掌の美術論
第10回 クールベの絵に触れる――グリーンバーグとフリードの手を媒介して
大学の夏休み期間を利用したフランスでの在外研究から帰国した後、職場のポストを見ると、同僚の加治屋健司さんからご献本いただいた『絵画の解放――カラーフィールド絵画と20世紀アメリカ文化』が投函されていた。この本についてはまた別の機会に別の媒体で書評を記す予定である。
あとがきたちよみ
『ファッションロー 第2版』
「第2版はしがき」を公開しました。
あとがきたちよみ
『教育政策をめぐるエビデンス――学力格差・学級規模・教師多忙とデータサイエンス』
「まえがき」を公開しました。
コヨーテ歩き撮り#190
これもミシシッピ川の姿。川と湖沼が複雑にとなりあうのは、われわれの感覚からすると下流の光景だが、ここはまだまだ上流。アイオワ州とウィスコンシン州の境界。
あとがきたちよみ
『民法 第11版』
「第一一版改訂にあたって」を公開しました。
あとがきたちよみ
『知識コモンズとは何か――パブリックドメインからコミュニティ・ガバナンスへ』
「はしがき」を公開しました。
コヨーテ歩き撮り#189
この巨大な彫刻を見るとみんなが笑う。笑うときには、さくらんぼの甘みとスプーンの感触を思い出している。ミネアポリス。 On seeing this huge work of art, everybody bursts out laughing. And when they laugh, the sweetness of cherry and the feel of spoon are already in their mouth. In Minneapolis.
掌の美術論
第9回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(後編)
この連載では数回にわたり、美術史家における「触覚」をめぐる著述を紹介している。前回の記事から取り組んでいるのが次のような問いだ。すなわち、芸術理論が作品分析という実践に移されたときに、どのように特定の概念はオリジナルの意味からずらされていくのだろうか。具体例として扱っているのは、ジル・ドゥルーズの『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』(1981年)である。
あとがきたちよみ
『データセキュリティ法の迷走――情報漏洩はなぜなくならないのか?』
「第1章 序論――予告された侵害の記録」「解説」を公開しました。
【寄稿◎遠藤比呂通】
金顕球先生にティリッヒを学ぶ――『人権という幻』と『国家とは何か、或いは人間について』のあとがきから
「執拗低音(basso ostinato)」というのは、丸山眞男が日本の思想について使った表現で、もともとは音楽用語です。丸山は、日本の思想の固有性は、ある思想(たとえば「キリシタンの教え」=主旋律)を「輸入」する際に生じる独特な変化(たとえば「ドチリイナ・キシリシタン」では「神に背く自由を通じて神の愛に至る」ディアレクティークが理解されていない=執拗低音)をみることで明らかになると考えました……
コヨーテ歩き撮り#188
アメリカはローマ帝国だなと思った。元は鉄道用だったこのアーチの橋、いまは歩行者専用。ミネアポリスにて。 The U.S. or the Roman Empire? The Stone Arch Bridge in Minneapolis, originally built for railroad in 1883, is now only for pedestrians.
あとがきたちよみ
『納税者の権利――理論・実務・モデル』
「日本語版への序文」「序文」「はしがき」「訳者あとがき」を公開しました。