連載・読み物 医学史とはどんな学問か

医学史とはどんな学問か
第4章 ルネサンスと解剖学の発展 1500-1600

8月 10日, 2016 鈴木晃仁

 

古代・中世の解剖学との連続と断絶

 

この古代の言葉の研究と事物の研究がもっとも鮮明な形で花開いたのが、解剖学という領域であった。ルネサンスの解剖学の発展と開花は、医学の近代化のもっとも重要な象徴であった。ヴェサリウスの『人体構造論』(1543)から取られた図版は、近代医学の登場を宣言するものとして、数多くの医学史の書物が挿絵として用いている。後に詳述するように、ヴェサリウスを含めてルネサンスの解剖学には、たしかに根本的な革新が存在している。しかし、それと同時に、ルネサンス以前にも医学が人体解剖を行っていたことも事実である。これまでの章で触れてきたように、プトレマイオス朝エジプトのアレキサンドリアにおける人体解剖の発展、ガレノスによる動物を代用した解剖学、アラブ・イスラム世界における解剖学はいずれもかなりの程度発展したものであった。中世のラテン・キリスト教世界にアラブ・イスラム世界がアラビア語などに訳したギリシア医学が導入されたときに、当然のように解剖学のテキストも導入された。11世紀のサレルノの医学校においては、著しく簡略化されたものであったがガレノスの解剖学とアラブ・イスラム医学の医学者たちの解剖学が導入されていた。13世紀にヨーロッパの大学で教えられた医学では、古代地中海世界と中世のアラブ・イスラム世界から継承された解剖学の知識が医学教育に再び根付いていた。

14世紀になると、人体解剖の知識に加えて、その実践がラテン・キリスト教世界の医学教育に現れて拡散した。ヨーロッパにおける最初の公の人体解剖の記録は、1315年頃にボローニャ大学のモンディーノ・デ・リウッツィ(Mondino de Liuzzi, ca.1275-1326)が行ったものである。これは、現実の人間の死体、具体的には死刑囚の死体を用いた解剖であった。ほぼ同時期のモンペリエ大学でも人間の死体解剖が定められ、14世紀のヴェニスでも市当局が外科医組合と内科医組合に少なくとも年に1回の解剖を行うように定めている。イタリアの外では、スペインのリェィダで1391年に、ウィーンで1404年に、それぞれ初めての人体解剖の記録がある。14世紀のヨーロッパの諸地域では大学や市当局の営みとして人体解剖を行うことが確立したことをまず確認する必要がある[1]

しかし、人体解剖の導入がそれだけで解剖学の新時代を切り拓いたわけではない。14世紀から15世紀にかけて人体の解剖学が特別な関心とともに行われていたとは言い難いし、その内容も古代以来の解剖学の知識に何か新しいものを付け加えるものではなかった。医学部をもつ大学は1500年の時点では50校ほどあったが、ルーティンとして人体解剖を行っていたのはボローニャやパドヴァなどのごく少数であり、これらの大学でも、1年間に男女各1体の死体の解剖を供給する程度であった。前述のデ・リウッツィも、ボローニャ大学の職名でいうと解剖学の教授ではなく実践医学の教授であった。全体として、解剖学が医学教育の中で占めている地位は低いものだった。

当時の解剖学の知識はガレノスの要約やその註釈などの書物に書かれたものの再現であり、解剖書に付された図像は、現実に見られた人体を再現するものではなく、言葉による記述を模式的に表現する「図式」であった。この時期の解剖の図像は、ルネサンスの精密詳細で写実的な図譜とは異なっているが、それらが粗雑で間違ったものだとネガティヴに解釈することは、図像の機能についての誤解に基づいた批判である。

妊婦の解剖図の手彩色の版画。『医学選集』Fasciculus Medicinae (Venice, 1491) より
図1 妊婦の解剖図の手彩色の版画。 『医学選集』よりFasciculus Medicinae (Venice, 1491)

図1は、さまざまな医学テキストを1冊に集めて15世紀末に刊行された『医学選集』に掲載された妊婦の解剖図の手彩色の版画である。中世の解剖図の一つの類型である「カエル様の体位」を取り、写実性は低く、言葉による記述に基づいた図式となっている[2]

言葉と事物の二つの面を象徴しているのが、当時の解剖学講義を描いた二つの図版である(図2、3)。図2は、中世からルネサンスの解剖学講義を描いたものとして名高く、医学史の教科書などでしばしば用いられるものであるが、もともとは『医学選集』におさめられて、解剖学の章の冒頭に掲げられていたものである。この図をそのまま解釈すると、図の中央上部で高い台で座って正面を向いている人物(A)が解剖学を教授する人物であり、前景にそれを補佐する人物(C-E)たちと死体(F)が描かれてように見える。この解釈によれば、教授というこの場における最高位の人物が、解剖という手仕事を低位の助手たちに任せ、死体から目を離して書物の読み上げに専念していること、すなわち書物と言語に重点を置いた解剖講義の特徴が描かれていることになる。

図2  Fasciculo di medicina (Venice, 1493)より
図2 『医学選集』よりFasciculo di medicina (Venice, 1493)

しかし近年の研究は、解剖講義について全く異なった解釈も可能であることを示している。図3は、1535年に出版された、ボローニャ大学の解剖学の教授のベレンガリオ・ダ・カルピ(Berengario da Carpi, c.1460-c.1530)の『カルピの解剖学』(Anatomia Carpi)の表紙絵であるが、この図版は、『医学選集』とは異なったヒエラルキーを示している。教科書を読み上げる人物は画面の右端に追いやられて周縁的な位置を与えられ、それにかわって、画面中央には、死体を指し示している人物が威厳ある仕方で描かれている。この図版からは、教科書を読み上げる人物ではなく、事物を指し示す人物がより高位の医学教師であるという 、前述の解釈とは正反対の意味が読み取れるだろう[3]。そして、現在の歴史学者たちは、図3のほうが16世紀の現実の解剖講義により近いものだろうと考えている。パドヴァ大学の解剖学講義のあり方を定めた規則によると、教科書を読み上げる人物と、その読み上げに対応して死体の臓器などを指し示す人物という2人の教師が指定されているが、後者は正規の大学医師であるのに対し、後者は正規外の医師であると明示されている。

図3 Jacopo Berengario da Carpi, Anatomia (Venice, 1535) 表紙より
図3 『カルピの解剖学』表紙絵より。Jacopo Berengario da Carpi, Anatomia (Venice, 1535)

解剖学講義を描いた2枚の図版が、その構図の中心の置き方において大きく異なっていることは、当時の解剖学が二つの焦点をもっていたことを示している。一つは文字で書かれて読み上げられる解剖学の書物であり、もう一つは指し示されて目で見られる解剖された死体である。書物の内容と解剖された死体という2種類の異質な要素が解剖学の空間に並び立っていた。そして、解剖の図版の全体的な流れと、この2枚の図版の出版の時期の違いを考慮すると、書物と事物という2種類の要素の相対的な重要性は、前者から後者へと移る過程にあった。また、この移行を示唆するような書物も新発見されていた。それが、1531年にその一部がギリシア語からラテン語に訳されたガレノスの『解剖学の手続きについて』という書物である。この大部な著作は、骨格から始めて筋肉、神経などを細部にわたって精密に論じたガレノスの解剖学の集大成というべき書物である。その書物の中でガレノスは、自らは人体解剖を行えなかったため、動物(サル)で代用したことを読者に告げ、実際に人体を解剖して自分の目で確かめるのが望ましいと主張した。すなわち、この新たに発見されたガレノスの書物は、自らの著作に従うことを喧伝していたのではなく、人体という事物との照合を通じて、それ自身を改訂することを要求するダイナミズムを内にもっていたのである。16世紀の人文主義的な医学が発見したガレノスは、自らの書物の権威への硬直した盲従ではなく、人体という事物を参照して自己の教説を批判しくつがえす可能性を明示していたといってもよい。

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鈴木晃仁

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すずき・あきひと  静岡県生まれ。静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻を卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号を取得した。博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史を主題とし、指導教官はロイ・ポーターであった。その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などを経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から慶應義塾大学経済学部教授。