医学史とはどんな学問か
第4章 ルネサンスと解剖学の発展 1500-1600

About the Author: 鈴木晃仁

すずき・あきひと  静岡県生まれ。静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻を卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号を取得した。博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史を主題とし、指導教官はロイ・ポーターであった。その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などを経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から慶應義塾大学経済学部教授。
Published On: 2016/8/10By

 
《要旨》
 15世紀の末から16世紀の初頭にかけて、ルネサンス(古典復興)がヨーロッパの医学に大きな影響を与えるようになった。地域としては、北イタリアの諸都市とオランダ・ドイツなどの北方ヨーロッパにとりわけ顕著であった。この時期の古代医学の復興と文化・芸術に深く関連する医学を「ルネサンス医学」と言う。ルネサンス医学が復興しようとしたのは、ヒポクラテスやガレノスの医学であり、それ自体としては、中世における、アラブ・イスラム世界の医学とラテン・キリスト教世界の医学と同じものであった。しかし、ルネサンスはギリシア語という「新しい古典語」を習得したため、ギリシア語の医学をその起源から直接学ぶことで、イスラム医学や中世のスコラ医学と大きく異なる医学を作るという革新の姿勢をもつことになった。

この復興と革新が不可分に融合した姿勢がもっとも鮮明に現れるのが、16世紀の解剖学の発展である。ヨーロッパの大学における解剖学は14世紀にはじまったにもかかわらず、16世紀のルネサンスの影響をうけた解剖学は、自らを革新的であると考えた。パドヴァで解剖学を教えた若きアンドレアス・ヴェサリウスの『人体構造論』(1543)は、ガレノスの解剖学の方法に従うという復古であると同時に、さまざまな意味で画期的な著作であった。ヴェサリウスなどの解剖学の革新性は、狭い意味の医学に限定されず、ルネサンス文化のさまざまな側面と深い関係をもっていた。たとえば、解剖図が写実的で芸術的に水準が高いものであったこと、その作品が印刷されて広範な人々に知られたこと、解剖講義が劇場における上演の性格をもっていたこと、そして解剖が「自己を知る」手段であると考えられたことなどである。これらの仕掛けを通じて、本来は医学の一分野である解剖学が文化装置と共鳴する特徴をもつようになった。

 

背景

 

14世紀のイタリアで始まった文化運動であるルネサンスは、文学・絵画・彫刻・建築などの芸術において、古典の復興を通じた革新という特徴を共有していた。この文化運動は15世紀の末から16世紀の初頭に黄金時代に達し、ブルネレスキの建築、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画、ミケランジェロの彫刻なども、ギリシア・ローマの古典古代の作品をモデルにした革新を目指していた。これとほぼ同じ時期に、医学においても、古典古代の医学に還ることで、中世のスコラ医学よりもはるかに洗練された医学を作ろうという運動が確立した。このような医学を「ルネサンス医学」という。

ルネサンス医学における古典復興の焦点となったのは、やはりヒポクラテスやガレノスのテキストであった。前章・前々章で確認したように、ヒポクラテスやガレノスの著作の多くはアラビア語やラテン語に翻訳されてアラブ・イスラム世界とラテン・キリスト教世界の医学の中核をなしており、その意味でルネサンス医学は伝統と連続していた。しかし、ルネサンス医学は、ラテン・キリスト教世界がもっていなかったギリシア語の高度な能力という新しいツールをもつようになった。新しい学問語の習得は、15世紀の国際関係の変化を背景としてもち、1453年に東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノープルがオスマン=トルコに攻略されて、当地の学者たちがイタリアなどに亡命したため、彼らとともにギリシア語を読む能力と写本が伝えられたことが大きな要因であった。ギリシア語という「新しい古典語」の導入にともない、ラテン語の古典復興を中心としていた14世紀のペトラルカやボッカッチョに代表されるような古典復興とは異なる運動として、15世紀の末にはギリシア語に重点をおいた新しい古典復興運動が興隆することとなった。

このギリシア語に基づいた医学のルネサンスの定着にもっとも貢献したのは、フェラーラ大学の教授で、エラスムス(Desiderius Erasmus, 1466-1536)とも交友があった優れた人文学者のニコラウス・レオニチェーノ(Nicolaus Leoniceno 1428-1524)であった。レオニチェーノによれば、ギリシア語の知識は当時の先端的な医学研究にとって必須のものであり、ギリシア語の知識がない医者は、戦場にはいる以前に敗れたも同然であるとまで言われた。ギリシア語の知識を通じて、医学の伝統とアイデンティティを文化的に再構成する作業が行われ、ラテン語に基づく中世医学とアラビア語に基づくイスラム医学が攻撃された。レオニチェーノが1492年に出版した『医学におけるプリニウスと多数の著者の誤りについて』は、ギリシア語至上主義を表明した書物であり、ローマの時代にプリニウスがラテン語で書き、薬学を含めて百科事典的な書物であった『博物誌』を批判的に検討し、プリニウスは薬用植物の名前をギリシア語からラテン語へと翻訳するときに多くの過ちを犯したと主張している。また、アラビア語の医学に対しても批判的な態度を取り、イブン・シーナの『医学典範』を批判したのも、それがギリシア医学を勘案してアラビア語で表現したものであるという同じロジックに従ったものであった。ラテン語とアラビア語を軸とする医学とは異なった言語的な基盤をもつ医学は、ギリシア語の医学を復興したものであると同時に、革新的な姿勢をもつものでもあった。

文化的な改革であるギリシア語の重視と重なったのが、同時期に現れた巨大な技術革命である印刷術であった。ヨーロッパに印刷術が現れたのは中国やアラブ・イスラム世界に較べて比較的遅い15世紀の半ばであったが、この技術は、書写の過程における過ちの可能性を排して、全く同一のコピーを何百部と作ることができるテクノロジーであった。復元性において書写よりも圧倒的に優れた技術である印刷術が、正確なテキストの確定を重視する医学における人文主義と共鳴したのは当然のなりゆきであった。ギリシア語の医学テキストの出版や、ギリシア語からのラテン語訳と注釈書の出版は1520年代には一つの頂点に達している。1525年に、ガレノスの著作のギリシア語全集が出版され、ヒポクラテス集成の最初の人文主義的ラテン語訳も出版された。翌1526年にはヒポクラテス集成の最初のギリシア語版が出版された。ヒポクラテスとガレノスのギリシア語全集は、それまでアリストテレス、プラトン、ホメロスなどのギリシア語版を出版してきたヴェネツィアのアルディーネ出版によるものであり、これらの大規模な校訂・出版のプロジェクトの構想にはレオニチェーノを始めとする人文主義的医学者たちがかかわっていた。ギリシア語の古典医学の中でも特に注目されたのはガレノスで、16世紀に出版されたさまざまなガレノスの著作を合計すると500点以上にものぼるという。ギリシア語の重視と印刷技術の利用は、「言葉」にまつわる16世紀の医学の新しい駆動力であり、当時の医学はまさに人文主義の一領域として、語学の習熟、原語によるテキストの校訂、そして正確なテキストの大部の出版などを重要な要素として含んでいた。

しかし、ルネッサンスの医学は言葉の側面の革新だけでなく、「事物」の世界への新しい志向ももっていた。言葉が、どんな事態を指し示しているのか、その事物はどのように表現できるのか、そしてそれを視覚情報で表現・再現するとどうなるのか。このような事物にかかわることがらについても、ルネサンスの医学は高い関心を示した。ルネサンスと人文主義の医学は、言葉と事物の双方にまたがる革新であった。時あたかも、遠近法に代表される新しい表現技法が、ルネサンスの絵画や芸術の新境地を切り拓いていた時期であった。そのため、人文主義的な医学の運動は、薬草・病気・身体の部位の名称などについて、それぞれの言葉がどの事物を指すのかを厳密に議論することを一つの中心としていた。いくら正確に古代のテキストのギリシア語の言葉を確定しても、後者の理解を欠くと、効かない薬草の処方、病気の治療法の誤解、治療をする部位の間違いなどの致命的な間違いを犯すからである。たとえば、パリで活躍した医師のピエール・ブリソ(Pierre Brissot, 1478-1522)がはじめた瀉血をめぐる論争は、瀉血を行う部位について、イブン・シーナの解釈とヒポクラテスやガレノスのギリシア語原典の食い違いを指摘し、後者の正当性を擁護するものであった。また、レオニチェーノの影響を受けたフェラーラの医師たちは、ローマ時代のギリシア語の本草書であるディオスコリデス(Dioscorides, c.40-90)の『本草論』の写本を発見して編纂・出版したが、その企画は、古代医学の本草書に記された植物を特定するためにヨーロッパ各地を訪問し、植物の標本を収集することを伴っていた。このように言葉との対応が特定された事物は、正確に記述・描画されただけでなく、版画の印刷により、同一の正確な図版が多数復元されて、多くの読者に共有される仕組みが作られた。ルネサンスの医学は、言葉と事物の双方に新しい関心をもつと同時に、両者の間を往復する知的な運動となっていた。


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すずき・あきひと  静岡県生まれ。静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻を卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号を取得した。博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史を主題とし、指導教官はロイ・ポーターであった。その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などを経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から慶應義塾大学経済学部教授。
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