粘着ダーウィン、意味を破壊する
「あなたはすべての生物をつくった創造神について考えたことがありますか?」
ある日、山梨の山の中の小さな集落にある僕の家までわざわざ訪ねてきた、キリスト教系新興宗教の勧誘のお姉さんが玄関でこんなことを僕に問いかけた。
「それはいろんな生物学者が考えてきたことで、そんなものはいない!というのがここ150年くらいに蓄積された定説です。僕はそれを支持します。」
と間髪入れずに返事をしたらお姉さんは「あ、ヘンなのに当たっちゃったな」という顔で、冊子だけ置いて足早に立ち去ってしまった。
地球上のすべての生物は創造神がデザインした。
この新興宗教が提唱するのは「インテリジェント・デザイン」だという。なんだかもっともらしい名前がついているものの、実は150年ちょっと前まで西洋世界のほとんどの人が信じていたオールドスクールな生命観のリバイバルなのだ。
旧約聖書の有名な冒頭部分、創世記の三日目に神は植物を、五日目に魚と鳥を、六日目に獣と神に似た人間をつくり、人間にすべての生物を治めるように定めたというエピソードは、19世紀半ばまで西洋の世界観の礎だった。しかし、イギリスで一人の博物学者が著した本がその世界を根底から覆した。
それがチャールズ・ダーウィンの『種の起源』だ。
今回は人類史上十指に入る大炎上本を取り上げながら「進化とはなにか」を考えてみようではないか。
ダーウィン、そして彼の主著である『種の起源』。どちらも聞いたことはあるが、詳細はよく知らない人がほとんどだと思う。いったい彼の何がそんなに世間を驚かせ、反感を買い、そして誤解を生み出していったのか。それを詳しく語り出すと迷路のようなテキストになるので、まず最初に要点を伝える。ダーウィンは『種の起源』において、
【主張】
・生物は変化していく存在
・変化を促すのは外環境と他の生物との関係性
・世代をまたいで引き継がれる変化を進化とする
と主張した。その結果、
【反感】
・聖書の創世記が否定されて唖然!
・神の存在が否定されて無礼千万!
・人間の優位性が否定されて激怒!
という反感を呼び、さらにダーウィンの主張は曲解され、
【誤解】
・進化とは優れた存在に進歩することである
・優れた生物が劣った生物を駆逐する弱肉強弱が自然の掟である
・人間にも優れた人種と劣った人種がいる
という、「進化=進歩」の理解が生まれ、19世紀末以降の人種差別を正当化する説(優生思想)を生み出すにいたる。
しかし。
分子レベルで生物の構造が解き明かされつつある現代においても、ダーウィンによる上記【主張】の骨子は、150年以上経った今でもなお有効だ(ディテールはかなり修正されているが)。
そして【反感】は冒頭のインテリジェント・デザインのように今でもなお根強く残っている(特にアメリカ)。
ついでに【誤解】も現代でもなお広く人口に膾炙しており、「最新アルバムで、このバンドの音楽性はさらに進化した!」というような表現がフツーに使われていたりする(もしかしたらこの誤解がダーウィンの言いたかったことよりも広く世界中に普及しているかもしれない)。
それでは『種の起源』の主張の定着と反感と誤解についてもうちょっと詳しく見ていきながら、生命進化の理論がどのように進展していったのかを見ていこう。
ダーウィンはもともと医者を目指していたが挫折し、ブラブラしていた22歳の時に植民地の地質や生物を調査する長期の船旅に誘われる。さまざまな土地で見た不思議な生物たちの生態に興味を持ったダーウィンは、帰国後博物学者となり植物や家畜などの観察に明け暮れる。そこから生命進化のメカニズムを研究しはじめ、1859年、50歳の時にそれまでの研究をまとめた『種の起源』を出版する。そこから15年以上その本を改訂しまくり、1982年に死ぬ。20代前半の船旅で得た着想を死ぬまでアップデートし続けた極度の粘着積み上げ野郎、それがダーウィンである。
ここでダーウィンの特異性を理解してもらうために、同じく19世紀に進化を考えた何人かの研究者に登場してもらおう。まずは19世紀前半に活躍したフランスのジャン=バティスト・ラマルクだ。彼はダーウィンに先駆けて「生物は進化する」と考えた。しかし2点、現代の進化論から考えるとおかしな点がある。
・生物にはよりよい存在に進化する内的な力がある
・よりよくなるよう努力した能力は次の代に遺伝する
(これを獲得形質の遺伝という)
要は虫でも魚でもすべての生物は「よーし、もっと優れた生物になるように今日も努力するぞおお」と成長を願う意識高い系な存在であり、そこで得たスキルは子供にも遺伝する、と考えたのだ。それっぽい話に見えるが、この前提だと進化はイケてない→イケてるの一直線上でしか展開せず、地球上のあちこちにいる無数のニッチ生物の存在が説明できない。そして鍛えまくって筋肉ムキムキの親から生まれる子供が必ずしも筋肉ムキムキでないことも説明できない。
同じような花でも白や赤や紫など無数のバリエーションがあり、数億年前から変化していないニッチ生物たちが広く存在している。ラマルクの説は現実の自然界の事象に対してうまく説明できない点が多い。これは創造神と、創造神と似た人間の優位性という前提を捨てきれなかった故の折衷案なのだ。
彼いわく、生物は進化する。しかしその進化は虫けら→人間への直線進化であり、それは生物に内在する神の意志の力だ。そして意志の力によって得た力は次代へ受け継がれ、生命はよりよく進化し、圧倒的に成長し、オレらマジでブレークスルー起こせる……! というのが超乱暴にまとめたラマルクの思想だ(「こうあるべきだ」という彼の信条が多分に混入しているのでこれは理論というよりは思想と言ったほうがいい)。
ラマルクに対して、ダーウィンの言う進化には優劣がない。代をまたいで受け継がれる変化が進化。そしてその変化が外環境や他の生物に対して有利なら変化した生物が生き残り、不利なら滅びる。しかし有利か不利かを決めるのは神でも人間でもなく、自然の気まぐれ、偶然なのだ。変化に内在する意志も意味もなく、ただ環境や他の生物との関係性によって「たまたま」決まる。これを自然選択(自然淘汰)と言う。例えばAの生物とBの生物がいる。AとBの好むエサや住む場所が似ている場合、Aのほうが強いとBは滅んでしまう。でも滅ばなかったのは、BがAと違うエサや住む場所で生きていけていたからだ。こうして世界には多様な生物が分布するようになった。決してインテリな神が「多様性サイコー!」とデザインしたわけではない。
これがダーウィンのたどり着いた考えであり、勧誘しにきたお姉さんが「めんどくさいな」と感じた理論だ。意志によるデザインではなく、長い時間をかけて偶然が蓄積することによりまるで生物自身が意志をもった「かのように」変化し、機能を獲得していく。この「自然選択」こそがダーウィンの核心なのだが、最も伝わりづらかったコンセプトなのだ。
そしてもうひとり。ダーウィンとほぼ同時期に進化の仕組みに気づいたアルフレッド・ウォレスという人もいる。ウォレスの主張はかなりダーウィンに近く、自然選択説も採用している(というかダーウィンよりも自然選択を万能とみなしている)。しかし! なぜか人間の精神性を進化の法則の例外としてしまっている。つまり「人間優位」の前提が捨てきれていない(そして後年は謎のスピリチュアルおじさんになっていく)。
かくいうダーウィンも、実は『種の起源』の初版は「この本は神学書ですよ」という体裁にしている。当時博物学(=生物学)は神学のなかの一学問だったのでしょうがないと言えばそうなのだが、改訂していくうちにだんだん神および人間の優位性を捨てていき、第六版では膨大な観察事例や仮説を追加で積み上げて人間中心の世界観を退け、かなりクールな体系を構築している。
ダーウィンのスゴさは「観察をひたすら積み上げることで、無意識の思考のタブーを打ち破った」ということにある。彼は閃きに満ちた天才ではなく、最初からビジョンが見えていた神童でもない。彼の核心はひたすら現実を観察・観察・観察するなかで見えてきた仮説を自らの手で検証しまくったウルトラ粘着マインドなのだ。ひたすら時間のかかる観察と検証を重視した結果、主著が『種の起源』一冊の遅咲きデビューとなった。しかしその粘着が、進化という現象を、思想を超えて理論(もっといえば科学)にまで昇華させたのだ。
くどいようだが、もう一回おさらいしよう。
①種の「進化」というコンセプト自体はダーウィン以前も存在していた。しかし②偶然の蓄積による「自然選択」=大いなる意志の否定、③偶然の変異が次の世代に受け継がれていく「遺伝」=個体の意志による獲得形質の否定。②と③がダーウィンの核心であり、そしてキリスト教世界を燃え上がらせた要因なのである。
『種の起源』出版の翌年、1860年にイギリスのオックスフォード大学で、ダーウィン擁護派と否定派の2派に分かれた有名な論争が行われた(ちなみにダーウィン自身は出席していない)。
ここでダーウィン否定派の先鋒である大司教サミュエル・ウィルバーフォースが、
「あなたが猿の家系と主張しているのは祖父方ですか、それとも祖母方ですか」
と擁護派の生物学者、トマス・ハクスリーに詰め寄ったのは有名な話だ。ウィルバーフォースが何を言いたかったというと、
「ダーウィンの説を信じるならば、俺たち人間の祖先は猿になるってことになるが、それでいいのか?」
ということである。この場にダーウィンがもしいたら、
「いいとか悪いとかは感想にしかすぎない。私の語っているのは事実だ」
とか言っていそうな気もする。実は進化論自体はヨーロッパ主要国のアカデミアでもなんなら教会でもそれなりに支持され、大きな炎上は起きなかった(ラマルクは燃えてない)。「人間を括弧に入れない」という態度が、教会はじめ時の権威をブチ切れさせたのだ。
しかしダーウィンの説が広く事実であろうと認められるには半世紀、いや100年近くかかることになった。②の「自然選択」が証明されるためには膨大な化石や考古学的資料が必要(AとBの生物の間のミッシングリンクがある。例えば恐竜と鳥の中間種とか)。そして③の「世代をまたいだ遺伝」には、ダーウィンと同時代人であるグレゴール・ヨハン・メンデルの論文の再発見を待たねばいけなかった。
ちなみにチェコの地方の地味な修道士だったメンデルが1865年に発表した、エンドウマメを使った遺伝の法則の論文がアカデミアに発掘されたのは20世紀初頭のことだ。もしこの時代にネットがあったら二人は絶対にLINEでつながって植物の接写写真とかを交換して盛り上がっていただろう。
ダーウィンの生きた時代は遺伝子の仕組みがよくわかっていなかったので、親の遺伝が子供には伝わらなかったのに孫には伝わる隔世遺伝のような現象をうまく説明できなかったのだ。
ダーウィンの説には、当時の技術や生物学的知見が追いついていなかったというハンデがあり、かつ人間優位否定のムカつき要素があったため、19世紀時点では神学的にも科学的にもつけいる隙があった。これが炎上を長引かせ、かつダーウィンの説の一部と人間優位主義がキメラになったヤバい思想が発生する原因となった(詳しくは次回解説する)。
周りは敵だらけ、そして前提となる知見が不足しまくり。そのなかで自分の革新的な考えを認めてもらわねばならない。この状況のなかで必然的にダーウィンの粘着マインドはどんどん強化されていく。そのせいで『種の起源』はぶっちゃけめちゃ読みにくい。
とにかく実例が異常に多い。ハトがどうした、ハチがどうした……と個別エピソードが延々と続くので「要は何が言いたいのよ!?」と詰め寄りたくなる。最近のデキるビジネスパーソンなら「もっと抽象度上げて話してくんない?こちとら忙しいんだからさあ」とブチ切れるかもしれない。
しかし、この実例の多さこそが『種の起源』を偉大たらしめている。それまでの世界で誰も信じていなかった、「生物は神の大いなる意志抜きで変化する」「しかもその変化は一方向ではなくどんどん分岐して多様になる」ということを証明するためには、当てはまる現実の事例がなければいけない。つまり仮説と検証がセットになっていなければいけない。現代科学の基本である「検証可能な仮説を積み上げる」というスタンスが当時において傑出していたのがダーウィンの強みだ。考えが面白いだけでは普遍の理論にはならない。ラマルクもウォレスもアイデアに対しての事例の量がダーウィンほどではなかった。そこが後世の評価の違いになったのだ。
……というかだな。『種の起源』は燃える要素満載の高カロリー本だったので、結果としてコンテンツをさらに実証的にするスパイラルが働いたのかもしれない。
ダーウィンは膨大な情熱と手間をかけて、神の意志による世界、もっと言えば「意味の世界」を打ち破った。自然界を貫く原理は「たまたま」の連鎖であり、その「たまたま」の蓄積が生命の歴史=進化なのだ。
しかし。ダーウィンが命をかけて証明した「たまたま」の原理は、人間を不安にさせるものだった。人間は自分が生まれた理由を、運命の人と出会っちゃう必然を、そもそも世界が存在している意味を求めてしまう。そこから意味を担保してくれる神が必要とされる。世界は美しい。なぜなら神がそう創ったからだ。それっぽい納得感はある、しかしよく考えるとこれは何の説明にもなっていない。ダーウィンは「それっぽさ」の違和感を払拭するために、人類にプリセットされていた「意味を求めるクセ」を破壊し、意味はない! しかしルールはある!! と宣言したのだ。
それでは最後に読書案内。
ダーウィン『種の起源』は岩波文庫が定番だが、光文社文庫の新訳のほうが現代人にはとっつきやすい(それでも上下巻読破は至難)。ウォレス『動物哲学』も岩波文庫。大学の時に読んで「シャクトリムシについて書いてるヘンなおじさん」という感じでピンとこなかったのだが、神学というバイアスの枠内で最大限尖った考えをもっていたわりと強めのおじさんである、という認識をもって読むと面白いかもしれない(ちなみにダーウィンはバイアス破壊激強おじさん)。ウォレスの主著は『ダーウィニズム――自然淘汰説の解説とその適用例』(新思索社)。ダーウィンを激リスペクトするあまり、ダーウィン理論の解説書を出版、19世紀当時は本人を超えるベストセラーになり、ダーウィンの関与しないところで「ダーウィン主義」を爆誕させてしまった。なぜこんなにダーウィンが好きなのにスピってしまったんだ、ウォレスおじさん……!
以上3冊が19世紀当時の元ネタ本だ。しかしどの本も読みやすいかといったらそうでもないし、ラマルクとウォレスの2冊は絶版なので、現代の生物学者が書いた解説書から入門から入るのが正解だと思われる。
小原嘉明『入門! 進化生物学――ダーウィンからDNAが拓く新世界へ』(中公新書)、佐倉統監修『知識ゼロからのダーウィン進化論入門』(幻冬舎)、更科功『進化論はいかに進化したか』(新潮選書)あたりがコンパクトに進化論のアウトラインとその発展について解説してくれている。個人的には『入門! 進化生物学――ダーウィンからDNAが拓く新世界へ』が、前提となる最低限の生物学の知識と進化論の系譜をセットにして解説している、この記事を読んだ人が次に進むのに最適な1冊だと思う。
上記の本はダーウィン単体の解説ではなく、20世紀以降の進化論のトピックスがむしろメインになっている。北村雄一『ダーウィン『種の起源』を読む』(化学同人)はタイトル通り『種の起源』を当時の文脈を理解しながら読むのに格好の力作だ。進化論の世界を深く理解するためには、急がば回れでダーウィン単体を深堀りするのが一番。
……と解説したところでものすごい長さになってしまった(こんな感じで大丈夫ですかね、編集のS戸さん?)次回はダーウィン理論の暴走と、ダーウィン理論をさらにアヴァンギャルドにした木村資生の功績を見ていきたい。燃えよ本!
【追記】
なおラマルクの主張の一つ「個体の獲得した形質は遺伝する」については、最新の分子生物学によって「あながち間違いじゃないかも……?」という状態になっている。親から受け継いだ遺伝子自体は個体の意志によっては変わらないが、遺伝子の機能を発現・調整するスイッチがあり、そのスイッチは個体のライフスタイルによって付いたり消えたりし(エピジェネティクス)、そのパターンは子孫に受け継がれるケースもある。僕の学んでいる微生物学の業界でも、系統樹的に分岐していく以外の変化もその存在が確認されている。しかし大枠においてはやはりダーウィンの理論は今なお進化論の基盤であることは揺るがない。
《バックナンバー》
[第0回]ご挨拶
[第1回]逃避としての読書、シェルターとしての書店