めんどうな自由、お仕着せの幸福――サンスティーン先生、熟議のお時間です! 連載・読み物

めんどうな自由、お仕着せの幸福
第5回:熟議でのナッジ? 熟議へのナッジ?《田村哲樹さんとの対話》

 
【お知らせ】本対談連載ご登場の方々による書き下ろし単行本『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』(那須耕介・橋本努編著)が、2020年5月、ついに刊行となりました! この対談とあわせてぜひお読みください。また「けいそうビブリオフィル」では『ナッジ!?』の「はじめに」「おわりに」と各章冒頭をたちよみ公開しています。こちらもぜひご覧ください。→→【あとがきたちよみ/『ナッジ!?』】
 
 

那須耕介さんがナッジやリバタリアン・パターナリズムをめぐって語り合う対話連載、今回は名古屋大学の田村哲樹さんがご登場です。政治学者として、ずーっと「熟議」を研究してきた田村さんは、じつはその熟議と食い合わせがあんまりよくないナッジも射程に入れて議論なさってきました。「政治」をめぐる初歩的な話から、ミニ・パブリックスなどなど、どうぞお楽しみください。【編集部】

 
 
那須耕介: 今日は思い出話からうかがいましょうか。まず、田村さんがどんな文脈でサンスティーンの議論に関心をもったのたか、また当時の印象、評価についても聞かせていただければ。そもそも田村さんは、ぼくから見ると、ずっと熟議の話をしている人なんです(笑)。
 

田村哲樹(たむら・てつき) 1970年生まれ。名古屋大学大学院法学研究科教授。政治学・政治理論。著書に『熟議民主主義の困難』(2017年、ナカニシヤ出版)、『政治理論とフェミニズムの間』(2009年、昭和堂)、『熟議の理由』(2008年、勁草書房)、『国家・政治・市民社会』(2002年、青木書店)、『ここから始める政治理論』(共著、2017年、有斐閣)、『政治学』(共著、2017年、有斐閣)、『政治において正しいとはどういうことか』(共著、2019年、勁草書房)、ほか。
田村哲樹: そうですね! ほんとうにそのとおりです。1999年に提出した私の博士論文は、ドイツの政治社会学者であるクラウス・オッフェの福祉国家論の批判理論でした。その後、公共性とか、公私区分の問題に関心を持ちましたが、だんだん熟議民主主義論に来たんです。そもそも、オッフェ自身も熟議民主主義を議論していましたので、ある程度必然性があったのかもしれません。ともあれ、熟議民主主義研究を始めたのが2000年くらいからなので、かれこれ17、8年くらい経ちますね。これだけやってきたら、研究者をやっているかぎり、流行廃りとは別に研究し続けていくと思っています。
 
熟議論が日本でいちばん流行っていたのは、現実の政治でも「熟議」という言葉が使われた2000年代後半だったかもしれません。ミニ・パブリックスのような制度もローカルなレベルで導入されていきました。その時代が過ぎたから、廃れているようにみえるかもしれませんが、世界的な研究動向はまだまだ発展していますし、今後もやっていきたいですね。
 
那須: ごく初歩的なところからうかがいます。民主主義論には、いわゆる参加、反映、集約型の民主主義と、熟議的、反省的、批判的な民主主義のように、大きく2つの民主主義像があって、前者に近いアメリカ式の多元主義論への批判として後者の熟議論が出てきたというのが、外野からの理解ですけれどもあってますかね?
 
田村: 簡単にいうと、「民主主義は個別利益の集計ではないんだ」という話ですね。民主主義とは、単純多数決の投票で決めるのでもないし、アメリカ的な多元主義のように個々の利益集団の利益の表出と交渉で決めるのでもない。一言でいえば、熟議とは、「利益集計ではない民主主義のありかた」の一つです。
 
■熟議民主主義をどう説明する?
 
那須耕介(なす・こうすけ) 1967年生まれ。京都大学教授。法哲学。著書に『多様性に立つ憲法へ』(2014年、編集グループSURE)、『現代法の変容』(共著、2013年、有斐閣)、共訳書に『メタフィジカル・クラブ』(ルイ・メナンド著、2011年、みすず書房)、『熟議が壊れるとき』(キャス・サンスティーン著、2012年、勁草書房)ほか。
那須: たとえば、授業ではじめて熟議という言葉を聞く学生さんたちには、どう説明しているんですか?
 
田村: そうですねぇ。ぼくは、まず「熟議とは、話し合いの民主主義のことです」と言ってしまいます。そのことを表現するために、「話し合い中心的(トーク・セントリック)」という言い方もしばしば紹介します。この表現は、15年くらい前、シモーヌ・チェンバースという人が使ってから、熟議を説明する時にしばしば用いられるようになりました。それで、「熟議民主主義とは、話し合い中心の民主主義です」、と。
 
ただ、「話し合い」といってもいろいろあるわけで、「話し合い中心」の後に、「自分の意見を言うときに受け容れ可能な理由を述べること」を付け加えます。これは、正当化やアーギュメントといわれる、「理由を述べる」部分ですね。それと、「相手の理由に納得したら自分の見解、選好をかえること」、つまり、選好の変容、意見の変容ないし反省性とかリフレクションと呼ばれる要素も大切です。この2つの要素が備わった話し合いが熟議です。
 
熟議がなぜ重要かという話については……、「人びとのあいだに紛争や意見対立が起こったときには話し合いをするしかないでしょ」と、こんなふうに言います(笑)。
 
那須: なるほどね。
 
田村: 多数決で決めればいいと思うかもしれないけれど、多数決で決まらない場合もあるし、多数決でいったんは決めても納得がいかない可能性もある。お互いガチンコでぶつかっているのに、「じゃあ多数決で決めます。3対1です。これで決まりです」だと、「えっ」と思う人が出てくる。それは納得できてないからですよね。そういうわけで、意見の対立は社会の中にはどこにでもあって、それを解決するには話し合い、熟議ですよ、という言い方をします。
 
■政治イコール選挙じゃないよ
 
田村: 学部の政治学原論の講義で言っているのは、「政治のイメージを考え直してください」です。「政治イコール選挙」という見方を改めましょう、ということです。たしかに選挙や投票も政治の一部だけど、だからといって「政治イコール選挙」ということではないのだ、と。
 
政治は、かなりラフな言い方をすれば、「みんなにかかわる問題について、どうするかを決めること」です。そうだとすると、学級会も政治だし、友達どうしでなにかを決めるのことも政治になる。その決め方、つまり政治の行い方は、多数決もありうるしし、ネゴシエーションで決めることもあるだろうし、リーダーに任せるというやり方もある。もちろん、ぼくの場合は、熟議=話し合いで決めることが大事と言いたいところですが(笑)、その熟議も含めて、みんなに関わる問題についてのいろいろな決め方、つまり政治があり得る。そして、そのような政治は、いろいろな場で起こり得る。そういうわけで、あまり「政治イコール選挙」だと思わないでくださいね、と言ってます。
 
那須: 田村さんがずっと言われていることのポイントの一つは、政治をオフィシャルなものに限定しない、制度化されたものに限定しない、ということですね。複数の人が共通の問題に取り組めば、家族で友達どうしでも政治だ、と。
 
田村: はい、そうです。政治学者の中では、なかなか支持してもらえませんけれども(苦笑)。
 
■「よい熟議」って?
 
那須: 問題はそこから先で、「熟議っていうけど、うまくいかないじゃないか」となったときに、雲を掴むような話になっちゃう。「よい熟議」のイメージってつかみにくいですよね。プロセスなのか、結果なのか。どういう基準で考えればいいのか。
 
田村: じつは「よい熟議はなにか」という話は、あまりしないようにしています(笑)。なぜしないかというと、「ぼくは政治哲学者ではない」と自分で思っているからです。
 
那須: ああ! 政治理論と政治哲学はそこがちがうと。
 
田村: そうですね。政治理論と政治哲学の異同問題はかなり論争的であることを前提として、ぼくの場合は「政治理論」が行うことは「正しさ」や「望ましさ」よりも、「政治」そのものの独自性を考えることだと思っています。そのような自分の「政治理論」観のためか、「よい熟議」や「よい民主主義」とか、「よい政治」とはなにかといった問いの立て方を、自分自身はあまりしていないですね。
 
那須: なるほど。
 
田村: ただ……、してないんですけど……。
 
那須: 聞かれることはある?
 
田村: あります。まあ、熟議民主主義自体が、民主主義の望ましいあり方を提起するものですから、仕方ないのですが(苦笑)。「よい熟議とは?」ということを考えるとすると、ひとつは「結論の正しさ」ですね。熟議したほうがよりよい結論に到達できるから望ましい、という正当化の仕方です。少し前からの流行にエピステミック・デモクラシー論(認識的民主主義論)というのがあり、熟議の場合には、「熟議によって『正しい』価値や真理に到達できる」という議論の仕方があります。
 
でも、私はどちらかというと、熟議の意義は「結論を受け容れることができる」という意味での正統性(レジティマシー)に求められる、という立場です。つまり、「熟議の結論は正しくないかもしれないけれど、納得はできる」という意味です。
 
まとめると、熟議の「よさ」は、この2つに求められます。つまり、正しい結論に近づくからということと、結論に納得できるからということ。その上で、私はどちらかというと後者の理由を支持しています。なぜかというと、政治は何らかの「真理」を追求する場ではないし、たとえ追求したとしてもたぶんそれを見出すことはできないし、仮に「真理」なるものが見つかったとしてもかえって問題が起こるかもしれないのではないか、と私は考えているからです。もちろん、もしかしたら熟議を通じて正しい結論を導くこともできるかもしれず、それは熟議ではない形で「正しい」結論を見出すよりも望ましいだろう、とは思います。ただし、その可能性を考えることは、政治や民主主義の固有の性質を考えることとは少しちがうのではないかなとも思っています。
 
■サンスティーンは真理発見型民主主義の人?
 
那須: なるほど。民主主義を考えるときの軸の一つに集計型ないし反映型と熟議型という対立軸があって、もう一方に真理発見型か、納得できる結論を作り出す創造型か、という軸がある。サンスティーンはどっちかというと真理発見型かな……。
 
田村: そうですね。
 
那須: サンスティーンは人間の可謬性を大事にしているんですけど、政治の世界での「まちがい」を、単純に「真理からそれること」と考えているふしがあって、ちょっと違和感もあるんです。サンスティーンは、真理発見型の民主主義をわかりやすく説くためにレトリックを多用しているだけなのか、納得創造型の民主主義像ももっているのか、よくわからないところが……。
 
田村: なかなか難しい問題ですが、公共フォーラムとか、アメリカ憲法の討議的熟議的解釈とかの話をしているときは、たぶん真理の追究ではなくて「人びとが共通のものに関心をよせること自体が大事」というトーンですよね。
 
しかし、ナッジやリバタリアン・パターナリズムの議論では、科学の諸成果も動員して、いかに「まちがった」選択を減らし「正しい」選択をもたらすかという話をしているので、先ほどの区別の言う真理発見型の議論をしていますよね。こうして見ると、サンスティーンの議論には二面性があるような気もしてきます。ただ、私自身も、「政治を行うことは真理への到達とは異なる」と考えている一方で、「正しい」系の議論の一つである集合知論にはなぜか興味があります(笑)。
 
那須: 授業で、民主主義像には「あるがままの主権者の意思が歪められることなく反映される」というのもあるけど、「われわれの最善の部分をうまくすくいあげて決定に反映する」っていうのもあるよね、と言うと、みんなちょっと悩み始めるんですよね。前者なら「親近感を覚えるからタレント候補に投票する」のはアリ。でも後者だと、「大所高所にたって、われわれの社会が長期的に向かうべき方向を見通せる人を選ぼう」という言い方になる。田村さんの話は、どっちなんでしょう。
 
田村: なるほど。意見がそのまま表出される民主主義と、そうではない民主主義というふうに考えると、熟議民主主義は、民主主義ではあるけれども、そのままの意見でいいよという民主主義ではないよ、と思いますね。
 
那須: 真理発見型かつ反映型の民主主義でいいのなら、ビッグデータで国民の意思は投票よりも正確に把握できちゃうかもしれない。でも納得創造型の民主主義をとるなら、言葉を通じて、自分の考え方を変えたり、相手の考え方を変えたり、そういう過程が必要になってくる。ただ、そこで質の高い結論を得るには、結局、参加の資格や手続きに制限を加えろ、という話になりませんか。
 
■そこにある「政治」
 
田村: 議会は制度化された場なので、そこでの熟議のルールは公式のものであれ非公式のものであれ設定しやすいと思います。一方、「友人間や家族メンバー間でも熟議」というと、ルールがないから問題が生じやすくなるといわれます。ただ、私自身の基本的な関心は、制度か非制度かよりは、まず「政治はいろいろなところにありうる」ということにあります。まずそこに政治や熟議がありうることを認めましょうという、そこにウェイトがあります。そういう関心から、うまくいくかどうかという以前に、「家族だって政治の場になりうる」というと、「いや政治の場ではない」「家族にも政治がある、というのは政治学者ではない研究者がいうことだ」という反応が返ってきます(笑)。
 
那須: んん〜。
 
田村: たしかに家族でも友人でも地域でも、「小文字の政治」といわれそうなところに「ポリティクス」を見出して研究するのは、たいていは政治学者ではない研究者です。そして、政治学者はそれを政治研究とは見ていない。政治学者も、家族であれ何であれ「小文字の政治」が発生する場に関心を持たないわけではありません。しかし、政治学者の関心はあくまで、そうした場での出来事が、どのように公式の政治過程に媒介されていくかにあります。
 
私は、「小文字の政治」といわれるものも政治であって、そこでもし民主主義がおこなわれるのであれば、「大文字の政治」における民主主義と同じことをやっていると、まずは見るべきではないかと言っています。
 
■親密圏熟議の困難
 
田村: そうはいっても、家族や親密圏での熟議には、いろいろと固有の困難はあります。たとえば、開かれた場ではないために、声の大きな人や文字通り力の強い人の主張が通りやすい可能性があります。こうした問題にどう対応するかについて考えなければなりません。そこで、『熟議民主主義の困難』(2017年、ナカニシヤ出版)では、財政的な資源といいますか、ベーシック・インカムを保障することが発言のための資源となる、という言い方をしたのでした。一定の所得を持つことが、発言するための支えになると考えたのです。
 
親密圏での発言を支える他のものとして、ナンシー・フレイザーの言う「サバルタン公共圏」もヒントになります。家族の中でパワーバランス的に弱い人も、家族の中だけだと制度的支えがなく、言いたいことも言えないとしても、家族の外を経由することでエンパワメントされるかもしれません。たとえば、女性だけが集まる会合で、夫婦関係のことを話し合うことで、自分の立場や家族関係をうまく表現する言葉を見つけたり、発言の仕方を身につけていくことがありえます。
 
ちなみに、やや話がそれますが、私はこのように考えれば、通常の意味では家族の外部とみなされるような場や人間関係も、「熟議システムとしての家族」の構成要素と見ることができると考えています。ただ、そうだとしても、親密圏や家族における熟議について、議会その他の公式の制度と同じルールを設けることで議論のあり方をコントロールすることは難しい。それは事実です。でも、難しいからといってありえないというわけではないと思いますし、熟議がないよりはあった方が望ましいとも思っています。
 
那須: そこで感じるのは、「よりよい熟議にしていくにはどうすればいいか」という問題の前に、「そもそもなぜ家族で熟議、友達で熟議なのか」という問題がある、ということです。「とにかくトーク・セントリックが大事」というのはわかる。それを「熟議」だ、「政治」だ、といわれるとちょっとひくというか……。
 
「言わないとわからないよ」、っていうことの大事さがどこで出てくるか、という問題が先にある。親密圏には、「そんなことわかってると思ってた」的な行き違いがいつもあるでしょう。言わなくても伝わると思えることが親密さの前提にある。なんでもかんでも言わないといけないんだったら、それはもう親密圏じゃない。
 
田村: そうですね。
 
那須: でもそれが暴力の温床にもなる。だからいざというときには話し合う習慣ももっておいたほうがいい。
 
田村: おっしゃるとおりです。このあたりに関する感覚はもっているつもりで、『熟議民主主義の困難』にも少しだけ書きました。親密圏や仲のいい関係はだまっていてもわかるのがベストだと思っているかもしれない。それでも、実際にはわかってもらえなくてつらかったとか、言ったらキレイゴト言うなって怒られてなんか理不尽な思いをしたといった経験もする。それはつまり、やっぱり熟議や話し合いが大事だということではないですか、と。残念ながら、このあたりの話は、私の政治学者としての頭が固すぎるせいか(笑)、まだきちんと展開することができていないのですけれど。
 
■熟議へのナッジ
 
那須: 『熟議民主主義の困難』では「熟議へのナッジ」が4つ、挙がってました。公共フォーラム、くじ引き、レトリックと、ベーシック・インカム。これらがどの程度ナッジになるのかという話と、ナッジとして機能するにはなにが大事かという話をされているんですが、意地悪くいうと、熟議に入るきっかけがナッジだと、「なぜ熟議なのか」という問題が消えてしまわないでしょうか。ナッジには、だましてやらせる、みたいなところがあるじゃないですか?
 
田村: パターナリズムというか。
 
那須: そう、最初から理由がわかってなくてもいいんだ、というニュアンスがある。田村さんは、「はじめから一人ひとりに熟議に向かう理由はあるんだ。だけどもそれがうまく表現できない状態にあるから、それを起こしてあげるだけだ」という考えなのか、「熟議は何よりも大事なことだから、少々だましてでも引き込めばいいんだ」というのか(笑)。後者だと、田村さんの本意にはそわないかな。どうでしょう。
 
■入り口までの道案内
 
田村: 『熟議民主主義の困難』のナッジの章のもとになった、宇野重規さんや山崎望さんと書いた本が出たのが7年くらい前です(『デモクラシーの擁護』2011年、ナカニシヤ出版)。ちょうどオーストラリア国立大学に在外研究に行っていて、その頃に思いついたのです。あちらのセミナー等での報告などを見ていて、面白いアイディアがあればたとえ思いつきでもばんばん出していくのがいいのではないか、というモードがわりと強くなっていた時でした。
 
那須: ふふふ。
 
田村: 「熟議のためのナッジ」では、ナッジするのはあくまで入り口部分だけで、結論までコントロールしようとしていない、つまり熟議の内容にはナッジは効いていないから、これはいけるんじゃないか、誰も言ってないし、と思って(笑)。
 
那須: サンスティーンは、熟議に人を引っ張り込む話はあんまりしてないですよね。
 
田村: たぶん、そうですね。たとえば彼は、「公共フォーラム」はずっと前から言ってるんですけど、それをナッジとは呼んでいないと思います。
 
人がオートマティックに反応するメカニズムをもっているのだとすれば、民主主義への参加にだってオートマティックに反応することはありうる。じゃあ、どういう仕掛けだったらオートマティックに参加するだろうか、というのが「熟議のためのナッジ」の考え方です。オートマティックな反応だから、「人びとは熟議したいと思っている」とか、「熟議すべきだと思っている」といったことは関係ありません。もしかしたらそのように思っているかもしれないし、まったく思ってないかもしれない。どちらにせよ、思わず反応してしまう、というわけです。
 
私が挙げた「熟議のためのナッジ」の中で、「思わず」という点でもっともダイレクトなものは、くじ引きですよね。「くじ引き」と聞くとやや面喰うかもしれませんが、ミニ・パブリックスへの招待状は、無作為抽出で選ばれた市民に送られるものですから、くじ引きの例と言えます。
 
■くじ引きであたった人たちと
 
田村: もしかしたらミニ・パブリックスの主催者は招待状を送る時になにかの「念」を込めているかもしれないですけれど(笑)、それを受け取るほうはいきなりですから、最初の反応は、まさにサンスティーン的にはオートマティックなもののはずです。べつに深い公共心や熟議の意欲によって反応するわけではありません。
 
だからこそ、くじ引きはナッジだと思います。そして、ミニ・パブリックスを実践している人やその研究者の評価では、参加者はわりとよく議論できているケースが多い。どういう動機をもっていようと、実際にナッジされて来てみたら、とにかくみんな熟議できているというわけです。
 
那須: はじめから意識の高い人しかこない集会とはちがう、ほんとに無作為抽出的に人が集まる場所をつくってそこで議論することには、固有の意味があるんだ、と。
 
田村: はい。
 
那須: そういう場所を作り出す方法を、田村さんはナッジに求めた、というわけですね。
 
田村: そうですね。やっぱり参加を義務としても、罰則をともなうような強制としても考えたくない場合に、ナッジは「ちょうどいい」側面があります。他方で、純粋に自発的な参加だと、そもそも参加しない人も多いし、参加する人はいわば固定客といいますか、あらかじめ強い意欲や意思をもっている人が多いでしょう。
 
ミニ・パブリックスについては、それまで公的な場に参加する気もなかった人が、無作為抽出であたって一定数参加しているという調査もあります。そうだとすると、それこそナッジなんじゃないかなって思いますね。
 
那須: あたったらとりあえずうれしいと思うからね。ふふふ(笑)。
 
田村: そういう人もいるのではないかと思います。「目覚める」ような感覚もあるのかもしれません(笑)。
 
■目覚まし型ナッジと幻惑型ナッジ
 
那須: なるほどね。ぼく、ナッジには2種類あると思って、目覚まし型ナッジと幻惑型ナッジと名前をつけたんです。
 
目覚まし型は、「考えてくださいよ」という方向にナッジする。銃の購入には2週間の待ち時間を設けて、思い立った瞬間には買えないようにしておくとか。クーリングオフのような制度は目覚まし型のナッジの役割をはたして、熟慮を促す。よく考えてからやりましょう。自分がほんとに納得したら、どうぞ、と。
 
もう一方にあるのが、自動システムにはたらきかけて、目が覚めない人を誘導する、という幻惑型ナッジです。はっと気がついて、いやだと思った人はいつでもやめられる。でもほとんどの人は深く考えないからそのまま誘導される。サンスティーンの議論で印象的なのは、この幻惑型なんですよね。でも、それはだまして操作しているだけじゃないかと、批判もされています。
 
田村: そうですね。「サブリミナル効果と同じ」という人もいたと思います。
 
那須: そう。ただ、田村さんのいまのお話だと、熟議へのナッジはその自動システムにはたらきかけて、だからこそ、ふだん政治への関心の乏しい人がふらっと来る。でもそれでいい。そんな参加にも固有の意味があって、そういう人たちが他の人たちの意見に触れる場となって、目覚まし的な役割をはたすかもしれない。
 
田村: そうです。そこはまさに熟議の効果とか意義とかの話をするべきところですね。目覚まし型は、まさに「入り口までの」ということですね。
 
■熟議民主主義をナッジで解釈する
 
那須: 『熟議民主主義の困難』では、「レトリックもナッジの一種」という話をされています。具体的なイメージがつかみにくかったので、少し聞かせてください。
 
田村: レトリックについては、レトリックで熟議の場に人を引きつける、ということより、熟議の過程でのレトリックの役割のようなことを念頭においていたんです。
 
ただ、どういう場でのレトリックなのかは、あまり具体的に考えていませんでした。熟議民主主義の理論のなかで、ジョン・ドライゼクやシモーヌ・チェンバースが「熟議的なレトリック」といっていたので、「あ、これ、もしかしてナッジっていえるんじゃない?」という議論の仕方です。「熟議的なレトリック」というのは、将来の行動についてのよく考えられた反省を引き起こすようなタイプのレトリック、というくらいの意味です。
 
彼らがレトリックを提案するのには、熟議は「理性的で合理的な論議」だけではない、というメッセージを発するという目的もあります。
 
那須: そこがポイントなんですね。
 
田村: つまり、人の感情的なものに訴えかけるような熟議もあって、その一にレトリックがあるということです。このレトリックを、サンスティーンのナッジとか、社会的影響力の話とひっかけると、ナッジと読み替えられるんじゃないか、と考えた次第です。
 
那須: たしかに、「集会にいってみようよ」みたいな話も、誘い方によっては全然違う反応になるかもしれませんね。「政治って大事だよ」って大上段に言われたら反発するけれども、「面白い人がくるよ」だと、ふらふら行っちゃうかもしれない。実際、プロパガンダとどこがちがうのかとも思うんですけど。
 
田村: あるいは、普通だったら変わらないところで、人びとの選好や意見の変容を起こす。
 
那須: それは熟議へのナッジですか? それとも熟議内のナッジですか?
 
田村: 考えたのは「熟議内」の話なんですけど、たしかに熟議への入り口にもなりうると思います。いずれにせよ、私が熟議に関するナッジとして提案したことは、もともと熟議民主主義研究の中でいわれていたさまざまなことを、ナッジという概念を用いればひとまとめにして把握できるのではないか、というものでした。今まで言われていなかったけれども、新たにナッジとして提案できるものもあるかもしれませんが、それは今後の研究課題ですね。
 
■ミニ・パブリックスをめぐる評価
 
那須: 熟議理論のなかでミニ・パブリックスはどう位置づけられているんでしょうか? どうやらミニ・パブリックスと公共的討議とをイコールでつないじゃう人がたくさんいて、田村さんはそれと距離を置こうとしているのかなと思ったんですが。
 
田村: 90年代終わりから2000年代にかけてミニ・パブリックス、もしくは設計されたフォーラムで人びとが話し合いをする場への関心が出てきて、それまで熟議民主主義は哲学や理論の領域で研究されていたところに、より経験的な分野の研究者が参入してきました。「熟議は理想論ではなく現実に起こっていることなんだ」とのメッセージを発するという意義もあって、熟議の経験的な研究が流行するようになりました。
 
しかし、そうなると今度は、ドライゼクなどから、「熟議の場イコール、ミニ・パブリックスという理解では、熟議民主主義の構想をせばめてしまう」という批判も出てきたんですね。僕自身も、そういうドライゼク的な流れにさおさしているところがあります。
 
とはいえ、僕はつねに折衷的に考えてしまうところがありまして(笑)、ミニ・パブリックスが全面的に問題だと言う気はありません。もちろんミニ・パブリックスに意味はあるけれども、だからといってそれが熟議民主主義のすべてというわけではない、という感じですね。ミニ・パブリックスで熟議が行われることを否定する必要はないけれど、「それこそが熟議だ」とか、そこに過剰な役割を求めてしまうのもよくないんじゃないかというスタンスです。
 
僕にとっては、熟議民主主義はいろいろなかたちでありうるものだからです。そういう立場で書いているために、この『熟議民主主義の困難』では、ミニ・パブリックスの「いいところ」については、それほど書きませんでした。それはもうわかっているでしょ、みたいな感じですね。
 
那須: ミニ・パブリックス批判の文脈には、当然、選挙を前提とした代表民主制こそが本物の民主主義、熟議だという考え方に立って、これはニセモノだ、という批判もあると思うんですよね。「あんな得体のしれないところでやってる議論なんてのは、ほんものの政治となんの関係があるんだ」と。
 
田村: そうですね。たとえば議員さんが怒るのはそのパターンだと思います(笑)。
 
那須: ぶふっ。最終的には住民投票の位置づけにもかかわってくる話ですね。そういう批判とは田村さんはあきらかにちがう立場で、むしろ、インフォーマルな場での議論の意義を、ほかの誰よりも肯定的に論じられてきたわけですから、よけいに位置づけがわかりにくかった。
 
田村: そうですね。先ほども述べたように、ミニ・パブリックスについて、それほどポジティブには位置づけていないかもしれません(笑)。おそらく、「よくいわれている意味では重要です」というくらいのトーンで書いているように見えるのではないでしょうか。自分自身があらたにミニ・パブリックスの積極的意味を探究しようという指向性はなくて、「それはそれで意味はあるのだけれど」というところから始めてしまっています。
 
ミニ・パブリックスは、よりフォーマルな議会との関係では、制度としては新参者ではありますが、熟議民主主義全体でみると「熟議の制度化」の形態の一つということになります。そのため、ミニ・パブリックスの擁護は、非制度的な場での熟議との関係では、緊張感が出ることになります。
 
実際、たとえばシモーヌ・チェンバースは10年前に、「熟議民主主義は大衆民主主義を放棄したのか」というサブタイトルを持つ論文を書いています。彼女によれば、ミニ・パブリックスは一部の人を集めて民主主義をやろうという話にすぎず、その結果「大衆」を放棄している、というわけです。熟議民主主義理論にとっては、なかなか手厳しい批判です。
 
■もうちょっと制度設計の話も
 
田村: 『熟議民主主義の困難』の中では、クリスティアン・F・ロストボールという研究者の議論も紹介しています。彼は、必ずしもミニ・パブリックスを直接念頭に置いているわけではないけれども、既存の広範な政治文化の捉え直しという意味での「社会批判」が大事だと言ってます。
 
ただ、ミニ・パブリックスなどの一部の制度だけでは、そのような役割を十分に担うことはできないでしょう。ただし、だからといってミニ・パブリックスの意義を全否定してしまうのもどうなのかなとも思うのです。
 
那須: 両方から引き裂かれて何も残らないともったいないですね。左派からは制度化されているじゃないかと叩かれ、右派からは公式制度の邪魔になると言われて。
 
田村: 「代表民主主義の破壊」だといわれかねないですね(笑)。
 
那須: たしかに「これがすべてだ」というのは乱暴でしょう。サンスティーン自身、ジェームズ・フィシュキンのミニ・パブリックス論には留保つきの肯定ですね。おそらくは、閉じた仲間内の議論に陥らないための補助的な工夫の一つ、くらいの感じです。
 
でも本当はもうちょっと先に行けるんじゃないか。ミニ・パブリックスをどう設計すればその外での熟議の過程を活性化できるか、というような話です。田村さんが考えてきた大きな熟議過程の一部分を制度的に括りだして、うまく活性化することで、その外側にどんな影響を与えられるか。そのためには、誰が主催者になるのがいいのか、どんな話題を扱うのがいいのか。そういう制度設計の議論はあるんですか。
 
田村: 制度設計でよく議論されているのは、ミニ・パブリックスにどこまでの役割をもとめるかという話ですね。現状の多くのミニ・パブリックスの役割は、意見聴取や参加者間の相互理解に留まっています。「政策提言は作りましょう、でもそれを手渡しても実際にどこまで参考にするかどうかはわかりません」という程度のものが多いと思います。
 
那須: 集団的パブリック・コメントくらいの感じですね。
 
田村: そうですね。このような現状を不十分と見なす立場からは、最終的な政治の意思決定にダイレクトに結びつかないと意味がない、という意見もあります。しかし他方で、それではとミニ・パブリックスに意思決定の責任を負わせると、今度は熟議が硬直化する可能性もあります。
 
ハーバーマスが言っていたように、「熟議は意思決定の責任を免れているからこそ自由にできる」という側面があります。あまり重い責任を負わせると、理想的な発話状況どころではなくなりかねない。だからこそ、あまり意思決定にだけ特化するのではなく、いろんなタイプのミニ・パブリックスを考えたほうがいいと思います。異なる立場の人びとが共通了解をつくるための場とか、政策提言の場としての役割とか。
 
那須: ミニ・パブリックスには意思決定よりも意見形成の役割を割り振る、という考えですね。複数の違うタイプのミニ・パブリックスを実験的に比較してみると面白いかもしれない。参加すると、討議の習慣や政治への参加意識がちょっとかわるとか。それこそ家族どうしで話しあう機会がふえるとかね(笑)。
 
田村: ブルース・アッカマンとジェイムズ・S・フィシュキンが『熟議の日(デリベレーション・デイ)』(2014年、早稲田大学出版部)で言ってるのは、究極的にはそういうイメージですよね。
 
■サンスティーンを再評価すると?
 
那須: なんでも言葉にすればいいというのではなくて、必要なときにそれができる。家庭でも職場でも、話すつもりのない人をひっぱりこむというか。聞く耳をもたない人に、「ちょっと聞いてくださいよ」とうったえるのは、実際にはたいへんだ。そのコストを下げる効果もありますよね。小文字の政治への参加コストが下がる。そのコストを測定できるような実験を考えれば、たぶんサンスティーンが立ち止まったところから先の話ができるんじゃないかという気がします。
 
田村: ナッジの社会的な波及効果ですね。大文字のオフィシャルな政治との関係ばかりみていると、議会があって、首長なり大統領なりがいて、正統な代表民主制の回路があって、それらとの関係をどうするの、というところで話が止まってしまう気もする。むしろ、社会レベルへの波及効果のほうが、じつは意味があるのかもしれない。
 
那須: 熟議についてはしばらく否定的なことしか書いてこなかったサンスティーンが、『賢い組織はみんなで決める』(NTT出版、2016年)では久しぶりに前向きなことを書いています。ただ、大文字の政治の過程で熟議をどうするかといった話ではなくて、簡単にいうと職場で話し合う、プロジェクトを成功に導くためにどれだけ知恵を出しあえるかという話なんですね。
 
田村: ちょっとビジネス本に近い(笑)。
 
那須: これがいまサンスティーンの考える熟議のイメージなんでしょうか。田村さんのいう、制度化された大文字のポリティクスとはちがう場所でもちゃんと熟議しましょうよ、という話に重なるようにもみえるけど、肌合いはちがう。
 
田村: うーん、そうですねえ。
 
那須: 田村さんからは、これまでのサンスティーンの熟議論はどうみえていますか。
 
田村: サンスティーンの集団分極化の話は、熟議民主主義を否定するための話ではなくて、熟議を考えるときの注意事項というか、「こういうふうになる可能性もあるから、それを念頭において考えようね」みたいな、そういうものだと思っています。ありうる陥穽に注意を促して、それへの対応を考えたほうがいいと言っている、と言いますか。
 
それから、マイクロレベルというか、人びとの相互作用で人が影響を受けて変わっていくことを、サンスティーンは基本的にはよいことと捉えていると思います。断言はできませんが、そのようにして人が変わっていくことをよしとする部分は、一貫しているような気もします。どうしてそう思っているかはわかりませんが。
 
那須: ただ、サンスティーンの関心は、ある目的を前提に、その実現手段の選択をまちがわないためにはどうしたらいいか、というところにある。たとえば、会議でもいわゆる悪魔の代弁者役をつくってどんどん反対意見を出させる、とか、目標達成の技術的な話中心ですね。
 
一方、田村さんは、議題そのものがオープンになってる議論、というイメージで考えておられる。インフォーマルな場での話し合いは、話題も進め方もコントロールできないところに特色があると思うんです。サンスティーンはかなりお行儀がいい人たちの議論を考えていて、お行儀のいい人たちが習慣とかバイアスにひきずられてまずい結論にいっちゃうのをどうやって避けたらいいかという話をしている。そのへんで真理発見型のイメージが強いのかな、と。やっぱり田村さんとちがうかなー、っていう気もしてます。
 
田村: そうですね。そうだとすると、その部分は僕とはちがうかもしれませんね。僕の考えている熟議は、目的自体も問い直されるようなイメージですから。
 
■サンスティーンの手のひら返し?
 
那須: 集団分極化についての議論に違和感はないですか? 仲間内の議論が極端な方向にふれていくことを、サンスティーンは非常に悪く捉えますよね。
 
田村: 集団分極化の話は、僕のなかでは、センセーショナルな例、わかりやすい事例として出しているだけで、あんまり熟議が悪く言われている気はしていないんです(笑)。
 
那須: なるほど。たしかにサンスティーンはもう一方で、少数者の内輪の議論はエンパワメントにつながるんだという議論もしているので、100%否定していないですよ、と。サンスティーンはすぐ手のひらを返して逆のことを言うから。ぼく自身は、サンスティーンは内輪の議論についてかなり悲観的なんじゃないかなって感じてて。
 
田村: ケースによるのでしょうね。僕が研究している熟議システム論の立場から見ると、集団分極化がいいか悪いかは、どこかのグループだけで極化しているからいいとか悪いという話ではなくて、マクロで見たときに個々の集団分極化がどのような役割を果たしているかを見ないとわからない、と考えます。ある場だけみると右や左に極端化してしまっていても、そういうところから表出されてきた意見を他の多くの人びとや政治アクターが受け止めて、これまでの発送や実践を反省的に見直していくことになるのだとすれば、個別的な分極化も熟議のためのきっかけを作っていると言える、と。
 
那須: たとえば廃刊した『新潮45』の問題記事も、そこだけみればとんでもない話だけれども、あれによって何が起こっているかが大事だ、と。
 
田村: はい。「そもそも出版とはどういうことか」といった議論が暴力的ではないかたちで誘発されたならば、それ自体は悪いことではない。もちろん、どこまでだったらいいのかという話にはなりますが。
 
サンスティーンも似たようなことも言ってます。孤立集団についての議論も、少数派の人びとが自分のところで議論することによってエンパワメントされると、そこから出てくる主張がより広い場での議論に貢献することもある、といった指摘もあります。
 
那須: フェミニズムや人種理論はそうですね。新しい議題そのものを作ってきた。
 
田村: はい。熟議システム論的な枠組みでみると、そもそも集団分極化自体をいいとか悪いとか言っていても仕方がないのでは、という話になります。でも、これはもしかしたら問題のすり替えと受け止められるかもしれません(笑)。
 
■水と油を結びつける?
 
那須: 熟議へのナッジや熟議のなかのナッジについて、サンスティーンの道具を使いながらもっと先までいこうとしたら、どのへんに面白みがありそうですか。
 
田村: 『熟議民主主義の困難』の中のナッジの話をオーストラリア国立大で報告したとき、ジョン・ドライゼクからは「ナッジはいかがなものか」といわれました。
 
那須: イデオロギー的に逆かもしれないですね。
 
田村: まさに。
 
那須: サンスティーンは非常に官僚的で、民主党だけどその右端にいるように、ドライゼクからは見えちゃうんじゃないですか。
 
田村: たしかに、ナッジと熟議は対極の発想にみえます。ナッジでは話し合いもしないですしね。そういう意味で水と油みたいなものを結びつけるのはどうなのか、と言われたのだと理解しています。ちなみに、ピーター・ジョンやジェリー・ストーカーたちが、2011年に『ナッジ、ナッジ、シンク、シンク』という本で、ナッジと熟議(think)について論じています。
 
ただ、彼らの提案は、使い分けです。政策課題によってナッジで取り組んだ方がいい政策課題と、話し合いで取り組んだ方がいい政策課題があるから区別して使い分けていきましょう、と。たしかに、この提案は実務的には役立つとは思います。
 
でも、水と油を分けてしまったままで、組み合わせようとしないのが、面白くないなぁと感じます。これに対して、熟議民主主義論とナッジを結びつけることは、たしかにネガティブな反応があるかもしれないけど、よりチャレンジングなアイディアだと思います。ナッジやリバタリアン・パターナリズムを熟議とポジティブに結びつけている研究は、たぶんほとんどないんじゃないかと思いますので。
 
那須: 熟議や民主政は大事だ、という話を精神論で終わらせないためには、説得かナッジかくらいしかないでしょう。ただ、説得は論点先取になりかねないですよね。熟議の大事さがわかるのは熟議に参加して市民的美徳が涵養されたあとのことだから。市民的な美徳が生得的でないと考えるのであれば、人は最初、どんなふうに政治への関心を獲得するんだろう、というところから考えざるをえない。
 
田村: そうですね。市民的美徳や公共心と無関係な人が政治に参加する可能性のことを考えると、たぶんナッジやリバタリアン・パターナリズムがひとつの手がかりになります。
 
■「参加と熟議」を二者択一にせず、どっちもとる
 
那須: 意地悪い言い方かもしれませんが、公民的な美徳が大事と思っている人は、それがない人は政治に入ってこないでほしいと思ってないですか、実は「参加」には否定的なんじゃないですか、という批判もできると思うんですね。でも、田村さんは、「参加と熟議、どっちも」というタイプなので。
 
田村: そうですね。なぜそうなのかと言われると困るんですが、そうなのです。
 
那須: 「参加も熟議も」という議論がこういうところから開かれれば、非常に面白いものになると思う。
 
田村: まさに、ナッジはうまく考えれば、チェンバースの言う大衆民主主義の放棄ではなくて、大衆民主主義としての熟議民主主義を考えるきっかけになるかなと思います。
 
「大衆」ということで言えば、実際のミニ・パブリックスの経験的な研究の結果として、集まったさまざまな人々が実際に熟議できているということを示すデータが集まると、「大衆民主主義としての熟議民主主義」の支えにはなるかなと思うんですけどね。それが直接「熟議のためのナッジ」の理由になるというわけではないのですが。
 
那須: 実証研究の方々は、ものさしをつくるところまで手が回らない。理論とのあいだで協力関係があったほうがいいでしょうね。
 
田村: そうですね。用語も関心も違うところがあって、大変な面もありますけれど(笑)。早稲田大学のプロジェクトで、田中愛治先生などが中心となった『熟議の効用、熟慮の効果』(2018年、勁草書房)のようなミニ・パブリックスの研究もありました。
 
那須: そのへんがこれからというところで。ここから先はお楽しみ、ぜひ田村さんに展開していただきたいです。ありがとうございました。
 
[2018年9月27日、名古屋大学にて]
【対話の〆に by 那須耕介】田村さんとはこれまでも何度かご一緒したことがあったのですが、直接ゆっくりお話できたのは初めてでした。やや話がデモクラシー論に傾いてしまいがちだったですね。熟議民主主義とは折り合いの悪そうなナッジをなんとかポジティヴに取り込んでいこうとする、田村さんのフットワークのよさが興味深かったです。この種の軽快な挑戦が、ナッジ論をもっと広い規範的枠組みに開いていくきっかけを作るんじゃないでしょうか。
 
――次回は最終回! 成原慧さんのご登場です。お楽しみにお待ちください。
 

《バックナンバー》
第1回:連載をはじめるにあたって《那須耕介》
第2回:なぜいま、民主制の再設計に向かうのか《大屋雄裕さんとの対話》
第3回:ぼくらは100点満点を目指さなくてもいい?《若松良樹さんとの対話》
第4回:80年代パターナリズム論の光と影のなかで《瀬戸山晃一さんとの対話》
第5回:熟議でのナッジ? 熟議へのナッジ?《田村哲樹さんとの対話》
第6回:サンスティーンという固有名を超える!《成原慧さんとの対話》
番外編1:「小さなおせっかい」の楽園と活動的生(前編)《『ナッジ!?』刊行記念編者対談》
番外編2:「小さなおせっかい」の楽園と活動的生(後編)《『ナッジ!?』刊行記念編者対談》

めんどうな自由、お仕着せの幸福

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サンスティーンとセイラーが広めた「ナッジ」という考え方、そのベースにあるリバタリアン・パターナリズムという理論。この視点を中心に、自由や幸福、社会制度、私たちの生活をめぐって、京都大学教授の那須耕介さんが「いま、ちゃんと話を聞くべき人びと」に会いに行ってきました。