治らなくても大丈夫、といえる社会へ――認知症の社会学 連載・読み物

治らなくても大丈夫、といえる社会へ
vol.01 「安楽死」と書いてくれたあなたへ

11月 27日, 2018 木下衆

 

認知症患者の思いやその人らしさを尊重する介護――現在私たちの社会は、そうした介護を目指すべきものとして掲げている。しかしそうした理念は、突然私たちの社会に生まれてきたのではない。それは長い歴史をかけて、介護に関わる人びとが作り上げてきた、私たちの社会の一つの到達点なのだ。認知症という言葉がないどころか、「痴呆」という言葉すら身近でない時代に介護を経験した人。介護保険といった制度もない時代に、介護家族が相談できる場を立ち上げ、在宅での看取りを目指した人……。介護家族の悩みの歴史を辿りながら、「治らなくても大丈夫」といえる社会のあり方を構想する、気鋭の社会学者による連載です。【編集部】

 
 
治らなくても大丈夫、といえる社会へ――認知症の社会学
vol.01 「安楽死」と書いてくれたあなたへ

 
 
 「認知症が進行した人のために安楽死制度を認めるべきではないか」
 
 この記事は、ある大学での講義で、こうやって私に感想を書いてくれた方へのお返事です。というよりも、この連載全体があなたへのお返事です。
 
 私の講義はこんな内容でした。家族の介護を理由に仕事を辞めて介護に専念した結果、経済的に苦境に陥った中高年世代(介護離職問題)。あるいは、10代や20代で家族の介護を担うことになり、就職段階で困難に陥る若者たち(ヤングケアラー問題)。――あなたはこんな講義の後に、おそらくは迷いながらも、安楽死こそ「解決」なのではないかと感想を寄せてくれました。
 
 あなたの意見は、実は一人ではありません。100人受講していれば、毎年4、5人はそうやって書いてくれる人がいます。決して多数派ではありませんが、珍しくもないのです。そしてあなたが真面目に考え、ひょっとしたら私に怒られるかもと思いながら書いてくれたことも、わかっているつもりです。
 
 あなたの感想は、こんなふうに展開しました。
 
 「認知症が進行して、人格や人間らしさを失ってまで、私は生きたいとは思わない」
 「社会に貢献できない、何より家族に迷惑をかけてまで生きたいと私は思わないし、この人たちも思っていないのではないか」
 
 あなたは、あるドキュメンタリーに描かれた認知症の人の姿を「醜い」と書いていましたね。私も動揺しましたが、あなたが自分自身の感想に動揺していることも、文章から伝わってきました。
 
介護家族の揺れ動きと、あなたの迷い
 
 「この認知症の人が死んでしまったら、家族は楽になるのに」
 
 こういう言葉は、介護から縁遠い世代のあなたから聞かれるだけではありません。実は、介護家族の人も追い詰められたとき、そんなことを思うそうです。
 
 「この人の首を絞めたら楽になると思った」
 「実際に手をかけたけど、何とか思いとどまった」
 
 そうやって私に話してくれた介護家族もいます。
 
 あるいは認知症の人本人が、「死にたい」という趣旨のことを口走ることもあります。
 
 「僕はもう何の役にも立たないから死にたい」
 
 そう夫に言われて、必死で止めた女性もいました。
 
 自分の大切な人だからと一生懸命に介護している人でも、あるいはそうやって一生懸命に介護しようとするからこそ、その思いは揺れて悩む。そのことは、講義の中でも紹介しましたね。
 
 あなたはその、見ず知らずの介護家族の悩みや揺れに、「今の自分だったらどう考えるだろう」と一生懸命に立場を置き換えて、考えてくれたのだと思います。
 
 だから私は、「認知症の人のために安楽死制度を」と書いてくれたあなたの感想から逆に、今のあなたが置かれている立場を考えてしまいます。あなたの感想からは、「人に迷惑をかけては、一人前の人間ではない」「何かの役に立たなければ、生きていてはならない」という思いが読み取れました。相手に迷惑をかけず、できるだけ役に立つ。あなたは、それこそが目指すべき良い人間なのだと考え(教えられ?)、真面目に生きてきたはずです。だから、介護家族と自分を置き換えて、「フルタイムで働けなくなるなんて、一人前でなくなった」と嘆き、認知症の人と自分を置き換えて、「下の世話までお願いして、自分はこうはなりたくない」と思う。
 
 でも、あなたもきっとその考え方に迷いがあると思うのです。私はあなたが、本気で「この認知症の人は死んだら良い」と思っているか、実は疑問です。「安楽死」という強い言葉を書いてみて、それで自分が本当に満足なのか、考えたと思います。あるいはそうした強い言葉に私がどう反応するか、試してみたところもあるかも知れません。あなたの考えは必ずしも固定せず、むしろ揺れていたと思う。
 
迷惑をかけても、役に立たなくても
 
 もし、あなたが認知症ケアの話を聞いてすごく価値観が揺らいだのだとしたら、それは当然だと思います。なぜなら認知症ケアは、今までのあなたの価値観とは対極にある考え方のもとにあるからです。「迷惑」というあなたの感想になぞらえるなら、「誰かに迷惑をかけて生きていく人を、最後まで皆で支えよう」としているのですから。しかも、経済的な意味で「役に立つか立たないか」という問題は、「どうでも良い」として扱われます。
 
 そもそも、認知症の人を「醜い」と書いたあなたは、「この人たちは一人前の人間と呼べるのか」という段階で、戸惑っていたかも知れません。介護家族の中にも、思わず「夫は半人前になってしまった」と嘆いていた人がいました。
 
 しかし、そうではない。下の世話が必要になるほど病状が進行したり、いろいろな記憶を失ったとしても、認知症の人は一人前の人間なんです。
 
 よかったら、『認知症とは何か』という本を読んでみてください。小澤勲という名医が書いた、素晴らしい本です。この中で小澤さんは、患者の自己同一性アイデンティティをキーワードの一つにしています。認知症が進行した人のアイデンティティというと、あなたには違和感があるかも知れません。だけど認知症の人が苦しむのは、どれだけ症状が進行しても、その人が自分らしさを保とうと頑張るからなのです。認知機能を始め、いろいろな機能が低下するからこそ、人は自分らしさを何とか守ろうとします。自分の生活を意味あるものとしようとするわけです。だからこそ、ある人は「思い出の場所に帰りたい」と徘徊し、ある人は「大切な物が盗られた」と盗られ妄想に苦しむ。小澤さんの本は、そんな認知症のメカニズムをわかりやすく書いています。
 
 あなたはドキュメンタリーで、徘徊したり、部屋の中で農作業の動作を繰り返したりする認知症の人の姿を見て、「怖い」と思ったかも知れません。でもあれこそ、あの人が病気を抱え、何とか自分らしさを保とうと頑張る姿だったんです。
 
 「そんなこと言っても、認知症の人は何もできなくなるのではないか」
 
 あなたはそう思うかも知れません。だけど先ほど紹介した小澤さんは、認知症の人の力は「埋もれている」と表現しています。どれだけ症状が進行して、何もできなくなったように見えても、誰もがその人らしい力を秘めている。ただそれを発揮できるかは、認知症の人の周りにいる私たちが、その人のためにどんな環境を用意できるかにかかっています。例えば、おにぎりを作る、針に糸を通す、畑を耕す、しめ縄をなう(!)、などなど。私たちが、認知症の人それぞれの歴史を知って、上手く対応できれば、誰もが最後までその人らしさを発揮できるはずです。
 
 「認知症の人と家族の会」という団体は、「ぼけても心は生きている」というスローガンを掲げています。どれだけ認知症が進行しても、その人がその人でなくなったわけではない。心が生きているからこそ辛く、辛いからこそさまざまな症状も現れるのだ、と。
 
 だとしたらあなたは、どんな社会の方が好きでしょうか。私やあなたが認知症になったときに、「人に迷惑をかけて役に立たないから、安楽死はどうですか」と勧められる社会か、あるいは「人に迷惑をかけることは心配しなくても良い。あなたはあなたのままだから、みんなで支えていくよ」と声をかけてくれる社会か。
 
 そしてこれは多分、人間というものをどう捉えるかに深く関わるんです。認知症の人も一人前の人間で、人に迷惑をかけても、別に経済的な意味で役に立たなくても良くて、みんなに支えられて生きていて良いのならば、今20歳前後のあなたも、別に誰かに迷惑をかけても、特に役に立たなくても、誰かに支えられて生きていて良いんです。それでもあなたは、一人前の人間と呼ばれるべきなんです。
 
この場を使って、これからあなたに伝えたいこと
 
 こんなふうにこの記事ではずいぶん饒舌に語っていますが、実は僕は、講義の中であなたに上手くお返事できたか、とても不安なんです。ケアに関係する講義を何回か行ったり、ドキュメンタリーを上映したりする。しかしそれが、あなたへの答えになっていたでしょうか。
 
 だから、この連載の話を勁草書房のHさんから頂戴したとき、私はこの場を、あなたへのお返事の場として活用しようと思いました。人に迷惑をかけず、誰かの役にたたなければ一人前の人間ではないと一生懸命生きてきた、20歳前後のあなた。自分と相手の立場を置き換えて考え、自分の価値観に迷いが生じたあなた。もちろん、せっかくなのでいろいろな立場の人にこの連載を読んでもらいたいと思っています(例えば、介護中の人など)。でも、私は常にあなたが読んでくれることを願って、この連載を書きます。
 
 そしてせっかくだから、大学の講義や論文の枠組みには入らないような話を、ここに書いてみようと思います。今回の小澤さんの本のように、あなたに読んでもらいたい本を紹介し、私が知っているお話をする。それが、今後の連載の進み方です。
 
 あなたの意見や価値観も揺らいだり、迷ったりしているはずです。
 
 そしてそれは歴史を辿れば、介護家族にとっても同じことでした。はじめから「ぼけても心は生きている」なんて言えていたわけではない。この連載ではその歴史を辿りながら、じっくりとお話したいと思います。
 
 最初の講義で、「私は関西を中心に、認知症ケアの中でも特に家族介護について、社会学の立場から研究してきた」と自己紹介したのを覚えているでしょうか。これからお話することはあくまで、そのごく限られた範囲の内容です。ただ、それぞれのエピソードから私たちは何を考えられるのか。丁寧に考えながら、書き進めたいと思っています。
 

小澤 勲『認知症とは何か』(岩波新書)
2005年3月刊行
ISBN:9784004309420
「痴呆」から呼称が変更された「認知症」。この病を抱える人たちはどのような不自由を生きているのか。

 

 
 

 
次回は「認知症」という言葉はもちろん、「痴呆」という言葉さえ一般的ではない時代に義母の介護をしていた女性のお話を通じ、介護する人・される人と周囲の人との関係を考えます。50年前と現在で、何が変わり、何が変わらないのか……そんなお話が展開します。
 
*編集部リード文に「認知症という病名」という表現がありましたが、「認知症という言葉」に修正しました(2018.12.1、編集部)

木下衆

About The Author

きのした・しゅう  大阪市立大学都市文化研究センター研究員、東京都健康長寿医療センター研究所非常勤研究員ほか。1986年、大阪市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。博士(文学)。専門は医療社会学、家族社会学。著書に『家族はなぜ介護してしまうのか(仮題)』(世界思想社、2019(予定))、『最強の社会調査入門:これから質的調査をはじめる人のために』(ナカニシヤ出版、2016年(共編著))、『認知症の人の「想い」からつくるケア:在宅ケア・介護施設・療養型病院編』(インターメディカ、2017年(共著))。