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新着記事2024-04-16T22:14:11+09:00

掌の美術論
第10回 クールベの絵に触れる――グリーンバーグとフリードの手を媒介して

大学の夏休み期間を利用したフランスでの在外研究から帰国した後、職場のポストを見ると、同僚の加治屋健司さんからご献本いただいた『絵画の解放――カラーフィールド絵画と20世紀アメリカ文化』が投函されていた。この本についてはまた別の機会に別の媒体で書評を記す予定である。

By |2023/11/27|連載・読み物, 掌の美術論|

コヨーテ歩き撮り#189

この巨大な彫刻を見るとみんなが笑う。笑うときには、さくらんぼの甘みとスプーンの感触を思い出している。ミネアポリス。 On seeing this huge work of art, everybody bursts out laughing. And when they laugh, the sweetness of cherry and the feel of spoon are already in their mouth. In Minneapolis.

By |2023/11/6|連載・読み物, コヨーテ歩き撮り|

掌の美術論
第9回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(後編)

この連載では数回にわたり、美術史家における「触覚」をめぐる著述を紹介している。前回の記事から取り組んでいるのが次のような問いだ。すなわち、芸術理論が作品分析という実践に移されたときに、どのように特定の概念はオリジナルの意味からずらされていくのだろうか。具体例として扱っているのは、ジル・ドゥルーズの『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』(1981年)である。

By |2023/10/26|連載・読み物, 掌の美術論|

【寄稿◎遠藤比呂通】
金顕球先生にティリッヒを学ぶ――『人権という幻』と『国家とは何か、或いは人間について』のあとがきから

 「執拗低音(basso ostinato)」というのは、丸山眞男が日本の思想について使った表現で、もともとは音楽用語です。丸山は、日本の思想の固有性は、ある思想(たとえば「キリシタンの教え」=主旋律)を「輸入」する際に生じる独特な変化(たとえば「ドチリイナ・キシリシタン」では「神に背く自由を通じて神の愛に至る」ディアレクティークが理解されていない=執拗低音)をみることで明らかになると考えました……

By |2023/10/18|本たちの周辺|
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