未来を託す
ピスト財団がフル・フロンタルに「箱への鍵」を託そうとしたのは、地球連邦政府を滅ぼそうという意図からではありません。ピスト財団はこれまで100年近く、ラプラスの箱の存在を隠すことによって地球連邦政府との均衡を保ってきました。しかし、名目上とはいえ存在していたジオン共和国の自治権が剥奪されてしまう宇宙世紀100年を目の前にして、このまま地球中心の体制が固まってしまう前に、この体制を「変え得る」という可能性を次の世代の者に示し、それをどう使うか(体制を変えようとするのか、しないのか、変えるのならばどのようにしてか)を、次の世代に託そうとしたのです。
託す、というのは、ただ判断を丸投げするということではありません。判断のための材料、そして、体制を変え得るだけの根拠と力とを新しい世代に贈与した上で、あとはそれをどう使うかはあなた方次第だ、とするということです。
ガンダムは箱そのものではなく、そこへと至るための鍵です。箱への道のりが、判断のための材料を提供し、そして箱とガンダムとが、体制を変え得る根拠と力として次の世代へと提供されます。『ガンダムUC』は、箱へと至るその過程の物語であり、その過程を通じて、箱の力を使うのに相応しいのが、バナージなのかフル・フロンタルなのかが選ばれるという物語でもあります。そしてそれはそのまま、人は変わり得るのか、社会は変わり得るのか、という問いでもあります。
『ガンダムUC』は、旧世代と新世代との対立の物語ではなく、旧世代が新世代に対して未来を託すという物語です。あるいは、死んでいくものが、生き残った者に未来を託すのです。この時、託す側の旧世代は、新世代が本当に社会を変え得る存在なのかは分からないままで、それでも託すのです。
構造が書き換えられる可能性
この物語の基本は、地球連邦側とネオ・ジオン残党側との間で行われる、箱の鍵であるガンダム(とバナージ)の取りあい合戦ということになります。地球側は「箱」を回収し再び隠匿するか、さもなければ「箱」自体を破壊して自らの立場(現体制)を守ろうとします。そして、ネオ・ジオン側は、「箱」を盾にして地球の支配からの逆転の道具にしようとします。しかしどちらの陣営も一枚岩ではなく、様々な異なる立場があり、そして様々な立場たちは解きほぐせないほどの複雑な関係として絡み合っています。それぞれに異なる立場が、しかし解きほぐせないほどに緊密に絡み合ってしまっていることそれ自体が、状況の動かし難さを形作り、現体制を強化してしまってもいるのです。その様々な立場の間を、取りあわれる対象であるバナージとガンダムが遍歴していき、バナージは、それぞれに相容れない複数の立場が、それでも、それぞれがそうであるしかないというあり方で存在していること、つまり、現状がこのようにしかあり得ないことの動かし難さを痛感するのです。
同じ地球連邦政府側でも、政府と軍とアナハイム・エレクトロニクス社では微妙に立場がことなります。そもそも、ピスト財団が、ラプラスの箱を新世代に託そうとするリカルドやカーディアスと、アナハイム・エレクトロニクス社側に立って現状維持を主張するアルベルトやマーサとで分裂しているのです。さらに言えば、同じ路線を行くアルベルトとマーサの間にも、強化人間マリーダに対する態度の違いがあります。実働部隊である戦艦ネェル・アーマガや独立部隊ロンド・ベルの司令であるブライトは、時に独自の判断で政府の意向と異なる動きをします。
ネオ・ジオン残党の側も、フル・フロンタルを崇拝するアンジェロなどの側近と、独立愚連隊のようなガランシェール隊とは距離がありますし、ロニなど、地球に潜伏しているネオ・ジオン残党には、彼らなりの別の歴史や事情があり、感情があります。ザビ家の姫として、本来こちら側に属するはずのミネバも、彼女自身の意思で独自の行動をとります。そしてさらに、様々な個人の間で恋愛感情や嫉妬も強く作用します。
大きく引いてみれば二つの陣営の争いなのですが、それぞれの陣営のなかには異なる事情や利害や目的をもつ異なる立場が複数存在し、そして、考えてみれば当然ですが、一人一人の人物もまた、それぞれに異なる事情に縛られ、異なる思いを抱いてこの戦争のなかで行動しています。そして、個人の事情は必ずしも所属する集団の利害と一致するとは限りません。この物語は例えて言えば、二人の人物が向き合ってボールをやり取りするテニスのような競技というより、22人のプレーヤーが二つの陣営に分かれて一つのボールをやり取りするサッカーのような競技に近い物語だと言えます。そして、ここでボールにあたるものが、主人公のバナージと、彼にしか操縦できないガンダムなのです。
しかし、サッカーと異なるところは、ボールをやり取りする陣営が二つでなければならないと最初に決まっているわけではないところです。バナージとガンダムが、様々な立場にある集団に取りあわれ、それらを次々と移動していくことで、膠着し、動かし難いと思われた集団間の関係が少しずつ動いていくのです。考えてみれば、それぞれの集団はそれぞれに異なる事情をもち、目的や利害も必ずしも一致していない以上、敵/味方の線引きも自明ではないはずです。そのような動きのなかで、集団や個人間の関係が変化していき、地球の側に所属する戦艦ネェル・アーマガは、ネオ・ジオンから距離を置いたガランシェール隊の一部と合流し、地球側からもネオ・ジオン残党側からも距離を置いた独自の立場として、バナージやミネバとともに「ラプラスの箱」を目指すことになります。
ここでは、少なくとも与野党逆転とは別のこと(変化)が起こっています。二大政党制に対して第三の道(三つ目のチーム)が付け加えられた、ということとも少し違います。例えて言えばこれは政界再編であって、全体の構造が書き換えられたということと等しいと考えられます。違う構造が出現したのです。バナージは確かに、状況の鍵となる重要な存在ではありましたが、二項対立的構造のなかでは、地球の側に着くのか、ネオ・ジオンの側に着くのかの二つの選択肢があるだけでした。しかし彼にはどちらもが「違う」ように思われました。とはいえ、彼一人が独力で第三の道として「箱の力」を行使し得ると考えるのは現実的ではありません。
しかしそこで、1チーム11人として、2チーム22人でゲームしているうちに、いつの間にかそれが、9人と8人と5人の3チーム22人でする別のゲームに生まれ変わってしまっていた、というようなことが起こったのです。複数の集団が、バナージと、彼が父から託された「箱の鍵」であるガンダムというボールを取り合いながら、まるで双六のようにラプラスの箱へと近づいてゆくという、ピスト財団によって仕組まれたゲーム(と言ってもこれは戦争ですが)が、地球連邦政府対ネオ・ジオンという二項対立の構造から別の構造へと、構造の書き換えを促したのです。そしてその構造の変化によって、バナージとミネバに、彼ら独自の可能性を試すための場が開かれたのです。
場当たり的なブリコラージュ
ここで重要なのは、ネェル・アーマガとガランシェール隊、それにバナージとミネバによる寄り合い所帯は、状況の推移のなかで偶発的に(ブリコラージュ的に)生まれたものであり、前もってプランされていたり、理念の摺合せや契約などがあったわけではないということです。プランや理念はむしろ可能性を狭め、硬くしてしまいます。「何の確信もなくただ善かれと信じて」「心に従え」等、作中に現れるこれら無責任とも捉えられる肯定的な言葉の意味は、未知の可能性は完璧なプランではなく場当たり的なブリコラージュによってこそ開かれる、ということを示すものではないでしょうか。そして、この偶発的結びつきの必然性は、結びつきが持続することによって事後的に明らかにされることになるという性質をもつものでしょう。おそらくこの点が、バナージの「可能性」と、フル・フロンタルの「構想」との違いに関わるのではないでしょうか。
この項、続く。次回3月1日(水)更新予定。
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