掌の美術論
第5回 時代の眼と美術史家の手
――美術史家における触覚の系譜(前編)

About the Author: 松井裕美

まつい・ひろみ  東京大学大学院総合文化研究科准教授。博士(美術史)。専攻は、フランスを中心とする近現代美術。著書に『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい<現実>』(名古屋大学出版会、2019年)、翻訳にデイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
Published On: 2023/5/30By

 
『掌の美術論――触覚と想像力に』、2026年7月2日発売です。みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
 
 

時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(前編)

 
 2020年春から、コロナ禍で国内外の多くの展覧会が開催を見合わせたり延期したりした。代わりに多く見かけるようになったのが「ヴァーチャル・ミュージアム」と呼ばれる企画だ。インターネットに繋いだパソコンやタブレットさえあれば、家にいながらにして幾つかの海外の企画展の展示室風景を3Dの再現で見ることができた。そうした特設サイトでは、気に入った作品をクリックすればその詳細画像とキャプションを読むことができる工夫もなされていた。自粛期間が続くあいだ、美術館のこうした取り組みは重要な気晴らしの時間を提供してくれた。
 
 だがそれと同時に改めて考えさせられたのが、作品を「見る」という行為の意味である。文化事業が通常運転を始め、実際の作品を前にする機会を取り戻した今、やはりパソコン上で見る作品の画像と、実物を前にして見る体験とは大きく異なっていることを再確認した人も多いに違いない。
 
 では目の前の作品と、パソコンの画面上で見る画像とで異なる点とはなんだろう。さまざまな答えがあるだろうが、おそらく次の点について意見は一致するのではないだろうか。つまり、私たちは実物を前にした方がはるかに多くの感覚を刺激され、情報を得ることができる。ある部分のかたちや色、筆致が全体ともつ関係性はどのようなものか。作品が周囲の環境ともつ関係性はどのようなものか。距離を変えるとどのように見えるのか。光があたる角度でどのように色合いが変わって見えるのか。もちろんデジタル画像でも部分を拡大して見ることはできる。ある特定の部分の、特定の情報だけを得たいのであれば、場合によってはデジタル画像の方が鮮明に見えるのかもしれない。だが実際の私たちの知覚は、作品に近づいたり離れたりする身体運動の中で、部分と全体との、作品とそれを取り巻く環境との相互的な対話の展開により形成されていくものだ。そうした知覚の複雑さやダイナミズムを、デジタル画像からのみ得ることは難しい。おそらくそのことは不可能ではないのだが、それは見る側が現物を目にして観察する経験を相当積んでいるということを前提としなければならないだろう。過去にさまざまな作品を観察・鑑賞した際の記憶や感覚を、デジタル画像から得られる情報と統合する鑑賞のあり方は、通常よりも高度な知覚プロセスを要する。
 
 つまるところ私たちは、眼だけで作品を見ているのではなく、体全体で見ているといっても良いだろう。この作品と身体との関係は、美術史においてどのように記述されてきたのか。ここではとりわけ、視覚と触覚の関係性に注目しながら、まずはバクサンドール、次にヴェルフリン、そして最後にベレンソンの著述へと遡ってみよう。
 
「時代の眼」と「時代の身体」
 
 美術史家にとって、作品を分析するうえで視覚が五感のなかのもっとも重要な位置を占めてきたことは、いまさら説明する必要もない。美術史家の「眼」は、過去の作品を仔細に観察し、分析し、そして解釈する客観性を備えているという前提が、そこにはある。だが「ニュー・アート・ヒストリー」が登場し「受容理論」が美術史に導入される1970年・80年代以降になると、美術史家の眼差しもまた、特定の歴史的・文化的環境に条件づけられているのだとする意識が先鋭化されることになる。
 
 無論、あらゆる眼が客観的たりうると人々が素朴に信じていたわけではない。それどころか、時代によってさまざまに異なる「眼」があるために、現代のものの見方から離れて過去の人々の「眼」に近づく必要があるということは、美術史が学問の一分野として確立された初期の頃から意識されていた。例えば美術史の形式分析に決定的な影響を与えることになるハインリヒ・ヴェルフリンの1915年の著書『美術史の基礎概念』は、さまざまな時代や国の芸術家の「眼」が、異なる形式を作品に与えることを明らかにし、「視覚の歴史*1」を語ろうとする試みだった。しかし「ニュー・アート・ヒストリー」以前の西洋の美術史家で、作品を観察する美術史家の「眼」そのものに対し、こうした学問分野としての存続を揺るがしかねない根本的な疑念を向けた者はいなかった。当時最新の心理学的研究を踏まえながら美術史の語りを刷新したエルンスト・H・ゴンブリッチの、50年代から60年代の著述でさえ、写実主義を含めた人間の視覚文化が文化的な構築物であることを問題にしながら、「美術の物語」を紡ぐ観察者としての自らの眼の客観性について問題として取り上げることはなかった。
 
 では「ニュー・アート・ヒストリー」以降、美術史は客観的な歴史科学としてのステータスを失ってしまったのかというと、そうではない。美術史家の「眼」に対し美術業界の内部に生じた疑念は、美術史に携わる者への警句にはなりえたが、学問分野の存続を実際に危うくするまでには至らなかった。というのも美術史という学問分野は、その方法論的な問題が指摘されるたびに、古い方法による研究成果の完全なる否定や方法論の根本的刷新ではなく、新旧含めた多様な方法と成果とを包摂することによってこそ、生き延びてきたからである*2
 
 現代の美術史家の眼が客観的であると無条件に信じることができないのだとしても、現代ではなく過去の眼で作品を見るために、視覚以外のさまざまな資料もまた駆使すれば、より信頼に足る客観的な歴史叙述ができるのではないか。そう考えた人々が取ってきた解決策とは、作品の形式的な特徴を明らかにするだけでなく、作者の同時代人を含む過去の人々がその作品に対してどのように反応し記述してきたのかを明らかにする、というものだ。またそうした過去の作品受容において、どのような言葉やロジックが用いられ、さらにそれらがどのような慣習や制度、美学、思想、政治的態度と結びつくものなのかという点までわかれば、私たちは、私たち自身の時代に囚われた「眼」から少し離れて、過去の人たちの「眼」に接近することができるかもしれない……。このような期待を抱いた美術史家たちは、作品分析やその制作にまつわる調査を行うだけでなく、その周囲を取り巻いてきた人々の眼差しと思想、それらを基礎付ける下部構造へと近づく手がかりを追い求めて、多様な分野のさまざまな性質の文献を探し、読み、関連づけていくことになる。他ならぬ私もまた、自らの美術史的研究においては、こうした手法をとることで多くのことを学び、発見してきた。
 

 マイケル・バクサンドールは、1988年に出版された名著『15世紀イタリアにおける絵画と経験』(邦訳は『ルネサンス絵画の社会史』)の中で、美術史家が接近しようとする過去の人々の眼のことを「時代の眼(period eye)」と呼んでいる。彼は同書の第二章を「時代の眼」と題し、次のように始める。
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つづきは、単行本『掌の美術論』でごらんください。

 
身体を通して、世界に触れ、世界と戯れ、世界を模倣し、そして世界とずれていく。そのずれの中にこそ、芸術の可能性は宿っている。
 
2026年7月2日発売
松井裕美 著『掌の美術論――触覚と想像力に』

 
四六判上製・352頁 本体価格4000円(税込4400円)
ISBN:978-4-326-85207-9 →[書誌情報]
【内容紹介】遊びが手触りや感覚を頼りに新たなゲームや楽しさを創造し、ときに新しい認識や価値を開いていくように、触覚を軸にした鑑賞の方法を提示する。触覚に関わる美術史を整理したうえでフェミニズムや歴史・記憶と芸術作品の関係など、現代的な問題意識を織り込んだ作品解説を通し、触覚と想像力が拓く遊戯場としての美術史を紡ぎだす。

 
》》》バックナンバー 《一覧》
第1回 緒言
第2回 自己言及的な手
第3回 自由な手
第4回 機械的な手と建設者の手

About the Author: 松井裕美

まつい・ひろみ  東京大学大学院総合文化研究科准教授。博士(美術史)。専攻は、フランスを中心とする近現代美術。著書に『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい<現実>』(名古屋大学出版会、2019年)、翻訳にデイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
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