虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第18回 フィクションのなかの現実/『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』(2)

4月 12日, 2017 古谷利裕

 
 

すずの、夢うつつ性

であるなら、『この世界の片隅に』という物語は、フィクションが強力な現実によって砕かれてしまうという物語であり、それを通じて戦争(という強力な現実)の悲惨さを訴えようとする物語なのでしょうか。そうではないと考えます。確かに『この世界の片隅に』という物語は、戦争という大きな現実によってフィクションがどんどん貧しくなり、力が弱くなってゆく過程を描いていると言えますが、もう一方で、あまりにも強すぎて対抗しようもない圧倒的な現実が支配するなかでも、フィクションはなおも機能し、人はそのなかで生きているのだということを示している物語だと考えます。それを、これから見ていきたいと思います。

まず、この物語の大きな特徴の一つに、主人公であるすずの存在があると言えるでしょう。彼女はいつもどこかぼんやりしていて、夢うつつです。そしてそのことと、彼女の他のいくつかの特徴とは切り離し難く結びついています。彼女は、(1)空想好きで物語をよくつくり、(2)絵を描くのが好きで、(3)方向音痴でよく道に迷います。夢うつつとは文字通り、夢(フィクション)とうつつ(現実)との区別があやふやであるということです。それは、自分は今、夢のなかにいるのか現実の元にいるのか、という、自分の位置があやふやであるということです。すずは、結婚した後の最初の里帰りの時、眠りこけていて母親から起こされ、「今、呉にお嫁に行った夢を見ていた」と言って家族を呆れさせます。さらに、夫の周作との会話のなかで、「今ここで、昔の知り合いに出会ったら、周作との今までの生活がすべて夢だったということになってしまうのではないか」という不安を語ります。このことはつまり、すずには、自分が今、ここで経験している事柄に対して、それが夢や空想であるのか、現実であるのかについて、確定的な確信がないということを意味するでしょう。確定されていないから、夢とうつつが反転可能なものとして認識されているのです。

あるいは、幼馴染の水原のために「波のうさぎ」の絵を描いてあげる場面では、水原が「波がうさぎのように跳ねている」と言うのに対して、実際に海の上をうさぎが跳ねている絵を描きます。絵を描くすずの右腕によって、「うさぎのような波」が「波のうさぎ」に、直喩が隠喩に変化するのです。うさぎのような波であれば、それは間違いなく波であってうさぎではありませんが、波のうさぎとなると、それは波でもあり、うさぎでもあるものになります。すずの描く絵によって、波(現実)とうさぎ(フィクション)は、同等の重さをもつようになり、その位置が交換可能なものとなるのです。

夢とうつつという二つの場所があり、それが(少なくとも、すずの感覚としては)交換可能であることは、この物語を支えるもう一つの重要な要素と関係があります。それは、この物語が、広島と呉という二つの場所についての物語だということです。広島も呉も、どちらも現実の場所ですが、広島から見れば、広島が「ここ」であり呉が「そこ」ですが、呉から見れば、呉が「ここ」であり広島が「そこ」てす。そしてすずは、広島市の江波から、呉市の長ノ木へと嫁いでいくのです。つまり、今まで「ここ」だった広島が「そこ」になり、「そこ」だった呉が「ここ」になるという具合に、意味が交換されるのです。

「ここ」も「そこ」もどちらも現実であるとしても、「わたし」からみれば「そこ」は距離として隔たった場所であり、馴染みがないという意味では現実味は薄いと言えます。ただでさえ夢うつつであるすずに、いきなり馴染みのない土地を「ここ」として生きることが強いられるのです。そして、馴染みの場所は「そこ」へと遠のきます。すずが、周作との結婚生活をどこか夢のように感じていたとしても仕方がないと言えるでしょう。
 

フィクションのなかでの重要な出会い

この物語において、フィクションと現実、そことこことが交換可能であるという気配が濃厚であることは、二つの重要な出会いが「フィクション」として描かれているという事実からもみてとることができます。一つは後に夫となる周作との出会い、もう一つは、後に遊女となるリンとの出会い。この二つの出会いが、すずによって作られた物語や空想として示されるのです。

すずは、夫である周作から見初められ、求婚されて北條の家へと嫁いでいきますが、すずには周作と出会った記憶がありません。しかし映画では二人の出会いが語られています。映画の冒頭、砂利船に乗せてもらって中島本町まで兄の代理でお使いに行った帰り、すずは、クリスマスで華やいだ街をうっとりと眺めるうちに道に迷ってしまいます。後にすずは、妹のすみにこの時の顛末を絵を描きながら「物語」として語って聞かせます。ここで絵を添えて語られる、すずと周作が人さらいのバケモノに連れていかれそうになったところを、すずが機転を利かせて助かった、というエピソードは、あきらかにすずによって創作されたものです。つまり、すずと周作は、すずがつくった物語(と描いた絵)のなかで出会ったのです。

また、すずは、大潮の日に草津にある祖母の家で昼寝をしている時、天井裏から這い出してきて食べ残しのスイカをかじる謎の子供をみます。すずはこの子のために新しいスイカをもらってくるのですが、戻った時には子供は消えています。兄によってこの子供は座敷童子だと解釈されますが、寝ぼけたすずが空想を現実と混同したかのように描かれています。すず自身もそう思っているでしょう。しかし後にすずは、闇市に買い物に出かけた帰りに遊郭に迷い込んだ時、道を教えてくれた親切な遊女リンによって、自分が空想だと思っていたエピソードを相手の口から聞かされ、あの空想が実際にあったことであるらしいと知るのです。さらにここでは、空想の座敷童子=リンは、現実のスイカに吸い寄せられ、現実の遊女=リンは、すずが地面に描いたスイカなどの食べ物の絵(つまりフィクションのスイカ)に吸い寄せられてすずのもとに現れるのです。現実とフィクションが互いに食いあうように交叉しています。

フィクションの世界で出会った周作が、現実の世界ですずに求婚し、空想のなかで出会ったリンが、現実の世界ですずを道案内する。ここでもまさに、現実とフィクションとは排他的に対立しているのではなく、互いに食い合うように交叉しているのがみてとれます。すずは周作に、「この世界の片隅にわたしを見つけてくれてありがとう」と言うのですが、逆に考えれば、すずはフィクションの世界で周作を見つけた、とも言えるのではないでしょうか。あるいは、貧しく、現実では誰からも相手にされなかった少女時代のリンを、すずはフィクションの存在として(フィクションの登場人物のようにして)発見した、と。あちら側の世界で周作やリンを見つけたすずが、こちら側の世界で周作やリンから見つけられる。フィクションと現実、「そこ」と「ここ」とは、互いに食いあうように交叉して繋がり、影響しあっているのです。

(もちろん、常識的に考えれば、すずと周作との間には現実上でなにがしかの出会いがあって、しかし、夢うつつで空想好きのすずは、それを創作された物語としてしか認識、記憶できていないということでしょう。しかし、すずのような主人公をもつことによって、この物語に、フィクションと現実との交叉的構造が生まれる、ということは言えると思います。)
 

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