連載・読み物 医学史とはどんな学問か

医学史とはどんな学問か
第1章 ギリシア・ローマ文明とキリスト教における医学と医療

2月 23日, 2016 鈴木晃仁

ガレノスの医学は、膨大な書物の知識、臨床における精密な観察、解剖学と実験に基づいた生理学、そして広範で組織的な治療の手法を組み合わせたものであった。その様子が、脈についてのガレノスの一連の著作にあらわれている。この著作群は、それぞれ4点の論考からなる4巻の書物であり、170年代に書かれたものである。第1巻の「脈の差異について」では、過去の医師が残した脈についての論考を比較して論じ、第2巻の「脈の診断について」では、脈に触れたときの経験を差異化して分析し、第3巻の「脈の原因について」では、解剖学と生理学の視点に基づいて脈を論じ、第4巻の「脈の予後について」では、脈から治療法などを引き出す手法が論じられている。

キリスト教と新しい構造の医療

これまで見てきたヒポクラテス派、アレクサンドリアの医師たち、そしてガレノスは、いずれも技術と理論としての医学を発展させた医者たちであった。彼らの医学は宗教から独立した問題を扱ったと同時に、医学と宗教が併存する大きな構造の中で営まれたものであった。その構造を宗教の側から大きく変動させたのが、キリスト教であった。キリスト教は、当初は迫害されたが、4世紀末のコンスタンティヌス帝の治世下にローマ帝国の国教となり、のちのヨーロッパ世界の文化、社会、精神に大きな影響を及ぼすが、これは医療にも及んでいた。キリスト教の医療への影響は、ヒポクラテス派やガレノスらの医学に代わる別の医学を作ることではなく、それらの医学の実践をつつみこむ、新たな文化と制度を作るという形をとった。そのような影響は、患者個人の視点と社会の制度の視点の2つから考えることができる。個々の患者や健康人が、キリスト教の枠組みで自らの生と身体を理解するようになり、そこから出発して医者に説明して治療や予防を求めるようになったという変化が起きた。社会の制度としては、キリスト教が作り上げた修道院や病院という新しいモデルの空間において医療を行う仕組みが発生し、ことに、貧しく孤立した人々に対する慈善としての医療という原理が確立した。この原理は、市場を媒介して提供されるそれまでの医学とは根本的に性格が異なった、宗教の規律を介して施設で提供される新しい医学をはじめたと同時に、近現代の医療の最重要な場所となる「病院」という制度の原型でもあった。

キリスト教と疾病の関係は、当初は超自然の力を強調することは少なかったが、後に超自然の力が強調される方向をとった。新約聖書の福音書が描くように、キリストは数多くの病人や障碍者を治療しており、そこには悪魔に憑かれた症状を示す患者も数件登場しているが、主として癒されたのは、聾唖、四肢の障碍、麻痺、ハンセン病、熱病、下痢、子宮からの出血といった通常の疾病や障碍である。最初期のキリスト教が癒しのシーンに載せたものは、超自然ではなく直接的には自然の原因で疾病などになった患者たちであった。そのため、オリゲヌス(c.185-c.254) や、テルトゥリアヌス (c.160-c.225)のような初期キリスト教の思想家たちは、ギリシア医学の効果について好意的であった(図7)。
 
図7 キリストの奇跡―ハンセン病患者、盲人、下肢が麻痺した患者の癒しが描かれている

Fig7ChirstMiracles

 
しかし、4世紀の後半になると、超自然の力を強調する癒しのパターンが現れて、強い影響力を持つようになる。これは、清貧と禁欲を極端な形で説く「砂漠の教父たち」の影響によるところが大きい。聖アントニウス(c.251-356) は、エジプトの砂漠で禁欲的な生活を送った修道士であり、彼に影響されて数千のキリスト教徒たちが実際に砂漠に居を構えたとされる。彼の思想は、ミラノの司教の聖アンブロシウス(c.357-397)や、ヒポの司教の聖アウグスティヌス(251?-430) などにも影響を与えた。彼らの生活は、ギリシア医学の思想とは対極のものであった。砂漠の禁欲者たちは、体液のバランスなどの身体のケアの実践を富裕な都会人の偽りの洗練として激しく拒絶した。美しく飾られて内実もバランスが保たれた身体ではなく、霊魂の美しさに重きを置く新しい倫理学であった。彼らによればギリシア的な身体の美しさは虚偽の善であり、真の善は霊魂の美しさにあった。極限まで突き詰められた粗食、長期にわたる断食、不眠の中で行われる夜を徹した祈り、入浴を拒んだ身体などは、新しい美学と倫理の表明であった。この二元論は、新プラトン主義やマニ教などの後期古代の宗教や思想からひきついだ、身体と霊魂を対比的に対立させるものであった。

キリスト教徒たちがとりわけ厳しく否定したのが、性の快楽と、それと結びついた生殖の観念であった。ギリシアの医学と文化における性の理解と生殖の理解は、アメリカの文化史研究者であるトマス・ラカーが、それぞれ、「ワンセックスモデル」と「エスプレッソ・マシン」と呼んだものである。ギリシアの性の観念では、男と女は共約不可能な2つの性ではなく、1つの「性」がより完成しているかどうかによって区別された。男性の身体は熱くて堅く精気に満ち、活発な精気は精神を高度な思考に向いたものにする。女性の身体は熱が低くて湿って柔らかく、精神は思考に向かない。女性器は未発達の男性器であり、女性から男性への性転換は自然の論理上では可能なことであった(図8)。また、ギリシアの生殖の観念では、快感の指標である熱が大きな影響を及ぼした。性の快感によって身体が熱されると、男も女も高温になった生殖器から泡のような精気を放出する。このありさまは、愛の女神(アプロディテー)に仕えて泡(アフロス)を出すというたとえで理解されていた。この男女が出した2種類の泡・精気がうまくまじりあうと胎児ができる。その時に、快感が大きいと質が高い精気が作られ、生殖が成功しやすく、また、より高級な性である男の子ができやすい。しかし、それと同時に、性行為は病理化されてとらえられてもいた。ガレノスらは、性行為の快感により、男女は興奮と発汗とあえぎと痙攣と自失の状態におかれ、これは疾病のてんかんと同じ症状であると理解された。すなわち、ミッシェル・フーコーが「性の病理化」と呼ぶ、快楽を不安の核とする性と生殖にたいする態度が既に古代ローマに広まっていた。性に対する医学に人々が影響された一つの理由は、紀元1世紀以降には、帝国ローマの富裕で教養がある階層が、医学を通じて自らの身体を規律することに関心を持っていたことが背景にあった。
 
図8 ガレノスのモデルである未発達で体内にとどまっているペニスとして描かれた女性の膣

L0015865 Vesalius "De humani...", 1543: illustration of a uterus Credit: Wellcome Library, London. Wellcome Images images@wellcome.ac.uk http://wellcomeimages.org Illustration of a human uterus, resembling a penis De humani corporis fabrica Andreas Vesalius Published: 1543 Copyrighted work available under Creative Commons Attribution only licence CC BY 4.0 http://creativecommons.org/licenses/by/4.0/
L0015865 Vesalius “De humani…”, 1543: illustration of a uterus
Credit: Wellcome Library, London. Wellcome Images
images@wellcome.ac.uk
http://wellcomeimages.org
Illustration of a human uterus, resembling a penis
De humani corporis fabrica
Andreas Vesalius
Published: 1543
Copyrighted work available under Creative Commons Attribution only licence CC BY 4.0 http://creativecommons.org/licenses/by/4.0/

 

キリスト教徒たちは、この性の否定を極限にまで推し進めた。彼らが鮮明に否定したのは、性交にともない生殖が成功して立派な(男の)子供が生まれるためには必須であった、性の快楽であった。老いも若きも男も女も、性の快楽を自らに禁じて純潔を誓い、生殖を放棄するキリスト教徒たちが数多く現れた。現代の人口政策の官僚たちが卒倒しそうなこのライフスタイルは、悪魔の誘惑に抗し、神と霊魂を交わしあうための倫理的な生活であった。人間の身体という主題が、神と悪魔と人間をめぐる思想的な枠組みの中に置かれたのである。ピーター・ブラウンは、この現象を、後期古代の宗教改革のライトモチーフと考えている。

社会における疾病については、慈善の発想と制度が重要であった。その1つの起源は、キリスト教の原型であるユダヤ教に求めることができる。ユダヤ教においては、他の宗教と同じように医学は神話的に解釈され、ソロモン王(970-931BCE)が医学の起源をもつと考えられていた。また、ユダヤはエジプトやバビロニアなどの医学の先進地と接触していたため、水準が高い医療が行われ、医療は尊ばれていた。そこでは、個人として医者や治療者にかかり、神殿などで超自然の力の助けを求めることが存在した。しかし、ユダヤ民族の高い凝集性の理念を反映して、集団として救い合う宗教的な義務、特に見知らぬ人が病気などで困っているときに助ける義務があると考えられていた。この理念は、後に、キリスト教によって強調され発展することになった。新約聖書のルカによる福音書がイエスのことばとして伝える「よきサマリア人」のたとえのように、見知らぬ人が路傍で大けがをして倒れているときに、介護をして宿に連れて食物を与えた人物こそが真の「隣人」であるという思想である。

このようなキリスト教の慈善に基づいた医療の発想は、改宗者が増加して初期キリスト教が拡大するとともに、社会に定着していった。迫害にもかかわらず改宗者が増加した理由の1つに、キリスト教徒たちが疫病に対して行った対応が、他の宗教を信じる人々のそれに較べて優れていたことが挙げられている。特に重要であったのが、紀元3世紀に地中海世界を襲った疫病「キプリアヌスの疫病」であった。この疫病は、カルタゴの司教聖キプリアヌス(c.200-258)が、その疫病について特に詳細な記述を残していることが名称の由来である。この疫病は、紀元251年にはじまり、15年から20年間のあいだ、ローマ帝国内に大きな被害を出した。ローマでは1日に5,000人が死亡したと伝えられている。これは、同時期のいわゆる蛮族の侵攻、政治的な混乱などとともに、ローマ帝国の混乱を助長した。歴史学者のウィリアム・マクニールは、この疫病を起こした疾病は、天然痘か麻疹であっただろうと推測している。この時期の地中海世界は、当時の新興感染症である天然痘や麻疹が、交通の発展にともなって広域に流行し、まだ免疫を持たない人口に大きな打撃が与えられる構造をもっていた[3]

キプリアヌスの疫病が明らかにしたのは、キリスト教徒たちが行った高い水準の「隣人」に対するケアであった。当時、キリスト教徒はローマ帝国内で迫害の対象となっていたにも関わらず、積極的な病人の看護と介護を各地で行った。アレクサンドリアでは人口が半減したと言われているが、キリスト教徒たちは病者の看護を行い、キプリアヌスが司教であったカルタゴにおいては、キリスト教徒と異教徒の区別なく介護し、感染の恐怖などから埋葬されずに路傍に倒れている死体を適切に埋葬するような説教を行った。この死体の埋葬は、別の都市のキリスト教徒たちも行ったと記されている。これらはキリスト教徒側の記述であるが、そうでない人々も、病人の看護と遺体の埋葬はキリスト教徒たちが示した特質であったと記している。疫病時の効果的な対応の背後には、キリスト教徒の集団が、通常から見知らぬ病人への慈善的な対応を行っていた事実が存在する。貧困と疾病に対して、個人だけではなく社会が責任をとるべきだと考えて、その枠組みの中で個人が愛情に基づいて行動する枠組みと制度が、キリスト教社会には存在した。この行動は、疾病に対して、治療というより看護と介護を目指していた。当時の医療の水準では治療する方法がなかった疾病や障碍に対して、死後の遺体の埋葬も含めて、人生の最期の時の質をより高めるケアが目標であった。この介護の充実は、死亡率の低下をもたらしたであろうし、より本質的な問題は、社会の中での病と死に新しい実践を行ったことにあった。死を迎えようとしている患者で、家族などのケアを得ることができない場合に、集団と社会の責任として介護する実践であった。

疫病の時期という危機的な状況だけでなく、日常生活における疾病への対応についても、キリスト教は新しいモデルを提供していた。その原型は、キリスト教徒たちが設立した修道院にあると考えられている。キリスト教徒は、3世紀にはエジプトをはじめとする各地に修道院を設立し、4世紀の半ばにはエジプトは修道院運動の拠点となっていた。修道院は1名だけが孤立して入るものから、大きな集落として数千人が暮らすものもあった。修道院に入った男女は、もともと所属していた家族や家庭をはっきりと放棄して、肉体と精神をあらたな規律と秩序を持つ空間に置く。その時に、かつて家庭が持っていた衣食住や情動生活などさまざまな機能が修道院において代替され、そこにキリスト教の理念が刷り込まれ、1つの空間の秩序が与えられた。この家の代替物の統御が「家」をあらわすギリシア語「オイコス」から派生した「オイコノミア」となる。

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鈴木晃仁

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すずき・あきひと  静岡県生まれ。静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻を卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号を取得した。博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史を主題とし、指導教官はロイ・ポーターであった。その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などを経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から慶應義塾大学経済学部教授。