虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察
第3回 ネットもスマホもなかった世界から遠く離れて

6月 01日, 2016 古谷利裕

 
 

うる星やつら2 ビューティフルドリーマー

『マイクロチップの魔術師』が、後に同じアイデアの様々なバリエーションの物語を生み出したのと同様に、後のアニメに大きな影響を与え、繰り返し参照されることになる作品が、インターネット技術が軍から切り離された年の翌年に生まれます。『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』(1984年)です。この作品を監督した押井守は、のちにヴィンジ的アイデアの見事な発展的バリエーションの一つである『GHOST IN THE SHELL /攻殻機動隊』(1995年)を制作しますが、それはまだこの10年以上後のことです。この時点では、ヴィンジのような先鋭的な存在以外には、インターネットのような形での通信技術は想像されることすらないものでした。つまり、80年代初頭の人々が「想像する未来像」にはインターネットが含まれていません。ヴィンジにすら、その具体像はイメージできていなかったくらいです。

(1984年には『ニューロマンサー』が、1985年には『スキズマトリックス』が書かれ、SF小説の世界にサイバーパンクが生まれます。だから、サイバースペースの新たなイメージは「ビューティフルドリーマー」の直後に現れたといえるでしょう。)

「ビューティフルドリーマー」はいまだインターネットのない世界の物語です。ここでは、明らかに「ビューティフルドリーマー」を参照して制作されているインターネット以降の二つの作品、『涼宮ハルヒの憂鬱』中の1篇「エンドレスエイト」(2009年)と、劇場版『叛逆の物語』を含めた『魔法少女まどか☆マギカ』(2011-13年)とを、「ビューティフルドリーマー」と比較して、インターネットの有無がその物語のありようにどのように影響しているかを考えます。ちなみに、「エンドレスエイト」にも「まどか☆マギカ」にも、携帯電話は出てきますが、インターネットは直接的には登場していません。
 

ループする文化祭前日

『うる星やつら』は1980年に連載が開始された高橋留美子による漫画作品で、1981年にテレビアニメ化されています。「ビューティフルドリーマー」は、その劇場版の2作目に当たります。ただ、この作品は「うる星やつら」の1篇というより押井守というユニークな作家の作品として注目されたのでした。

物語は、延々とループする「文化祭の前日」という罠のなかに登場人物たちが閉じこめられるというものです。「明日は文化祭の初日だ」と口にした次の朝にも同じ台詞が吐かれます。文化祭は決してやって来ません。それは、祭りを控えた高揚感のなかで、わいわいと仲良く喧嘩しながら作業をするという、幸福で祝祭的な時間にどこまでも留まることを意味します。押井はこの幸福な保留の時間をとても見事に造形し、多くの人を魅了しました。

異変に気づくのはこの時間を幸福とは感じていない管理者である教師です。過ぎ去らない時間のなかで反復されるバカ騒ぎに、彼のストレスは蓄積してゆきます。休息のために帰宅した彼は、アパートの部屋が何年も放置されていたかのように荒れ果てている様を目撃します。つまりここで、罠を仕掛けた者のループする時間の管理の仕方は、局所的でずさんなものだといえます。同じ1日が反復しているはずなのに、季節さえ変化しているようです。

罠を仕掛けた者の時間の管理が局所的でずさんでも成り立つのは、登場人物たちを空間的に限定することが、ほとんどそのまま情報的に限定することに等しかったからでしょう。文化祭の前日には、登場人物たちは24時間学校にいるので、学校とその周囲の時間だけを管理しておけば罠は成立することになります。せいぜい、夜食を買いに出かける範囲や、家への電話といった、限られた少ない情報の出入りを管理すればそれで済みます。時間の流れる「外」から切り離すべき「内」の範囲は、人物の行動範囲と重なるのです。

しかし、スマホによっていつでもネットに接続可能である世界ではそうはいかないでしょう。登場人物は、他校の生徒とラインでつながっているかもしれないし、海外の友人のSNSアカウントをフォローしているかもしれないし、海外のサーバに置かれたエロ動画にアクセスするかもしれません。ネットとモバイルが普及した世界では、物理的に行動する空間の限定が情報の限定につながりません。罠をかける者が管理しなければならない空間的、情報的な範囲は爆発的に拡大するでしょう。

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