経済学の土俵のうえに立って、「ほら、伝統的な経済学が考えているような合理的な仕方では人間は行動しないでしょ」とやっているんです。
 
それはそれでおもしろいし重要な指摘で、予測の精度を高めるには行動経済学の知見をとり入れた方がいいんだけれども、「じゃあ近代経済学の想定どおりに行動させないといけないか」という問題が次に出てきます。そういう場面で、リバタリアン・パターナリズムは人間の行動を近代経済学の想定する人間像のほうに寄せようとしています。あたかもこの人間像が理想であるかのようにとらえて、そこにむけていろんな政策資源をどこまで投入していいのかは、もうちょっと慎重に検討する必要があるんじゃないのかなあ。
 
■パターナリスト、サンスティーンの巧みさと危うさ
 
那須: パターナリズムへの歯止めがない点は、理論的にも、実践的にも問題ですね。さらにリバタリアン・パターナリズムの怖いところは、失敗しても政府が責任をとらなくていいように抜け道が用意してあるところです。
 
若松さんは以前からパターナリズム研究にも関心をもってこられたわけですが、その文脈ではサンスティーンの考えをどう受け止めてこられましたか?
 
若松: ご存じのようにパターナリズム論って、私らが若い頃には人気がなかった。那須さんも研究しようと思わなかったんじゃないですか?
 
那須: ぼくはリバタリアニズムの洗礼をうけて法哲学に入ったので、パターナリズムは悪の象徴のようにみえてました。
 
若松: ははは。私自身も、医療現場のような具体的な場面で「パターナリズムを排除できますか」という議論はわからなくもないですが、大きい制度の話に結びつくかはよくわからなかった。それに対してサンスティーンは、大きい制度設計の話にまでパターナリズムをもってきた。そこがおもしろいとともに、彼、やっぱり民主党的なところがあって(笑)。
 
アメリカでは、社会保険でもなんでも、個人の選択に介入するとソーシャリストと呼ばれて、国民の敵になる。そこをうまく逃げながらリバタリアン・パターナリズムをつくったのは、アメリカの政治文脈を理解すると、解としてはうまいところに落としたな、という気持ちはあります。
 
那須: オバマ政権のブレーンとして、一方では共和党的な考えも取り入れつつ、ラディカルな左派的な改革も保守派から嫌われないように進める、というところがありますね。
 
若松: サンスティーンの議論は、理論の文脈でとらえるか、実践の文脈でとらえるかでだいぶ見え方がちがう気がします。実務家としての落としどころはそこなのかなぁという気は、正直、します。ただ、私自身、実務的なものにあまり関心があるわけでもないので、理論面で評価してしまう。理論面での考察を明示しないところに彼の限界もあると思います。サンスティーン自身は頭いいから理論的磁場もわかっているけれど、次の人は実践から先しかないので。
 
■人間的な「合理性」のとらえ方をめぐって
 
那須: もう少し、理論的な話をさせてください。まずはリバタリアン・パターナリズムに対する批判ですね。さきほどの、サンスティーンやリバタリアン・パターナリズムが前提にしている合理性概念に対する、若松さんの代替案とはどういうものなんでしょうか。
 
若松: 行動経済学は、完全合理性を前提にしたゴリゴリの近代経済学への批判のひとつとして出てきました。たしかに人間は近代経済学の想定どおりには動きません。じゃあ完全合理性に人間をあわせるようにがんばるべきなのか、それとも完全合理性という観念自体を疑ってみるべきなのか、という点で道が別れます。
 
この問題を考えるうえで興味深いのは、近代経済学の人間像に飽きたらなくなって経済学に心理学を導入しようとした人たちがいたことです。心理学を入れるのはおもしろいし、必ず入れるべきだと思いました。経済学は単なる仮定と論理的な演繹だけの学問ではなくて、人間についての学問ですから。
 
さらに興味深いのは、心理学を経済学に導入しようとする人たちが、大きく分けて2つのグループに分かれているということです。ひとつは、経営学や組織論の分野で活動したハーバート・サイモン。もうひとつは、行動経済学の始祖たちであるカーネマンやトベルスキー。両者は重なりながらも、少しずれています。
 
ここに別れ道があります。行動経済学は「人間は完全合理性を実現できない」というときに、完全合理性の観念を疑わずに現実の人間を非難する方向に向かいます。その行きつく先がパターナリズムです。しかし、人間が完全合理性を満たせない状況はいたるところに見出せますから、ウルトラ・パターナリズムになってしまう危険もあります。100点満点の人間はいない以上、100点を目指せといわれると、どこまででもやっていかざるをえなくなるかもしれません
 
一方、「いや、人間はそれなりに合理的だ」というのがサイモンの発想でした。80点でも合理的だと彼は主張します。100点の最適化ではなく、「満足化satisficing」が人間にとっての合理性の基準であるのだ、というわけです。80点か60点か知りませんが、どこかそのへんで満足しましょう、と。
 
「まだ上があるじゃないか」といわれたら、たしかに上はあります。でも、人間が直感でやっていること、いい加減にやっていることにも固有のメリットがあるのではないか、とサイモンは主張します。問題はこの合理性をどのように理解するのかという点ですが、この点がたいへん難しい気がします。サイモン自身もいくつか述べていますが、断片的であるという印象をもっていました。
 
しかし、それらを統一するための視座は最近ようやく整ってきたのではないかという気がしています。具体的には、進化論との接合です。たとえば、病気を進化の観点から説明しようとする、進化医学という観点が出てきた。それによると、ある環境に適応するなかで獲得された属性が、その環境がなくなってしまうと病気を引き起こす、というのです。つまり、環境とわれわれの能力とのあいだにミスマッチが生じたとき、病気として問題視されるのだ、という見方ですね。
 
完全合理性の観点からは「なんで60点や80点で満足するんだ」といわれてしまいますが、補助線として進化論を入れてみたら、満足化の合理性を説明できるのではないかと考えています。われわれが生き残って、子孫を残していくことが進化論的には唯一の価値です。この適応度という観点から合理性を考えると、ちがったものの見え方があるんじゃないかなぁ、と思ったわけですね。肥満に関しても、飽食時代はたかだかこの50年くらいですかね。
 
那須: 人類史的に見ればほんとに――。
 
若松: 一瞬の話。
 
那須: 誰も経験していないことが起こっている。
 
若松: だから、環境が変わったときにそれに対応して人間もすばやく変化することができるかというと、ふつうに考えると適応に数世代はかかります。人間には肥満遺伝子があって、エネルギーの消費を抑えてため込もうとするはたらきがあります。これは長い栄養不足の時代に適応するなかで人類が身につけたものです。それが飽食の時代になって環境と不適合を起こしている。つまり、肥満の人たちにとっての非合理とは「環境と身体機能とのミスマッチ」であって、彼らが不摂生だとか、セルフ・コントロールができていないというだけの話ではありません。だから「環境と能力のミスマッチ」を解くような政策をわれわれは考えるべきです。
 
そのときには、ナッジやリバタリアン・パターナリズムのツールボックスは役に立つと思います。完全にパターナリズムを否定するつもりもありませんし、いくつかの道具は使えるでしょう。そういう意味でリバタリアン・パターナリズムに対しては、愛憎相半ばするみたいなところがあって(笑)。なんともいえないアンビバレントな感覚があるんです。
 
■どこでパターナリズムに踏み切るか?
 
那須: たしかに合理性の概念はサンスティーンとちがうけれど、最終的に採用される政策に大きなちがいはないかもしれないですね。若松さんの場合はどこでパターナリズムに踏み切ることなりそうですか?
 
若松: 程度の相違にすぎなかったとしても、いくつか重要な相違があると思います。第一に、サンスティーンたちは「肥満は悪だよね」と決めつけることが多いけれど、私は、目的はもう少し多元的――、長生き以外にも人間には目的があるので、肥満にならないという目的は唯一のものではないだろうと思います。
 
第二に、肥満をパターナリズムによって対応すべき問題としてとらえることによって、暗黙のうちに、肥満を個人の合理性の失敗として理解していることになります。個人が愚かな選択をした結果、肥満になっている、というわけです。しかし、ご存知のように、肥満には社会的勾配が存在し、貧困層のほうが肥満率は高いという事実があります。したがって、肥満の問題を解決しようとするならば、単に個人の合理性に目を向けるだけではだめで、社会や環境にも目を向ける必要があるのではないかと思います。
 
第三に、肥満が問題であるとしてそれを改善したいときに、どこまで改善するかについても相違があるのではないかと思います。重度の肥満はたしかにいまの状況では利益がないかもしれないのですが、「じゃ、何キロまでいいですか」という問題があり、その程度の相違が存在するのではないかと思います。つまり、最適化と比べると、満足化のラインはもうちょっとゆるいのではないかな、と思います。許容される肥満の範囲が大きいということです。
 
那須: ただあえてサンスティーン側からいうと、最適化基準はある選択が失敗かどうか、介入すべきかどうか、明確にいえる。満足化だと合格点が何点かが曖昧で、選択が成功したのか失敗したのかわからなくなりますね。
 
センも、潜在能力の具体的な内容を聞かれてもそのリスト化は徹底的に拒む。オープンにしておくことに理論上の美徳がある、という。そうなんだけれど、マーサ・ヌスバウムのように「そこを具体化するのが理論家の仕事なんじゃないか」という批判も出てきます。
 
「それを決めるのは社会の合意ですよ」といって逃げられるかもしれない。でもそれは現実の選択をパワーポリティクスにゆだねることになりかねない。そうすると、「現実の選択を批判できる基準を示さないと理論家の仕事は不十分だ」という批判が出てくると思うんですよね。おもしろいけど、現実にはなんとでもいえる話になってしまいかねない。
 
若松: 私が好きな人は曖昧な人が多くて……。
 
たしかに、明確な解が存在する問題に対して、解を提示できない理論は問題があるでしょう。しかし、すべての問題がそのようなものであるとはいえないことに留意する必要があります。ある問題にはそもそも解が存在しないかもしれません。このような問題においては、理論はお手上げです。しかし、解は存在するけれども、ひとつには限定できない問題もあるでしょう。そのような問題に関しては、理論は解の領域を画定したり、近似値を求めたりするなどといった仕方で、役に立つ部分はあると思います。
 
「肥満の問題にどこまでどういう政策で取り組みますか」という具体的な問題においては、理論ができることは解が存在しうる一定の領域を確定することであり、そこから先は、文脈をみながら、そのときの人々の合意もみながらやるという、繊細な精神が必要になってきて――。
 
那須: そうすると、サンスティーンのように理論的な観点から人々のふるまいを「失敗だ」と断言するのはまちがいだと?
 
■理論家がでしゃばるべきでないところ
 
若松: うんうん。そうですね。パターナリズムは理論的に「これが正しい」という正解がひとつ存在するという前提にもとづいて話が進むわけじゃないですか。しかし、そういう問題は意外と少ないと私自身は思っています。
 
ただ、わからないときは全部当人に任せておくのではなくて、わからないなりにやり方を考える必要はあるでしょう。たとえば青い服か白い服かで全員に白い服を強制、というのはあまりいい政策ではないように見えます。むしろ、「答えが複数ありうるよ」という前提で、「でも答えは青か白のどちらかでしかない」ってところまで答えがわかっていれば、青と白まで選択肢の領域を絞り込むという形のパターナリズムはありうるかもしれません。
 
那須: 排除すべきターゲットがはっきりしている場合のことですね。正義の実現ではなく、不正義の排除に重心をおくジュディス・シュクラーの発想に似ています。正解を選ぶためではなく、間違いを排除するためにパターナリズムがいる、ということでしょうか?
 
若松: うん。必要になってくるのかな。私も解が複数存在しうる曖昧領域の外側かなぁとは思ってはいるのですけど、サンスティーン自身は曖昧領域においても、パターナリズムを売り込もうとしているように思えます。
 
那須: ふふっ。
 
若松: 明確な解が存在する場合に、サンスティーンはパターナリズムをあまりに見事に売り込むものだから、曖昧領域についても文句をいえなくさせているという気がしているんですけど。
 
那須: あまりに切れすぎる議論は、理論上の限界をみえなくしてしまうんですかね。実例をみることはあんまりないですけど(笑)。
 
若松: ふふふ。
 
那須: サンスティーンが来日したとき、ロナルド・ドゥオーキンをものすごく褒めて、「ほんとに立派な人だ。人間的にも立派だし、頭のよさもピカイチ。ある講演会で、ドゥオーキンは休憩時間もずっとギャラリーから質問攻めにあって、準備する暇もなかったとおぼしき状態で壇上にあがって、でもしゃべったことがそのまま論文になるんだ」とかいって褒め称えてましたが、サンスティーンもそれにちかい人ですよね。
 
若松: ちかいちかい。
 
那須: だから、その場その場で完璧な話をこしらえてしまう。
 
■習慣としてのヒューリスティックス
 
那須: 話を戻します(笑)。『自由放任主義の乗り越え方』では、ヒューリスティックス概念の大事さにあらためて気づかされました。時間や情報が不十分な状態で、近似的に正しい解を見出す「発見法」ですね。サンスティーンはヒューリスティックスをネガティブにとらえる傾向が強く、判断を誤らせるバイアスの温床として考えることが多いように思います。
 
ヒューリスティックスって、要は日常の判断や選択を導くクセとか習慣のことですね。そこにはいい面も悪い面もあるけど、それなしに生きていくことはできない。これにどういう態度をとるかが、社会制度のあり方を左右するんじゃないでしょうか。『自由放任主義の乗り越え方』には、「ヒューリスティックスの利用はそれだけで非合理であるわけではなくて、適切な環境のもとでは十分によい成果をうむ」という一節があります。
 
この「適切な環境」と「十分によい成果」が問題です。本人が満足していれば成功なのか。異論が出なければ成功なのか。これも「理論では決められない」という話に戻っちゃうんでしょうか。
 
若松: たしかに、具体的な政策を示すことができないという意味では欠陥があるかもしれません。しかし、具体的な政策を示すことができなければ、理論が無意味になると考えるのは早計です。というのも、理論には進むべき方向を示す力があるように思われるからです。
 
ひとつ例を出しましょう。ご存じのように、あるファストフード店が椅子の座り心地を悪くすることによって、客の長居を避け、回転率を挙げることに成功したという噂があります。
 
その真偽についてはよくわかりませんが、この事例は、人間を一定の方向にナッジしようとする典型例です。このような小さなテクニックの発見は驚異的だし、おもしろくもあります。そして、どのようなテクニックを用いたら、人々の行動をナッジできるのかに関しては、多くの研究が蓄積してきました。サンスティーンたちの研究もこの延長線上にあると思います。
 
この事例は成功事例として取り上げられることが多いようですが、客の回転率を上げ、その期の利益を拡大するという目的を所与のものにしてよいのかは、それほど自明ではありません。ここで述べたいのは、ファストフード店が客を操作しているのでけしからんというような話ではありません。そのファストフード店の利益という観点から見ても、この目的が妥当かどうかを慎重に検討する必要がある、ということです。
 
というのも、このテクニックは、そのファストフード店の居心地を悪くしており、ひいてはファストフード店において食事をすることへの評価を、つまり、その店の環境に対する評価を低下させるように思われるからです。つまり、そのファストフード店に対する従来の好感度といった貯金を取り崩しながら、短期的に利益を上げることに成功したとしても、長期的には、その店に対する好感度は下がっていくことになるでしょう。そのような戦略がその店にとって合理的であるのかはもう少し考えてみる必要があると思います。
 
同様に、政府がファストフード店のようなことをするべきだというサンスティーンたちの提案は、短期的には成功を収めるものと思われますが、徐々に政府や法に対する信頼を毀損していくのではないかと懸念しています。自分を操作しようとしている人たちの言葉を、どのようにして信頼できるのでしょうか。
 
人々を操作するのではなく、むしろ法や環境を人々に理解しやすい単純なものにし、人々のヒューリスティックスをうまく機能させるほうがよいのではないでしょうか。その具体的な方策は理論だけからは出てこないかもしれませんが、理論には目指すべき方向を指し示す力が存在すると信じています。
 
サンスティーンのように、不完全に理論化された合意などといった仕方で、政策を理論から切り離し、人々を操作する方策ばかりを探求するのではなく、われわれの直面している課題の性質をみきわめるためにも、理論をめぐる議論が必要なのだと思います。
 
■統計学と進化論
 
那須: サンスティーンの道具箱にはありとあらゆるものがはいっていて、なんにでも使えそうにみえますが、おっしゃるように、道具箱の底の底には完全合理性の想定が岩盤としてあって、そこからは出られないんじゃないかという批判はありうるでしょう。だから、政策案件と道具との相性を一個一個検証していかないと、と思うんです。
 
若松: たしかにそうですね。
 
那須: たとえば、統計学と進化論は、どちらもものすごく有用であることはまちがいないんですが、具体的な適用例のなかにはどうもおかしいと思うこともありますね。素人には批判しにくい道具の典型でしょう。
 
若松: 両者はともに政策で安易に使われるとあぶないという点でも共通しています。逆にいうと、理論をやっている人間が統計や進化をちゃんと勉強したうえで、ものを言わないといけないのかな。ですから、正義論との絡みでは、この2つをちゃんと勉強しておきたいんです。
 
那須: 進化論については、社会進化論のように進化と進歩を混同してしまわないでいられるか、という疑念があります。進化論は数学ができなくても使える分、素人がぶんぶん振り回しやすい、より危険な道具です。今回の若松さんの議論のベースにも進化論がありますね。そこも興味深いのですが、その危険はどう避けられるのか。
 
若松: 進化論のなかにも、多様性を残しておかないと環境の変化に適応できない、という話がありますよね。一定の環境にチューンナップしすぎると、ちょっとした環境の変化で絶滅してしまう。それは避けたほうがいいのではないかっていう気がします。
 
那須: それはまさに100点をめざさないほうがいい、という話にかかわる……?
 
若松: そうそう。
 
那須: 満点をとらないことの賢明さってなんなんでしょうね。別の環境に適応できる余地を残しておくとか、社会全体の適応力を高める、という話はわかるんですけど。でも、社会のなかに多様性がある、ということは、メンバーの相当数は環境に十分適応できていない、ということです。そういう人に対して、あなた犠牲になってください、ということでもあるかもしれない(笑)。
 
若松: センのケイパビリティ・アプローチにも、「使わない機能をどれだけもっておくか」という発想があります。「なんの役に立つかわからないけれど(いまは役に立ってないけど)、いる」という、ということなのかもしれない。よくわからない要素のあることのありがたみ(笑)。
 
多分、私たちは現在の環境にあわせて合理性を考えてしまうのだけれども、あまり現在の環境にあわせてしまうことなく、環境が変わる可能性のために余分を残しておかなくてはならないのだと思います。この余分は無駄だともいえますが、保険だともいえます。保険をかけすぎて破産するのもばかげていますが、宵越しの金を持たないのもばかげているような気がします。
 
那須: 合理性という言葉を再定義するときに、理論のなかでどんな役割とニュアンスをもたせるかという問題ですね。「合理性」といわれると皆がいっせいにそこに殺到してしまう社会では、あまり強調しすぎないほうがいいのかもしれないし、逆に、多様性のためならどんな犠牲も拒まない、というのもバカみたいですし。
 
若松: そこをどう考えるかによってだいぶ先は変わってくるかもしれません。まだ私も確信があるわけでもないですけれど。
 

[2018年8月2日、学習院大学にて]

【対話の〆に by 那須耕介】若松さんは、今回のインタビュイーの中ではサンスティーン教授とも世代が近く、もともと経済思想にも造詣が深い人ですから、彼と並走しながら考えてきたという実感のいちばん強い人かもしれません。名著『自由放任主義の乗り越え方』が出たとき、逆立ちしてもマネできないにもかかわらず、やられた、と思ったのを覚えてます。普段はお目にかかるとついくだらない話ばかりに終始してしまうのですが、今回はがんばってくいさがってみたつもりです。
 
――次回は、那須耕介さんが京都府立医科大学の瀬戸山晃一さんと語り合います。どうぞお楽しみに。
 
 
《バックナンバー》
第1回:連載をはじめるにあたって《那須耕介》
第2回:なぜいま、民主制の再設計に向かうのか《大屋雄裕さんとの対話》
第3回:ぼくらは100点満点を目指さなくてもいい?《若松良樹さんとの対話》
第4回:80年代パターナリズム論の光と影のなかで《瀬戸山晃一さんとの対話》
第5回:熟議でのナッジ? 熟議へのナッジ?《田村哲樹さんとの対話》
第6回:サンスティーンという固有名を超える!《成原慧さんとの対話》
番外編1:「小さなおせっかい」の楽園と活動的生(前編)《『ナッジ!?』刊行記念編者対談》
番外編2:「小さなおせっかい」の楽園と活動的生(後編)《『ナッジ!?』刊行記念編者対談》

サンスティーンとセイラーが広めた「ナッジ」という考え方、そのベースにあるリバタリアン・パターナリズムという理論。この視点を中心に、自由や幸福、社会制度、私たちの生活をめぐって、京都大学教授の那須耕介さんが「いま、ちゃんと話を聞くべき人びと」に会いに行ってきました。
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