高橋徳行先生の連載第4回です。今回は、ほとんどのアントレプレナーが経験すること、絶対の自信をもって開発した商品やサービスを周りの人になかなか認められないことに着目します。そして、誰もが経験する危機を克服するための多くのヒントを提供してくれる事例を紹介します。[編集部]
黒川温泉の今と昔
旅行好きの人、そして温泉ファンには説明する必要がないほど有名な温泉の一つが、熊本県と大分県の県境近く、阿蘇山の北東に位置する黒川温泉です。旅館数は、入湯手形(宿泊した以外の旅館のお風呂を利用できる仕組み)の導入等で爆発的に観光客が増えた後も30軒くらいで落ち着いており、図1のように小中規模の旅館が点在している温泉街です。
図1 黒川温泉の旅館の配置
黒川温泉も他の地域の温泉と同様に長い歴史があります。江戸時代の中後期くらいから存在していたことは古文書などからも分かっていて、昭和初期には4~5軒の旅館が経営されていたことが昔の写真からも確認できます。ひと言で言えば、多くの人からは知られることなくひっそりと存在していた温泉でした。
昭和39(1964)年に別府市と阿蘇市をつなぐ「やまなみハイウェー」(九州横断道路)が完成したことで、しばらくは賑わい、町外資本の旅館も建設されたりしましたが、道路効果が一巡すると、また元の「さみしい」温泉に戻ってしまいました。
昭和40年代(1965~1974年)の観光旅行、温泉旅行といえば、団体旅行でした。今から振り返ると、セクハラとパワハラの見本市のような団体客による宴会が大人気であった頃です。客足が遠のき、打開策を探していた旅館経営者の中には、本気でコンパニオンを呼び派手な宴会で危機を打開しようとした人がいたことも納得できます。
しかし、黒川温泉と言えば、図2にあるように、野趣溢れる自然と個性的な露天風呂です。当時の別府温泉や熱海温泉の後を追いかけなかったことはご承知のとおりです。
図2 黒川温泉「旅館山河」へのアプローチと同旅館の露天風呂
宿泊者数の推移を見ると、平成15(2003)年に45万人近くなり、その後は減少したとはいえ30万人台をキープし、平成28(2016)年の熊本地震によって20万人台に落ち込みましたが、その後は徐々に回復し、現在に至っています。
その中で、特筆される戦略の一つが、昭和61(1986)年の入湯手形導入と言われています。これは、1枚1,300円(導入時は1,000円)で手形を購入すると、黒川温泉内であれば、宿泊先でなくても、3軒の旅館の露天風呂を利用できるというものです。このような仕組み自体は、長野県の野沢温泉にもあったようですが、黒川温泉が全国に先駆けて戦略的に取り入れました(図3)。
露天風呂が有名になり、観光客が増加し始めた頃、立地等の制約で、露天風呂を設置できない旅館が3軒ほどありました。露天風呂のない旅館に、「うちの風呂を使えばよか」と救いの手を差しのべる人もいましたが、経営者とはプライドの高い人たちですから「はい、そうですか」と言うこともできない。そのような露天風呂のない旅館に対しての心配りが入湯手形誕生の背景にあったという人もいます。いずれにしても、最盛期には年間20万枚を突破するほどの人気商品になったのです。
図3 黒川温泉名物の入湯手形
黒川温泉をこのように整理すると、「ああそうか。団体旅行の波に乗れなかった田舎の温泉地が、自然景観と露天風呂を特徴にして、個人客、特に女性客の心をつかみ、さらに入湯手形を考え、全国指折りの温泉になったということ」になってしまいます。
ある意味、正確ですが、とてもつまらない描写です。しかし、アントレプレナーシップの視点で、黒川温泉が甦ったプロセスをたどると、どうなるでしょうか。
露天風呂を誰も真似しない
ここで、黒川温泉の沿革を表1のように整理しました。これを見て、何か不思議なことに気がつきませんか。
今の黒川温泉の特徴の一つは各旅館が持つ特徴ある露天風呂です。その露天風呂を黒川温泉のドンとも呼ばれる後藤哲也氏が1960年に仮オープンし、1965年には女性専用のお風呂が完成し、いわばフルオープンとなり、多くの客を呼び込んでいました。
その頃、黒川温泉は出口の見えないトンネルの中にいて、先にも触れたように、当時の別府温泉や熱海温泉の後を追いかけようともしていました。すぐそばに、繁盛している旅館があるにもかかわらず……です。
表1 黒川温泉の沿革
不思議です。芸者をたくさん呼んで団体客を誘致しようなど、それこそ藁をもつかむ思いで対策を考えているのに、隣で繁盛している旅館のことは無視する。
なぜでしょうか。その大きな理由は、後藤哲也は当時、「変わり者」で通っていたからです。自分たちと別世界の人のやることは参考にならないのです。
そして、これはアントレプレナーが忘れてはいけないことの一つです。「変わり者」に力点があるのではなく、「自分たちと別世界の人」というところが大切です。
黒川温泉で起きたこと
黒川温泉で起きたことを振り返ってみましょう。先に述べたように、後藤哲也の新明館がいくら繁盛しても、他の人たちにとっては「参考」になりません。しかし、黒川温泉には、後藤哲也と他の旅館経営者をつなぐ特異な集団が存在していたのです。
筆者は、若手七人衆と勝手に呼んでいます。
まず、昭和53(1978)年に、いこい旅館の婿養子になった、球磨郡錦町出身のカメラマンである小笠原和男(当時は、井(いい)和男)です。彼は、年齢も少し上であったことから、七人衆のリーダー的存在でした。
残る6人も1人を除いて、黒川温泉が一番大変であった昭和50年代に黒川温泉にやってきた人たち、つまり、昭和50(1975)年に武田秀二(やまびこ旅館)、昭和50(1975)年に後藤健吾(山河旅館)、昭和52(1977)年に北里富男(御客屋)、昭和54(1979)年に松崎郁洋(ふもと旅館)、昭和59(1984)年に佐藤浩志(南条苑)、昭和61(1986)年に穴井信介(ふじや旅館)の6人です。
まず、小笠原が動きました。彼は、石ころをどかすとお湯が出てくる黒川温泉に、カメラマンの視点で興味を抱き、彼の言葉を借りると、「丸腰」で後藤哲也のところに飛び込んで教えを乞い、小笠原の旅館で露天風呂を作り、実績をあげました。それに若手6人が続いたのです。こうなると、他の旅館経営者も黙っていません。結果は先に述べたとおりです。
図4 小笠原和男氏
理論的に整理すると
このような現象を説明する理論の一つに「キャズム(断層)理論」があります(図5)。
もともとはハイテク製品のマーケティングを説明した理論ですが、筆者は今回のようなアントレプレナーシップ特有の現象を説明する時にも援用しています。
つまり、第1グループの革新者はアントレプレナーです。黒川温泉のケースでは新明館の後藤哲也になります。革新者は実行力がありますが、一般の人から遠い場所にいて、しかも自分自身のやっていることを説明するのが苦手、言葉は悪いですが「わかってもらえない」人になります。
第2グループは、初期少数採用者、もしくはビジョナリー、目利きができる人です。革新者の真意をくみ取る能力があります。黒川温泉では、いこい旅館の小笠原和男に相当します。
第2グループは新しい商品やサービス(黒川温泉の場合は露天風呂)がマーケット全体(黒川温泉全体)に広がるためには不可欠な存在ですが、やはり第2グループだけでは不十分で、第3グループ、そして第4グループまで動かす必要があります。この第2グループから第3グループへの波及が最も困難と言われ、そこにキャズム(断層)がある。キャズム理論の中核的な概念です。
第3グループになると、目利き能力は必ずしも求められない。それよりも、実績に基づく実利で動きます。露天風呂は客を呼べるという確信を持ちたいのですが、それには十分な事例が必要であり、かつそれは自分たちに近い人たちである必要があります。動くためには実例が必要ですが、自ら実例になるつもりはない。このやっかいなグループをどう動かしていくか。黒川温泉では、小笠原を除く若手七人衆が果たしたと思います。
図5 マーケットにおける断層の存在
前回(第3回)もそうでしたが、アントレプレナーシップの核心はプロセスにあります。黒川温泉の「今」を注意深く観察して、さまざまな経営的含意を探ることも、とても大切です。しかし、「今」に至るまでに何が起きたのか、その起きたことを分析対象とする面白さや貢献もあります。そして、今回は、結果的に普及したものでも、その過程は必ずしも平坦な道のりではなかったことに触れました。これはアントレプレナーの多くが経験する困難のひとつでもあります。しかし、困難なことだから乗り越える価値や乗り越えた後の達成感があるのだと思います。
》》》バックナンバー
①日本は起業が難しい国なのか
②起業活動のスペクトラム
③「プロセス」に焦点を当てる
④良いものは普及するか
⑤Learning by doing
⑥連続起業家
⑦学生起業家
⑧社会起業家