『掌の美術論――触覚と想像力に』、2026年7月2日発売です。みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
死を内蔵する遊戯場
前回の記事の冒頭で取り上げた、イサム・ノグチの宇宙のようなヴィジョンについて、松木はその研究書で重要な指摘を行なっている。ノグチは1940年代に、空から見た風景を浮き彫り彫刻にした「大地のレリーフ」シリーズを制作している。それは「爆撃された大地や傷ついた肉体」と関連づけられるような「空爆の風景」であった、と松木は言う。例えば1943年の浮き彫り作品《私のアリゾナ》には、アリゾナの砂漠にあった、自らを閉じ込めていた収容所の記憶と、日本軍の攻撃で真珠湾に沈んだ戦艦アリゾナに象徴される日米開戦の歴史という、二つの過去が重ね合わせられているというのだ*1。だが戦中に現れた死と結びつくこのイメージはやがて、詩的なデザインへと昇華されることになる。ここからノグチによるプレイ・グラウンドの構想までの道のりは、そう遠くない。すなわち、彼の宇宙的ヴィジョンのうちに立ち現れるユートピアは、実は死が存在しない場なのではなく、すでに生けるものが死滅した世界から出発するようなゼロ地点の遊戯場だったのだ。この遊戯場の根底にあるのは、誰も生きたことのない宇宙ではなく、かつて人間が生きていた大地の墓だったのである。
墓の上で遊ぶということは、死者とともに生きるということだ。芸術という遊戯の中に立ち現れてくる聖なるものの亡霊に注目したフランスの美術史家ディディ=ユベルマンは、そのボルタンスキー論の中で、死者とともに生きるのに二つのあり方があると述べる。一つは「精神の病へと沈むこと、喪の悲しみ、無為のなかで立ちすくみ、身動きできなくなること」。もう一つは「遊び、動き、自身にとりつくものとダンスし、作業をすること*2」。その上でディディ=ユベルマンは、手元の道具を用いてナチスの収容所を想起する作品を制作するボルタンスキーを、後者の芸術家であるとした。ボルタンスキーはあえて「貧乏くさい」素材を好み、アトリエの壁に絆創膏で十字架を作って宗教儀礼を演出する子供のような大人である*3。彼は死のように「重々しいもの」すら、「子供にもっともふさわしい、もっとも素朴な(つまりもっとも生来的な)状況へと置き直す*4」。このようにしてディディ=ユベルマンは、ボルタンスキーの作品を、ボードレールが「玩具のモラル」で語った「貧しき者の玩具」に喩える。
巨大な大地の墓を遊戯場に変えてしまうノグチもまた同様だ。あるいは、「貧しき者の玩具」を人々に提供し続ける中で、《ゲルニカ》という歴史的悲劇を題材にした絵においてすら、あえて見る者の(没入ではなく)参与を求めるような仮説舞台を築こうとしたピカソにも、どこか類似するところがある(前回の記事)。ボルタンスキーとノグチ、そしてピカソ、三人の作風こそまったく違えど、その振る舞いは似ている。
つづきは、単行本『掌の美術論』でごらんください。
身体を通して、世界に触れ、世界と戯れ、世界を模倣し、そして世界とずれていく。そのずれの中にこそ、芸術の可能性は宿っている。
2026年7月2日発売
松井裕美 著『掌の美術論――触覚と想像力に』
四六判上製・352頁 本体価格4000円(税込4400円)
ISBN:978-4-326-85207-9 →[書誌情報]
【内容紹介】遊びが手触りや感覚を頼りに新たなゲームや楽しさを創造し、ときに新しい認識や価値を開いていくように、触覚を軸にした鑑賞の方法を提示する。触覚に関わる美術史を整理したうえでフェミニズムや歴史・記憶と芸術作品の関係など、現代的な問題意識を織り込んだ作品解説を通し、触覚と想像力が拓く遊戯場としての美術史を紡ぎだす。
》》》バックナンバー ⇒《一覧》
第1回 緒言
第2回 自己言及的な手
第3回 自由な手
第4回 機械的な手と建設者の手
第5回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(前編)
第6回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(後編)
第7回 リーグルの美術論における対象との距離と触覚的平面
第8回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(前編)
第9回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(後編)
第10回 クールベの絵に触れる――グリーンバーグとフリードの手を媒介して
第11回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(前編)
第12回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(後編)
第13回 握れなかった手
第14回 嘘から懐疑へ――絵画術と化粧術のあわい
第15回 キュビスムの楽器の奏でかた、キュビスムの葡萄の味わいかた
第16回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(前編)

