掌の美術論
第4回 機械的な手と建設者の手

About the Author: 松井裕美

まつい・ひろみ  東京大学大学院総合文化研究科准教授。博士(美術史)。専攻は、フランスを中心とする近現代美術。著書に『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい<現実>』(名古屋大学出版会、2019年)、翻訳にデイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
Published On: 2023/4/26By

 
『掌の美術論――触覚と想像力に』、2026年7月2日発売です。みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
 
 

機械的な手と建設者の手

 
 手が勝手に動いて、思いもよらないような線を描くという体験は、誰にでもあるはずだ。幼い子供はある段階から、線を描きながら、その線に意味を与えていくことができるようになる。丸のようなものを描く。そして子供はそこに、順番に名前を与えてく。「このまるはたまごだよ。たまごじゃないよ。さなぎだよ。さなぎじゃないよ。なまえ・・・なの」。同じ丸のイメージに別の言葉を重ね、今度はその新しい言葉が、別の線を生み出していく。手先から生み出される線は、特定の何かと絶対的な類似を示すこともないまま、いかようにも変容する。最初は何の目的もなく線をただ走らせていた幼子は、生み出した線を瞬時にカテゴライズし、抽象化した現実の事物との対応関係を探りながら線に事物のかたちや言葉を与えていく。そこには必ず、手の運動と、それが生み出す線、そして生み出された線と対話しながら駆動する認知的なプロセスとの対話がある。
 
 手が勝手に生み出す線。しかしそのようなものなど、果たして実在するのだろうか。おそらく実際には存在しない。たまたま鉛筆を握っているときに手が痙攣して生み出した線を、「手が勝手に生み出した」とは言えない。その痙攣が手の神経に由来するものならば、それは手だけでなく、脳を含めた身体の問題であるし、それが車の振動など外部的な運動に由来するものならば、それはそうした運動がもたらした線だ。それでも、あたかも制御されていない「手」が生み出したかのような奔放な線は、新しい時代の芸術の創造性を約束するものであるように考えられてきた。より具体的に言えば、20世紀の前衛運動であるフランスのフォヴィスムやドイツのブリュッケから、第二次世界大戦後に流星のように登場するポロックのドリッピングに至るまで、一般に「表現的」ないしは「素朴派」、「プリミティヴ」と形容されるような絵画に求められてきたのは、理性や慣習による制御を受けていない「手」であった。だからこそそうした「手」への関心は、先史時代の芸術への関心、「未開人」と西洋人がみなす非西洋圏の美術、子供の絵、精神症疾患の患者の絵に新たに向けられた芸術的関心とも密接に結びつき展開したのである。
 
 他方でこの「手」は、それでもやはり、人間の身体に帰されるべき「手」であり続けた。ロバの尻尾に筆を結びつけて描かせたという作品に、作家ロラン・ドルジュレスは《かくてアドリア海に陽は沈みぬ》というタイトルをつけて、1910年のサロン・デ・ザンデパンダンに出品している。モネの《印象(日の出)》を想起させるタイトルと筆触のこの作品は、今日においてもモネの絵画と同じ価値を持つものとみなされていない。何かの冗談でしかないとすら、考える人は多いだろう。AIが描いたという表現主義的な絵画が、いかにそれらしい抒情を湛えていたにせよ人々を困惑させる傾向があるのも、同様の理由による。
 

 近現代芸術作品における「自由な手」に求められてきたのは、合理的に構築されてきた観念や伝統的に築き上げられてきた慣習をとりはらったあとに人間のうちに残る、根源的なもの、本能的なもの、直観的なもの、感情的なものであった。他ならぬ人間の「手」によってそうしたものが真理として示されることのうちに、ルネッサンス以来西洋の文化と思想を基礎づけてきたヒューマニズムに根ざす、芸術の近代的な意義の一つが見出されてきたのである。
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つづきは、単行本『掌の美術論』でごらんください。

 
身体を通して、世界に触れ、世界と戯れ、世界を模倣し、そして世界とずれていく。そのずれの中にこそ、芸術の可能性は宿っている。
 
2026年7月2日発売
松井裕美 著『掌の美術論――触覚と想像力に』

 
四六判上製・352頁 本体価格4000円(税込4400円)
ISBN:978-4-326-85207-9 →[書誌情報]
【内容紹介】遊びが手触りや感覚を頼りに新たなゲームや楽しさを創造し、ときに新しい認識や価値を開いていくように、触覚を軸にした鑑賞の方法を提示する。触覚に関わる美術史を整理したうえでフェミニズムや歴史・記憶と芸術作品の関係など、現代的な問題意識を織り込んだ作品解説を通し、触覚と想像力が拓く遊戯場としての美術史を紡ぎだす。

 
》》》バックナンバー 《一覧》
第1回 緒言
第2回 自己言及的な手
第3回 自由な手

About the Author: 松井裕美

まつい・ひろみ  東京大学大学院総合文化研究科准教授。博士(美術史)。専攻は、フランスを中心とする近現代美術。著書に『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい<現実>』(名古屋大学出版会、2019年)、翻訳にデイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
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