【目次(後編)】
「思いやり」「弱者の声を聴く態度」では社会は変わらない
「ケア責任を負うこと=ケアし続けなければいけないこと」を再検討する
必要なのは、ケアすることのハードルを下げることである
「ケアの倫理」で「ケアしない男」は変えられるのか?
「性役割の社会化」論としての「ケアの倫理」が行きつく先
ケアで新自由主義を乗り越えられるのか・変えられるのか
(目次・前編)→【前編はこちらから】
私たちが「しんどさ」にこだわる理由
「ケアの倫理」とはなにか
「ケアの倫理」への疑問・1――なにが「良い」ケアかなんて誰にもわからない
「ケアの倫理」への疑問・2――性別分業に都合が良すぎませんか?
「ケアの倫理」への疑問・3――「相互依存」ってなんですか?
「道徳的にすばらしいことをやってるよね」と言われれば、ケアする人は救われるのか?
平山 ちょっと違う話になっちゃうかもしれないんですけど、いいですか。
最近翻訳が出た『人間の声で――ジェンダー二元論を超えるケアの倫理』っていう本でギリガンが明確に書いてるんだけど、ケアの倫理は家父長制や性別二元制を乗り越えるものなんだと。でも本当にそんなふうに考えていいんだろうか。他者のニーズが満たされるように配慮し、誰も傷つかないようにっていう道徳的要請にみんなが従う社会になれば、たとえばジェンダーやセクシュアリティの不平等はなくなっていくんでしょうか。
さまざまな不平等って、人々のあいだに配慮や気遣いが足りてないから続いてるわけじゃないですよね。逆に、「マジョリティのニーズが満たされるように」と人々が気遣っているから、あるいは、「マジョリティをケアしなきゃ」という道徳観にみんなが従っているから、その人たちが相対的に生きやすいわけでもない。個々人がそのニーズにいちいち配慮してくれているか、傷つけられないように気遣ってもらえるかなんて関係ないくらい、マジョリティを前提とした社会制度がしっかりできているからこそ、その人たちが相対的に生きやすくなっているわけです。現在構造的に劣位にある人の状況を変えるのに必要なのが、「傷つかないように」っていう道徳的要請に従って行われる人々の配慮や気遣いなんだとしたら、それってこの社会で何をできるか・何を認められるかは、マジョリティ様のお心ひとつっていう、これまで通りのマイノリティの脆弱な立場と何が違うの、って思う。
たとえば、マイノリティが不利益を被らないための合理的配慮だって、あれ、本当は配慮じゃないですよね。合理的配慮の原語はリーズナブル・アコモデーション(reasonable accommodation)。アコモデーションだから調整とか対応って意味であって、配慮って言葉からイメージされるような「心配り」の問題じゃないんです。繰り返しになりますが、誰かの配慮に頼らないと生きられない人々、とりわけ相対的に優位にある者からの配慮にすがってしか生きられない人々がいるのなら、それは支配関係そのものですよ。個人による配慮や気遣いによって生きやすくしてもらうんじゃなくて、たとえ誰かの配慮や気遣いがうまいこと得られなくても大丈夫なくらい、調整と対応を制度化しておかないといけないんです。
そういう制度がちゃんと支持されるように、人々が配慮や気遣いをきちんとできるように促さないといけないのでは、って反論もあるかもしれないですが、それって配慮や気遣いにもとづく賛意が得られて初めて制度をつくれるってことになるわけで、「国民の理解が得られない」って言って、あの制度もこの制度も先送りにするロジックと何が違うんだろうって思います。山根さんはケアの倫理が差別や不平等を変えていく可能性については、どう思われますか?
山根 今のアコモデーションの話もそうなんですけど、合理的配慮の場合、まずマイノリティ側が私こんな風にしてほしいですって言わなきゃいけないわけですね。それって結局、広い意味での知識――「私が今、こういうふうに動くためには、こういう条件が必要です」っていう知識なんですね。その知識って一体どこから生み出されるかっていうと、それは本人が語るしかないっていうのが合理的配慮なわけですけど。
ケアする人もされる人もかわいそうな脆弱な状況だから、その「脆弱な相互依存状態にあるケアしてる人たちに耳を傾けよう」っていうのがケアの倫理なんですよ。「耳を傾けよう」じゃなくて、どうやったらその人たちが語れるようになるかを考えてほしい。配慮で物事は良くならない、では何が必要かって言ったら知識です。それは科学的な知識じゃなくて、今この人が生きていくためにはどういうものが必要なのかとか、なんでこんな風に大変になっちゃってるんだとか。原発事故が起きたときになぜケアする人が避難しなきゃって思うのか、また避難した先でもどんなふうに追い詰められてしまうのかとか、そういう知識を生み出すことが、むしろ社会をより良くするために必要不可欠なんです。一生懸命、相手のことを思い巡らしたって何かが変わるわけじゃない。「脆弱な立場に置かれている人たちに耳を傾ける」んじゃなくて、その人たちが語れるような仕組み、そのための規範を作らなきゃいけないんだと思うんです。
規範って強い言葉ですけど、「嫌だって言っていい」「自分はこうしたい」「夜中にバナナ食べたい」って言っていいんだっていう、そういう規範を障害者運動は作り出してきたわけです。私がこの本でずっと言いたかったのは、「こんなしんどいんだ」と言っていいんだよと。で、これ私やらされてるけど、できれば減らしたい。こんないろいろ考えさせられるのごめんだ。できればスリムに行きたいと。葛藤して悩んで、それを乗り越えたからいい人間になれるっていう、そんな「ケアの倫理」じゃなくて、できるだけ葛藤なしに、自分が口笛吹いてても子供が育つような社会がいいわけですよ。だけどいろんな社会の要求の中で子育てをしたり、資源がない中で介護したりっていう状況だからこそケアが難しくなって葛藤しちゃってるわけなので。
何を作り出さなきゃいけないかというと、「倫理」じゃなくて、なんでこの人こんな大変になってるのっていう「知識」を生み出していかなきゃいけない。そのためには「大変すぎるのに賃金見合っていない」「労働基準法に合致していない」とか「これ冗談じゃないよね」って言える規範を作らなきゃいけないんじゃないかと思います。
平山 確認ですけど、ケアの関係から抜け出たいと思うのは、ケアする側もされる側もどちらもありえますよね。そこから抜け出ようと思って抜け出られるかどうかは、する側よりもされる側のほうが圧倒的に難しくて、する側とされる側のそういう非対称性をケア関係の特徴だと私たちは考えてきたと思うんですが。
山根 それは家族で考えたときもそうですし、トロントなんかは「ケアはどこでも行われている」って言ってますけど、家族外でもそうですよね。
ちょっと今の話とずれますけど、 たとえば最近ですね、ケアマネさんに調査すると、介護サービス従事者がいなくなって、ケアマネさん自身が休日にも電話出たり、利用者さんの様子を見に行ってるんですよ。それは全然介護報酬にもならないけど、相手は独居で困ってるからケアマネさんがせざるを得ない。これケアの倫理ですかっていう話なんですけど、別にケアマネさん好きでやってるわけじゃないというか、制度が作り出している責任だったり、行動だったりするわけで。
なので、どうしてこういうふうに大変になっているのかっていうことを言葉にして、知識にしていくこと、明らかにすることの方が社会を変えるには近道です。労働市場でケアをしている人たちに、「ケア」とは弱者と弱者の相互依存である、と伝えたら何ていうでしょうか? もちろん、ずっとケアしてきた方が亡くなれば、それはやっぱり悲しいことですし、傷つくこともあると思いますけれども、その部分だけを切り取って「ケア労働」と言ってはいけない。たとえば相手のニーズに気づいても、シフトどおり17時には帰りたいんですよね。ケア労働で食べていける賃金がほしいんです。トロントはこうした葛藤までもが道徳的問題(moral boudaries,159ページ)ととらえていますが、これは制度的問題です。シフト通り帰ったらこの人のニーズが満たされない、無償労働しないとこの人困っちゃうからせざるをえない。そういう労働をしたいかというと、そうじゃないはずです。自己の利益を犠牲にしないで、ケアをできる条件がほしいわけです。相互依存を事実としてケアの関係を議論されると、「自己の利益」を二の次にしなければならない状態に置かれているケア労働者から言葉を奪ってしまうのではと思います。
平山 そうですね。ケアの倫理の議論のなかにも、自分自身へのケアも大切にされるべきという話は出てきていて、それはつまり、自分自身のニーズにも配慮すべきだし配慮されるべきってことなんだけど、そんなことは言われなくてもわかってるし、できるもんならそうしてます。今ケア労働を一所懸命やってる人にだって、そうしたい人、きっとたくさんいるでしょう。にもかかわらずそれができないのは、いま山根さんがおっしゃったように、ケア責任を引き受けると、どうしても自己利益を二の次にせざるをえないような社会の構造ができてしまっているから。
社会学の立場で認知症の研究をしていらっしゃる井口高志さんが、ケアの無限定性を指摘されていますね。ケアは、ここまでやったら十分、っていう終わりが見えなくて、やればやるほどやらなきゃいけないことがどんどん出てくる、ってことです。ケア研究者としての私たちが考えないといけないのは、どういう構造的条件のもとだとケアする人は無限にケアせざるをえないのか、どうしたら無限のしごとを心置きなく有限にして済ませられるのか、ってことじゃないのかな。そのためには、いま私たちが知っているケアのありかた、ケアのしかたそのものを変えていかないといけない。私たちがケアとして知っているものをそのままに、みんなでそれをやればいいじゃない、という議論では、山根さんがおっしゃるように、すでに無限定のケアから抜け出せない状態にある人は救われません。
さっき、弱い立場にある人が、誰かの配慮にばかりすがって生きなくてもいいような社会を! って話をしましたけど、私たちみんなのニーズがちゃんと満たされていて、その意味でちゃんとケアされている社会って、むしろ配慮を頑張ってしあわなくても済むような社会なんじゃないかしら。誰かが私たちに配慮してくれなくても、あるいは私たちが誰かにどう配慮したらいいのかわからなくても、それでもみんな困らずに生きていけるような社会こそが、実はケアに満ちた社会だって言えるんじゃないですか。
念のために付け加えておくと、配慮や気遣いなんて要らないよ、って意味ではないですよ。そういう関係は望ましいことではある。でも、それが必ずしもうまくいかないことを前提にいろいろ考えておかないと、ケアに満ちた社会はいつまでもできない、ってことです。
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