一つの現実と多数の現実
しかし、以上のことがらは、無数にある「世界線」のうち「現実」と呼べるものは一つであって、他の「世界線」はすべて可能的、または潜在的な世界に過ぎないという常識的な前提において解釈された時の、この物語のありようです。つまり、「世界線」が移動するというのは、『ゼーガペイン』と同様に「現実という地位」が移動するということだ、と。しかし、そうであるという保証はないはずです。そうではなくて、すべての「世界線」は等しく「現実」としての地位を持ち、ただ岡部の「わたし(視点)」だけが、前の「世界線」の記憶を持ったまま次へ次へと移動しているだけだと、考えることを否定する要素はありません。
(この物語のタイムリープマシンは、ただ記憶と意識のみを過去に送るものでした。)
だとすれば、ただ(最初の「世界線」にいた)岡部の意識だけが、記憶を保持しつづけながら様々な「世界線」の地獄巡りをした後に、椎名も牧瀬も死なず、第三次世界大戦もCERNの支配によるディストピアもない、とても幸福な「世界線」にたどり着いたという話になります。世界は革命されたのではなく、他の「世界線」ではあいかわらず、椎名は死に、CERNが世界を支配し、第三次世界大戦で多くの人が死んでいることになります。他の「世界線」の岡部は、レジスタンス組織を立ち上げていたり、立ち上げなかったりするかもしれません。しかし、可能であるすべての世界は実在するというエヴェレット的な多世界は、物語の背景としてもあまりにとりとめがないでしょうか。
12話の冒頭に置かれた岡部が見る夢の場面で(しかしこれも、夢ではなく実際にCERNによって7000万年前の地球に流刑にされてしまった、別の「世界線」の岡部だと解釈することも可能です)、岡部を探してたくさんの「世界線」を旅してここでようやく会えたと語る椎名は、ここにいる岡部は他にたくさんいる岡部の一人だともいえるし、オリジナルだとも言える、ここにいる自分も岡部もここで死んでしまうけど、7000万年後の秋葉原にいる自分や岡部まで意志は連続している、と言います。ここで言われているのは、あらゆる「世界線」に存在する岡部は皆等しく、無数の岡部たちの一部であり、同時にそれぞれがオリジナルで、そして、その無数の岡部たちの間には、何かしらの共鳴関係があるというようなことでしょう。
これは、阿万音=タイターによって語られる、現実が一つであるような「世界線」理論とはあきらかな齟齬のある世界観です。なぜわざわざ、矛盾する世界観がここで示されるのでしょうか。この場面と、6話に置かれた、岡部がブラックホールの事象の地平面上にいて永遠に時間が凍結されている夢の場面は、この作品の背景にとりとめもないほど大きな広がりが隠されていることを強く感じさせる場面であると考えます(もしこの二つの場面がなかったならば、私はこの作品にここまで惹かれることはなかったかもしれないと思っています)。つまり、阿万音=タイター理論は、この物語世界を整合的に説明し得る一つの合理的な解釈ではあるけれど、それが真理であると確定しているわけでは決してない、ということだと思われます。『シュタインズゲート』の物語世界は、阿万音=タイターの「世界線」理論よりもずっと深くて、大きいのだ、と。
(物語の終盤、岡部だけでなく、他の人物もまた以前の「世界線」の記憶を断片的にもっていることがわかります。これは「現実は一つ」である証拠とも考えられますが、夢での椎名の発言を受けて、この事実を、近い「世界線」の同一人物の間には共鳴が起きるのだ、と考えることもできて、そう考えるとまた違った味わいになります。)
「主観」によって可能になる物語
私たち(観客)は、この物語をただ岡部の視点からのみ経験します。「世界線」を移動してもなお、それ以前と連続した記憶を保ちつづけられるという岡部の能力(この能力は中二病的にリーディングシュタイナーと名付けられています)がなければ、過去への介入によって世界がいきなりがらりと変わるという、この「物語」そのものが構成されないからです。つまりこの物語は、主人公である岡部の主観上に構成される物語なのだと言えます。そうである以上、「世界線の移動」という出来事が、現実そのものが移動したのか、岡部の記憶と意識が移動したのか、どちらか決定することはできないはずです。前者であれば現実は一つですが、後者であれば現実が一つだとは言い切れません。あらゆる「世界線」は現実であり、生きて、動いているかもしれません。
このことは、(1)で取り上げた量子自殺を思い出させるでしょう。量子自殺とは、理論物理学マックス・テグマークが考案した並行宇宙の実在を証明する方法です。具体性のある検証法というよりも一種の思考実験と言うべきものですが。二つの状態に等しく重ね合わされた量子を観測する装置と、マシンガンとを組み合わせて、たとえばそこで観測されたスピンが「up」ならば弾を発射し「down」ならば発射しない、という状態にします。そして1秒ごとに引き金が引かれる連射モードにして、その銃口を自分の頭に向けます。ここで「わたし」がn秒後に生きている確率は、2のn乗分の1です。
もし並行宇宙が存在すれば、宇宙は1秒ごとに、「わたし」が生きている宇宙と死んでいる宇宙とに分岐します。死ぬ方の「わたし」に意識が残らないとしたら、「わたしの意識」は常に生きている方にあるでしょう。つまり「わたしの意識」は、マシンガンが空撃ちする音ばかりを繰り返し聞くことになるというのです。空撃ちが10回続けて聞こえたとすると、並行宇宙の存在は99.9パーセントの確かさをもつ、と。
ただしこのやり方では、並行宇宙の存在の証明は、ただ「わたし(の意識)」に対してだけ行われるのです。隣にいる誰かは、マシンガンに撃たれて死ぬ「わたし」を見るだけでしょう。そして、いま、ここに生きているこの「わたし」の背後には、マシンガンに撃たれて死んだ多数の他の宇宙の「わたし」の存在があることになります。
岡部による「世界線の移動」は、量子的な過程(波動関数の収縮)とは関係がないので、並行宇宙(すべての「世界線」の実在)の証明にはなりませんが、同時に、与えられているのが岡部の視点だけである以上、現実は一つであることの証明もまた不可能です。『シュタインズゲート』は、表面的には「現実は一つである」という常識を採用していながら、その背後にある、ちょうど量子自殺で「わたし」がマシンガンの弾に当たって死んだ方の多数の宇宙のような、膨大な他(多)世界の広がりを感じさせる物語だと言えます。まるで、アインシュタインの向こう側に量子力学が透けて見えるかのように。
「図」と「地」を接合/分離させる「視点」
しかし、背景にある無数の多世界を認めてしまえば、つまりあらゆる可能性が同時に実在するとなれば、物語が成り立たないし、そもそもそれ以前に、あらかじめすべてがあるのなら、「何かをする」ということの意味もまた消えてしまします。これはこれで、単線的決定論とは別の意味で「出口なし」になります。しかし仮に、あらゆる可能性が実在するのだとしても、「わたし」はそのうちの限定されたどこかにいるしかなく、その位置からの限定された視点しか持つことができません。『シュタインズゲート』という物語を可能にする主人公岡部は、無限にとりとめのない「地」としての世界から、いくつかの部分を切り出してきて縫い合わせることで、「図」としての物語(認識可能な世界)を紡ぎ出すための、一つの限定的な視点であると言えます。
干渉と重ね合わせの量子的世界のそのままの状態は、数式として示すことはできますが、経験的に知覚すること(経験的な形に構成すること)はできません。それを経験するには、マクロな系との相互作用を経なければならず、そうすると干渉も重ね合わせも失われます。仮に多世界解釈が正しいとしても、少なくとも私たちは、この世界を「重ね合わせが失われたもの」としてしか感じられません。そこには人間の認識の限界があり、そして物語の限界があります。さらに、経験不可能な量子論的世界から、経験可能な古典物理学世界への移行には「観測問題」という非対称性がありました。「upでもありdownでもある」重ね合わせ状態から、固有状態「up」になるのか固有状態「down」になるのかの決定には理由がない(非決定論的)と考えられるのです。
ここで「重ね合わせ状態/固有状態」という不連続を表すスラッシュの位置に観測者がいます。つまり、重ね合わせの量子状態と決定論的古典状態の間にある「非決定論的出来事」を引き出すためには「観測者」が必要なのです。そして(1)でみた通り、観測過程における、対象/観測装置/観測者の境界線は自明ではありません。とりとめのない「地(世界)」から、認識可能な「図」としての物語(世界観)を生成することを観測過程にたとえるならば、対象/観測装置/観測者の境界をどのように確定するのかが問題となります。『シュタインズゲート』においてそれは、あらゆる可能性が実在するとりとめのない世界(対象)/タイムマシン(観測装置)/リーディングシュタイナーをもつ岡部(観測者)ということになるのではないでしょうか。
『シュタインズゲート』という物語における世界観――「多数の異なる世界線がある」と「不連続な世界線の間を移動できる連続したひとつの意識(主観)がある」――は、空を飛ぶ鳥の形を示すことで空の大きさを示そうとするように、私たちに認識可能なギリギリの「図」によって、その背後のとりとめもなく広がる「地」を示そうとするものだと、私は考えます。
この項、了。次回2月8日(水)更新予定。
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