虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第22回「ここ-今」と「そこ-今」をともに織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』 (1)

About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
Published On: 2017/8/2By

 

【単行本のご案内~本連載が単行本になりました~】

 
現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
 
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
 

【ネット書店で見る】
 
 

 古谷利裕 著
 『虚構世界はなぜ必要か?
 SFアニメ「超」考察』

 四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
 ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]

 
 

再び「双子のパラドックス」

この連載の第8回で特殊相対性理論について書いた時に、「双子のパラドックス」と呼ばれるストーリーを取り上げました。AさんとBさんという双子がいたとします。弟のAさんは地球に残り、兄のBさんは宇宙船に乗って非常に速いスピードで地球から離れていくとします。特殊相対性理論によると、高速で運動している慣性系は、静止している慣性系よりも時間がゆっくり進みます。つまり、地球にいるAさんよりも、宇宙船で移動するBさんの方がゆっくりと歳をとることになります。

しかし、ことはそう簡単ではありません。相対性理論によれば、空間や時間にかんする絶対的な座標は存在しません。あらゆる運動、あらゆる座標は相対的なものとなります。すると、静止と等速直線運動の区別がなくなってしまうのです。仮に、Bさんが等速で地球から遠ざかっているとした場合、Bさんの宇宙船を静止している慣性系とみなし、地球の方を高速で遠ざかっている慣性系と考えることも可能になります。この場合、BさんよりもAさんの方がゆっくりと歳をとることになります。このように、Aさん(地球)を基準(静止)にとるか、Bさん(宇宙船)を基準(静止)にとるかによって、結果が逆転してしまうのです。これは、AさんからBさんを見る時間系と、BさんからAさんを見る時間系とが分離しているということです。

(もしBさんの乗る宇宙船の速度が変化するとしたら、宇宙船は慣性系ではなく加速度系となり、加速度系は慣性系よりも時間がゆっくり進みます。よく「双子のパラドック」と混同される「ウラシマ効果」は、慣性系といえる地球と、加速度系である宇宙船との違いによって説明できます。)

実際にはこれはパラドックスではなく、特殊相対性理論に矛盾することなくBさんの方がゆっくりと歳をとるということがいえます。しかしそれは、Bさんが再び地球へ帰ってくることが前提です。連載第8回では、宇宙船が地球に向かってターンする時に加速度系になるからと説明しましたが、それについてもう少し詳しくみていきましょう。ここで問題なのは、Aさんを基準とした時のBさんとの同時性と、Bさんを基準とした時のAさんとの同時性が食い違うということです。そして、それがどう食い違うのかということを具体的にみてゆくことで、パラドックスが解けるでしょう。

まず、連載の第8回にも登場したミンコフスキー図をみてみましょう。Aさんが地球にいて、Bさんが光速の半分の速さで地球から遠ざかっていくとします。すると地球にいるAさんの座標の時間軸と空間軸が90度で交わるのに対して、宇宙船にいるBさんの座標の時間軸と空間軸の交わりは45度に縮みます。ここで、原点から45度で伸びている線は、宇宙船と同時に地球を出た光の軌跡をあらわします。光速で進む光においては、時間軸と空間軸とがつぶれて重なるのです。

なお、この図は二つの座標系の関係をあらわしているのであって、地球を基準にしているということではありません。ミンコフスキー図において「同時」は、空間軸と平行に引かれた線が時間軸と交わるところに求められます。図を見てわかる通り、地球を基準とした宇宙船との同時と、宇宙船を基準とした地球との同時が食い違うことになります。

さらに、Bさんの乗った宇宙船が、ある地点でターンをして地球に戻ってくることを考えにいれます。この時、宇宙船に乗っているBさんの座標系(時間軸と空間軸)は、地球から離れている時と、地球へ向かっている時とでは傾きが変わります。次の図は、Bさんが地球を出発して帰ってくるまでの間で、地球を基準とした宇宙船との同時と、宇宙船を基準とした地球との同時との違いを比較したものです。見てわかる通り、Bさんが減速し、加速して地球へ向かって引き返そうとする時に、同時線の傾きが大きく変化します。この時、Bさんの座標系を基準とした時のAさんの時間の進み方が一気に早くなることになるのです。Bさんの宇宙船が減速し、地球に向かってターンし、そして地球を目指して加速を行うこの短い間に、地球にいるAさんにはとても長い時間が経過することになります(註1)。

「双子のパラドックス」においては、Bさんは、出発して戻ってくる(つまり、Aさんと同じ「同時」に再び合流する)ので、「Bさんの方が若い」という結論めいた結果を導くことができます。しかし、より一般的に考えると、等速直線運動する二つの座標系が、互いに、相手の時計の進み方が遅いと判断する関係にあることはかわりません。同じ座標系に合流しない限り、どちらにとっても常に相手の方が遅いのです。そして、同時性がすべての座標系で絶対的ではない(ニュートン的な絶対時間はない)ということを認める限り、これが矛盾にはならないというのです。「双子のパラドックス」の解には納得したとても、このことの奇妙さには、なかなか腑に落ちないものを感じます。

物理学的に描かれた時空構造やその変換規定としてはまったく矛盾のないこのストーリーを、矛盾であるように感じてしまうのはなぜでしょうか。一つには、わたしたちの常識や直観が、ニュートン的な絶対時間、絶対空間という枷に囚われてしまっているからだという点が挙げられます。生存のために相対論的な判断を行う必要がほとんど生じない地球上で進化してきたヒトにとって、「同時」という概念は見たままに自明であり、観測者の位置により「同時」がずれるという認識は進化上でも想定外のものであると言えます。等速直線運動をする二つの系では常に相手の方の時間が遅いということを矛盾のように感じてしまうのは、わたしたちが思考において用いる空間や時間という概念が適当でない(充分でない)からだと考えられます。

「同時」というのは一体どういうことでしょうか。ニュートン的な絶対時間の元では、出来事αと出来事βとが同時刻に生じたということを確定する客観的な時計(絶対時間)が存在しました。しかし、あらゆる事柄を貫く絶対的な基準としての時間が成立しない時に、空間的にも因果的にも隔たった出来事αと出来事βとをともに「今」に結びつけるものは何なのでしょうか。それとも、そんなものは存在せず、各々の観測者たちは皆それぞれに切り離された固有の異なる時間系のなかを生き、それぞれの時間系にのみ意味のある、異なる「今」や「同時」たちが個別に無数に発生するだけなのでしょうか。現在では、きわめて精度の高い光格子時計を用いることで、この地球上でも、標高差(重力の強さ)による時間の進み方の違いを測定できてしまいます(これは一般相対性理論にかかわる事柄ですが)。観測者AにとってはAの「同時」があり、しかしそれは、観測者Bにとっての「同時」とは異なっていて、決して重なることはないと考えるしかないのでしょうか。

わたしにとっての「ここ-今」があり、あなたにとっての「ここ-今」がある時、わたしにとって〈あなたの「ここ-今」〉は、「そこ-今」となります。これは、あなたにとっても同様で、わたしにとっての「ここ-今」は、あなたにとっては「そこ-今」です。さらに、「ここ-今」の「今」と「そこ-今」の「今」を自動的に「同時」である(あるいはずれている)と決定するための絶対的な基準を期待することは、現在ではもうできません。このような時に、この二つの「今」を、同時と断定できないまでも、ともにある何かとして織り結び、関係づけることは可能なのでしょうか。それを可能にするためには、空間や時間について、あるいは、わたしやあなたについて、それらをどのようなものとして考える必要があるのでしょうか。
 

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About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
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