《ジェンダー対話シリーズ》第10回
「ケアの倫理」は「ケアする私」を救うのか?(前編)
――『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』トークイベント

「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。
Published On: 2026/7/17By
昨年6月刊行以来ご好評いただいている『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』。刊行から1年を記念し、2026年1月28日夜に紀伊國屋アカデミック・ラウンジで行われた同書著者2人によるトークイベントを採録します。ケアをめぐる語りがあふれる一方で、ケアの現実はなぜこんなにも理解されないのか。どうしたらケアすることはもう少し楽になるのか。ケアをめぐる議論で盛んな「ケアの倫理」を参照しつつ、ケアを倫理と結び付けて論じることの危険性といまケアについて問われるべき論点について突っ込んだ議論を展開します。机上のケア論議でなく、現実にケアに翻弄され苦しい状況にある人々に研究者は何ができるのか。ケア研究の先頭を走るお二人による刺激的な対談の様子を前後編でお送りします。ぜひご堪能ください。[編集部]

 
【前編目次】
私たちが「しんどさ」にこだわる理由
「ケアの倫理」とはなにか
「ケアの倫理」への疑問・1――なにが「良い」ケアかなんて誰にもわからない
「ケアの倫理」への疑問・2――性別分業に都合が良すぎませんか?
「ケアの倫理」への疑問・3――「相互依存」ってなんですか?
「道徳的にすばらしいことをやってるよね」と言われれば、ケアする人は救われるのか?
 
 
山根 山根です。よろしくお願いします。
 
平山 平山です。今日はお越しくださいまして、どうもありがとうございます。よろしくお願いします。
 
山根 きっとね、お腹が減る時間だと思いますが、楽しんでいただければと思います。60分話させていただくということで、一応スライドもあるんですけど、どこで区切るかは特に2人とも決めてなくて、ちょっとその場その場に合わせてという形でやりたいと思います。

私たちが「しんどさ」にこだわる理由


 
山根 この本、『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』というタイトルは平山さんがつけてくださったんですけど、「しんどい」っていう言葉がぴったりだなって出してからすごく思いました。 今日は、「ケアの倫理」がテーマになっているんですけど、私たちが一番話したいことは、「ケアしている私」、この本の中に出てくるようなケアする私の大変さって何によって救われるんだろうかということについて考えようと思っています。「ケアの倫理」という言葉を初めて聞いたという方ももちろんいらっしゃると思いますので、最初にちょっとケアの倫理を紹介した上で、「しんどい」の議論は「ケアの倫理」をめぐる議論と何が違うのかを明確にしたいというのが今日の企画です。
「ケアの倫理」の内容は、岡野八代先生が『ケアの倫理』で紹介されています。もともと「ケアの倫理」を提唱したキャロル・ギリガンは昨年(2025年)京都賞を受賞してます。ギリガンの本In a Different Voiceが出たのは1982年(邦訳『もうひとつの声』;増補版『もうひとつの声で』)ですので、非常に長い間人々を魅了していて、本も売れ、賞ももらい、ケアについてはもう「ケアの倫理」なしには語れないっていう世の中になっていますが、私たちが本で書いたことが要するに「ケアの倫理」の話でしょ、と言われたら、そうではない。このことをお話ししたいということです。
 私は、実は修士論文を本(『産む産まないは女の権利か』)にしたときに、ギリガンの「ケアの倫理」を思いっきり参照しています。中絶の自由がリベラリズムの個人の権利として論じられ、それに対し胎児の生命権を対立させる議論が展開されてきました。このような議論で不可視化されてきた妊娠や中絶をめぐって女性たちが背負わされている責任を議論するために、「ケアの倫理」を参照しています。しかしその後、私は転向するんです。「ケアの倫理」ではうまくいかない、と。それは何なのかというと、『ケアする私の「しんどい」は~』に所収した原発事故による避難のことや、20年以上ずっとかかわっている介護保険制度の下でのケア労働、特にホームヘルパーさんの労働など、実際にケアをしている人たちが抱えている過剰ともいえる責任や葛藤を見ていく中で、「ケアの倫理」への違和感が増幅してきました。
 

「ケアの倫理」とはなにか


 
山根 ケアの倫理の議論をざっくり最初にお話ししたいと思います。ギリガンは、師匠であるコールバーグの道徳発達段階論(正義の倫理)が男性中心的な理論であることに異を唱えて「ケアの倫理」を提唱します。個人の権利を基礎にした男の子の発達がモデルになっていて、成長するにつれて、自分の権利と他者の権利の衝突を調停するような抽象的な思考や普遍化可能な命題を発見できるようになるという道徳的モデルでは、女の子たちの発達は、男の子のように順調にいかない。それはなぜかというと、具体的な他者との関係性だとか責任だとかっていうことをいろいろ考えている。それは従来の道徳発達理論で見ると、ぐちゃぐちゃ思考がまとまらないっていう風に思われてきたけど、でも実際にはその関係性とか責任を重視するというもうひとつの倫理にもとづいて、物事を組み立てて考えているんだと。これが最初にギリガンが「ケアの倫理」を出した時のお話です。
 ここでギリガンの『もうひとつの声』は、育児や介護をしている人たちの調査をもとに論じているのではない、ということは一つのポイントだと思います。他者の声を聞きなさい、と言われながら育つ女の子の従属的位置やそこでの視点を明らかにした点では、この議論には意義があると思います。少女たちが考慮せざるをえない他者の声とは、親であったり、妊娠に責任をとらない恋人であったり、基本的に強者との関係です。そうした権力関係のなかで女性がどのように生き延びようとしているのか、ギリガンのテクストから読み取れることは多々あります。
 それが次第に「ケアの倫理」をめぐる議論は、子育てをはじめとしたケア労働をしている人の倫理っていう方向に発展していくわけですね。つまり、ケアする他者は「子ども」に変わっていきます。たとえば母と子の関係って非常に相互依存的関係で、相手のことを考えたり、責任を引き受けたり、うまくできないって言って悩んだり、母が一生懸命やっていることって、そのこと自体にものすごく合理性があるんだと、母の思考っていうのに合理性を与えていくような議論があります。子育てにはいわゆるケアを必要としない、独立した個人をよしとするような道徳とは違う道徳があるんだよと。
 岡野さんの『フェミニズムの政治学』によれば「ケアする者たちはケアする他者を気遣い、他者の必要だけでなく自らの必要と欲望にも心を配り、他者と自らの異なり、とりわけその能力や力の違いを受けとめながら、かつ暴力的でない応答の在り方とはどのようなものなのかを、日々模索し・思考し・実践している」(『フェミニズムの政治学』225ページ)。
 ある意味胸を打つものではあるんですけど、ケアの経験ってそういうものなのか、というのが一つあります。近代社会のなかで家族に付与された道徳的責任を実体化してそこに価値を付与していいのかと。女性たちがケア責任と感じているものが、いかに政策や文化的規範によってつくられてきたのか、女性たちが罪悪感を植え付けられてきたのか、ということを、フェミニズムはもっと(今でも)強調しなければならないはずです。
 もう一つは、J.トロントの『ケアリング・デモクラシー』っていう議論がありますけれども、ケアって誰もがやってること、できるだけ世界を良くするために、世界を修復する活動として誰もがやっているものと定義して、ケアによって社会を良くしていこうと、ある意味薄められて拡大されたケアの議論っていうのがあるわけです。ここでいう「ケア」は配慮や耳を傾けるということであり、直接他者に対しておこなわれる「ケア労働」ではありません。
 いずれにせよギリガンから影響を受けたケアの倫理の理論家たちは、他の公的領域の活動や関係性とは違う相互依存的な関係性がある、西洋哲学はまさにそれを忘却して「自立」した個人を前提に発展してきた。私的領域に押し込められ忘却されてきたケアを、公的な道徳や政治に拡大していくべきだ、という公私二元論への批判をしてきました。
 確かに私的領域の子育てや介護といったケア労働の実践は不可視化されてきました。しかし依存や脆弱な他者をケアする実践には、道徳的な意味があるという議論には注意が必要です。近代社会で私たちがやっているケアは人類普遍なものではありません。近代社会の「ケア責任」には、「良い母」として「良い市民・国民」、として社会的に付与された責任も含まれています。それらの社会的責任のなかで相手が何を求めているのか察知したり、どうやったらうまくいくのか思案したり、「察知・思案」しています。ケアに道徳性を見出すのでははなく「解放させるべき道徳的責任」があるはず、というのが私たちのスタンスです。一方でこうした社会規範のなかでおこなわれる「察知・思案」は家族だけでなく介護施設で働くケアワーカーや保育士さんもやってることだということを論じました。以上の話はじゃあ、「ケアの倫理」大事ですねという話とどこが違うのかっていうことを、今日は2人で話したいと思っています。
 
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「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。
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