規範

《ジェンダー対話シリーズ》第12回
「ケアの倫理」は「ケアする私」を救うのか?――対談後記

前回の対談を受け、今回はお二人による対談後記をお届けします。ケアの現実から目をそらさず、その「しんどさ」を解くために私たちが向きあうべき課題とは? 対談では語りきれなかった論点について、存分に展開していただきました。[編集部]

《ジェンダー対話シリーズ》第11回
「ケアの倫理」は「ケアする私」を救うのか?(後編)
――『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』トークイベント

昨年6月刊行以来ご好評いただいている『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』。刊行から1年を記念し、2026年1月28日夜に紀伊國屋アカデミック・ラウンジで行われた同書著者2人によるトークイベントを採録します。ケアをめぐる語りがあふれる一方で、ケアの現実はなぜこんなにも理解されないのか。どうしたらケアすることはもう少し楽になるのか。ケアをめぐる議論で盛んな「ケアの倫理」を参照しつつ、ケアを倫理と結び付けて論じることの危険性といまケアについて問われるべき論点について突っ込んだ議論を展開します。机上のケア論議でなく、現実にケアに翻弄され苦しい状況にある人々に研究者は何ができるのか。ケア研究の先頭を走るお二人による刺激的な対談後編です。ぜひご堪能ください。[編集部]

《ジェンダー対話シリーズ》第10回
「ケアの倫理」は「ケアする私」を救うのか?(前編)
――『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』トークイベント

昨年6月刊行以来ご好評いただいている『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』。刊行から1年を記念し、2026年1月28日夜に紀伊國屋アカデミック・ラウンジで行われた同書著者2人によるトークイベントを採録します。ケアをめぐる語りがあふれる一方で、ケアの現実はなぜこんなにも理解されないのか。どうしたらケアすることはもう少し楽になるのか。ケアをめぐる議論で盛んな「ケアの倫理」を参照しつつ、ケアを倫理と結び付けて論じることの危険性といまケアについて問われるべき論点について突っ込んだ議論を展開します。机上のケア論議でなく、現実にケアに翻弄され苦しい状況にある人々に研究者は何ができるのか。ケア研究の先頭を走るお二人による刺激的な対談の様子を前後編でお送りします。ぜひご堪能ください。[編集部]

ジャーナリズムの道徳的ジレンマ
〈CASE 26〉内部告発者の悲劇とジャーナリストの称賛

自分が所属する組織の不正を知ってしまったとき、わたしたちはどういう行動をとろうとするでしょうか。もし「内部告発」するとしたら、どこに? どのように? そしてジレンマを抱えた告発者にジャーナリストはどう対峙し、何を考えるべきでしょうか?[編集部]

憲法学の散歩道
第42回 二つの根本規範──ケルゼンとフッサール

 エトムント・フッサールは現象学の祖である。彼は判断停止(epoché)による現象学的還元という手段を用いて意識の構造を分析した。  人の意識には志向性(Intentionalität)がある。庭の梅の木を見る、ショスタコヴィチの交響曲第5番を聴く、軽やかなピノ・ノワールを味わう、フッサールはフライブルク大学の教授だったと考える。対象を見たり、感じたり、考えたりする。そのとき人は意識している。  意識の内容は「梅の木」、「第5番」、「ピノ・ノワール」「フッサール」であり、そうした意味(Sinn)を持つ。人は意味を通じて対象を意識する。フッサールは、意識の内容をノエマ(noema)と呼んだ(複数形はnoemata)。人はノエマを通じて対象を意識する。……

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