虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第18回 フィクションのなかの現実/『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』(2)

About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
Published On: 2017/4/12By

 
 

失われる右腕と、描く右腕

戦争という現実、特に原爆の投下という極めて強い現実により、フィクションの機能は完全に失われてしまったのでしょうか。しかし、この物語のラストでは、再び「ここ」と「そこ」との通路が開かれて、極めてささやかながら、フィクションが立ち上がり、稼働するのが認められます。

原爆により右腕を失った母親に連れられて逃げる子供の姿が作中に登場します。右腕を失った母親は、そのまま崩れるように亡くなってしまいます。一人ぼっちになり、何日も過ごした子供は、周作の仕事の都合で広島に来ている右腕のないすずを見つけ、母のしるしをみつけたかのように、その傍らに寄り添います。そしてその子供は、そのまま北條の家へと連れ帰られ、亡くなった晴美の服が与えられます。ここで、右手を失い、晴美を失ったすずと、「右手を失った母」を失った子供が、互いの失ったものを媒介に結びつくのです。本来何の関係のない双方のこのアナロジー的な結びつきこそ、フィクションの交叉的な機能と言えるでしょう。このようにして、すずにとって、「ここになったそこ」である呉と「そこになったここ」である広島との交叉的絡み合いも、ささやかに回復されるのです。

映画では、ほんの一瞬ですが、この被ばくした母子が、広島を離れる時にすずが描いていた広島県産業奨励館(後の原爆ドーム)のスケッチの右下の描かれた母子であるかのような表現がなされています。つまり、すずと周作が、そしてすずとリンが、フィクションのなかで既に出会っていたのと同様に、すずとこの子供も、フィクション(絵を描くこと)を媒介として既に出会っていたことになります。この出会いは、今は失われてしまったすずの右手によって既に紡がれていたと考えられるのです。右手は、失われることによってだけでなく、描くことで、既に両者を繋いでいたのです。
 
この項、了。次回5月10日(水)更新予定。

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ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
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