治らなくても大丈夫、といえる社会へ――認知症の社会学 連載・読み物

治らなくても大丈夫、といえる社会へ
vol.02 誰かを責めるのをやめませんか?――1960年代末、「嫁さんが悪い」と言われ続けた人

12月 25日, 2018 木下衆

 

今回は「痴呆」という言葉さえ一般的ではない時代に義母を介護していた女性のお話を通じ、介護する人・される人と周囲の人との関係を考えます。50年前と現在で、何が変わり、何が変わらないのか――そんなお話が展開します。【編集部】

 
  
「認知症」という言葉のない時代
 
 「認知症の人の介護がここまで大変だとは知らなかった」
 
 あなたはこんなふうに、講義の感想に書いてくれました。私はその日、重度の認知症を患う母を介護する、ある男性のドキュメンタリーを上映しました。徘徊したり、便をトイレでない場所で済ませたり――そんな母のために昼夜を問わず奮闘し、仕事まで辞めることになる男性の姿に、あなたは動揺したと思います。それが前回紹介した、認知症の人の「安楽死」という提案につながったはずです。
 
 ただ、あなたは少なくとも「認知症」という言葉も、その介護が「大変だ」ということも知っていたと思います。「何を当たり前のことを」と思われるかもしれません。
 
 しかし実は、認知症という言葉を誰も知らない、というよりもそんな言葉がない時代もありました。今大学生のあなたなら、物心ついたときには認知症という言葉があったはずです。しかしこの言葉は、それまで使われていた「痴呆」という言葉が侮蔑的で実態を正しく表していないとして、2004年に導入されたものでした。
 
 さらにさかのぼれば、この痴呆という言葉すら一般的ではない時代がありました。

 有吉佐和子の小説『恍惚の人』をぜひ読んでみてください。1972年に出版されたこの本は、痴呆が社会問題化するきっかけになったとも言われます。主人公・昭子が、義父・茂造の介護と仕事の両立に追われて奔走する様子は、読み物としてとても面白いと同時に、当時の介護がどんな状況で行われ、介護家族が何を考えていたのか、その一端を追体験させてくれます。痴呆という言葉も身近でない時代、おじいさんが壊れた、耄碌(もうろく)したと、昭子たちは右往左往します。徘徊する義父を追跡し、夜毎彼を抱えて庭で放尿させ――そんな1年弱の生活を描いた、介護小説です。
 
 今回紹介するのは、1972年、この『恍惚の人』を書店で手にとって、「〔現実は〕こんなもんと違うよね」「これくらいで済んだらやさしいもんや」と思ったという、一人の女性です。
 
 Aさんと呼びましょう。彼女は1967年から約5年間、今でいうアルツハイマー型認知症を患う義母の介護を、関西でしていました。義母は『恍惚の人』が出版される直前に、亡くなりました。つまりAさんは、認知症という言葉がなく、痴呆という言葉も一般的ではない時代に、介護をしていたわけです。
 
 この話で私は、Aさんや義母だけでなく、彼らを取り巻く近所の人たちにも注目してもらいたいと思っています。介護に奔走する人が目の前にいたとき、私たちは何を感じて、どんな言葉をかけるのか。50年前と現在とで違う点もあれば、共通する点もあるはずです。
 
「お年のせい」にされる
 
 Aさんが結婚したのは1960年、22歳のときでした。結婚しても仕事は続けたいと思っていたけれども、夫の両親は結婚の条件として「〔仕事は〕辞めてくれ」と言ってきた。そこで彼女は仕事を辞めて主婦になり、夫と夫の両親と同居しての生活が始まりました。しばらくすると長男も生まれ、Aさんの家庭は3世代同居となります。
 
 しかし結婚からわずか7年後、義母の様子がおかしくなり始めます。水道の水を流しっぱなしにしたり、ヤカンを空焚きしてしまったり、などなど。こんなこともあったそうです。

A:〔私と〕一緒にお昼ご飯食べてますやん。それで食べてる途中でフーッとお箸持ったまんまでサーッと出ていきはるんですよね。どこ行くのかなって、ついていったらお隣のおうちササーッと入っていって、「私朝から何にも食べてまへんねん」って(笑)。

 こんな人がご近所にいれば、今のあなたなら「この人は認知症ではないか」と疑うに違いありません。テレビなどで見る、あまりに典型的な姿ですから。しかし1967年当時、Aさんの周囲の人たちはこんな対応をしたそうです。

A:今やったらまあ皆さん「認知症」って言ったら理解してはるやろけど、その頃は〔義母の言うことを〕本気にして、差し入れを持ってきてくれる人があるんですよ。
木下:それを、言ったら、真に受けて、
A:まともに、そう。で「おばあちゃんに食べさしたげて、ホンマに食べさしたげてね」なんて言って持ってきはるんですよ(笑)。せやからそれがつらい。

 なんでこんなことになるのでしょう。1960年代の終わりはまだ、認知症という言葉がないどころか、痴呆という言葉も一般的ではなかった、と言いました。つまりそもそも、この義母のような状態が「病気」だとは、思われていなかったわけです。Aさんは当時、誰に相談しても「それはお年のせい」で済まされたと言います。病院に行ってもです。

A:その頃からね、もうどんどん変なことが続きまして、トイレの場所が分からんようなるとか。だから今でいうたらきっとアルツハイマーなんやろうな、と思うんですけど、そのときはそんなん、診断も何もつかないです。〔病院で受診しても〕先生も「まあ、年のせいでしょう」ぐらいですよ。

A:誰も疑問にも思わないで「まあおばあちゃんも年のせいかな」って。ま、結局「年のせいか」で全部通過しますんでね。そういう時代でしたね。

 
「嫁さんのせい」にされる
 
 もっとも、義母のこの様子は、どう見ても普通ではありません。他所の家に上がり込んで食事を求めたり、あるいは家に帰れなくなったり。こんな状況が続くと、Aさんだけでなく近所の人もだんだん、「これはおかしい」と思い始めます。しかし、その原因が病気とはみなされない。ならば、何が問題にされるのか。
 
 近所の人たちは「嫁さん」、つまりAさんを責めだしました。「おばあちゃん」本人でも、その夫である「おじいさん」でも、息子(Aさんの夫)でもありません。

A:〔近所の店や銀行から〕電話かかってきて「おたくのおばあちゃんまた来てはりまっせ! どないか、もう見張ってなはれ!」いうて怒られて、私も。

A:もう「嫁さんが悪い」っていうことになるんですよ。とりあえず何したって「嫁さんが悪い」。そやから「もっとちゃんと見張っときなはれ」「もう〔食べてないって〕言わんようにたらふく食べさしたげなはれ」いう感じで。たらふく食べてはるのに(笑)。

A:とりあえずあの当時、嫁いうたらもう、なんかもうすべてが悪者(笑)。

 24時間完璧に見張っていない嫁が悪い。とにかく嫁に原因があるはずで、彼女が悪い。――こうやって周囲から責められ、Aさんの中に「家の中で済ませられることなら、家の中だけで済ませたい」と、だんだん周囲との付き合いを避ける気持ちが生まれてきます。もちろん、「〔義母にも〕なるべく外へ出て行ってほしくない」と思います。ところが、義母が出ていけないようにドアの上の方にもう一つ鍵をつけると、今度はドアをドンドン叩いて「開けてー! 開けてー!」と大騒ぎになってしまう。そしてまたご近所から責められ、の繰り返しです。
 
 しかもこの当時Aさんの長男はまだ、幼稚園に通う年齢でした。「年のせい」で済まされて誰からも助けを得られず、あるいは逆に「嫁のせい」と責められ、昼夜なく介護と育児に追われる中で、Aさんの体重は37キロを切って「幽霊みたい」になっていきます。
 
 講義の中で、育児と介護が並行して進む「ダブルケア」という状態を紹介しました。1960年代にはまだダブルケアという言葉はありませんでしたが、Aさんもその状態でした。
 
 育児や介護の話題では、「世代間同居で問題が解決できるのではないか」という提案がしばしばされます。ただその提案は、「親の介護負担がなく、むしろ親が育児を手伝ってくれる」あるいは「孫世代は大きくなっていて、ときには介護を手伝ってくれる」という、(都合の良い)前提あってのことなのです。
 
誰かを責めるのをやめませんか?
 
 『恍惚の人』を読んで、「これくらいで済んだらやさしいもんや」と思ったAさんの感想は、決して大げさなものではないと思います。小説の主人公・昭子の周りには、介護の苦労を理解してくれる人や、手助けしようとしてくれる人が、近所にも職場にも何人もいました。無理解な人がいても、彼女を責めることはなかった。ところがAさんは、何をしても周囲から責められ続けていた。介護の期間が長いか短いか以上に、その周囲の反応が『恍惚の人』との最大の違いでしょう(だから、Aさんの話を聞いてから小説を読むと、私もやっぱり「現実はこんなもんじゃないよね」と思うのです)。
 
 私はインタビューしているとき、Aさんが当時どんなに辛かったか、彼女のことを考えていました。
 
 しかし後に記録を読み直しながら、むしろ、Aさんを責めていた近所の人たちはいったい何を思っていたのだろう、と気になり始めました。彼女に何か非があると、彼らは本気で思っていたのでしょうか? あるいは彼女を責めたら、本当になんとかなると思っていたのでしょうか? 義理の親と子どもの世話に追われて痩せ細っていく人に怒りをぶつける心のあり方を考えた時、私にはとても寒々としたものしか思い浮かびませんでした。当時の近所の人たちの振る舞いを、うっぷん晴らしやいじわると言うと言いすぎかもしれません。しかし少なくとも、親切ではない。
 
 私の講義の中であなたは、もし自分が介護する家族の立場だったら、と考えてくれたと思います。また私は、もしあなたが認知症の人本人だったら、と問いかけたはずです。
 
 しかし私たちは実は、認知症の人の「近所の人」の立場になる可能性が、一番高いのではないでしょうか(すでにその立場かもしれません)。そのときあなたは、何を思って、どう振る舞うでしょうか。もちろん、これまでにお話した1960年代や70年代と今の状況は大きく違います。公的な介護保険サービスもあれば、認知症についての知識もある。しかしそれでも、認知症の人が徘徊してどこかに迷い込む状況は、今も日常的にいろいろな場所で生じている。認知症の人が線路に侵入して電車にはねられる事故が問題になったことを、覚えているかもしれません。
 
 そんなとき、誰かを責めるのを止めませんか? 誰よりも困っているのは、病気と向き合う認知症の人本人であり、その人を介護する人たちなはずです。ところが私たちの社会ではあべこべ・・・・に、より健康で生活も安定している人たちの方が、病気を抱えていて生活も不安定な人たちを、「お前たちは自分たちを困らせた!」と責め立てたりする。そうやって、認知症の人本人や介護家族が責められる場面は、Aさんが介護をしていた時代だけではなく、今でも見られます。お前たちは迷惑をかけているのだ、と。
 
 もちろん、あなたも私も人間ですから、「もっとちゃんと見張っときなはれ」と思ってしまうこともあるかもしれない。
 
 だけど、その気持ちに向き合うべきなのは、認知症の人本人でも介護家族でもない、そんな親切ではないことを思ってしまう、私たち自身なはずです。そんなことを言っても何も解決しないどころか、介護中の人から外出する気力すら奪い、文字通り痩せ細らせるだけなんですから。
 
 では、どうしたら良いのか? Aさんが介護を終えてから8年経った1980年、介護家族同士で助け合い、そして幅広い立場から家族を支援することを目的に、家族の会を結成した人たちがいました。責めるのをやめて、助け合う社会へ。次回は、そんなお話をしましょう。
 

有吉佐和子『恍惚の人』(新潮文庫)
1982年5月刊行
ISBN: 9784101132181
老いて永生きすることは幸福か? 日本の老人福祉政策はこれでよいのか? 誰もが迎える〈老い〉を直視し、様々な問題を投げかける。

 


 
次回は1980年に結成された、ある家族の会のお話です。介護家族同士で助け合うだけでなく、認知症の人本人も支える取り組みが始まります。どんな人たちが、何を目指して集まったのか。そんなお話が展開します。
 
 
《バックナンバー》
〈vol.01〉「安楽死」と書いてくれたあなたへ
〈vol.02〉 誰かを責めるのをやめませんか?――1960年代末、「嫁さんが悪い」と言われ続けた人

木下衆

About The Author

きのした・しゅう  大阪市立大学都市文化研究センター研究員、東京都健康長寿医療センター研究所非常勤研究員ほか。1986年、大阪市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。博士(文学)。専門は医療社会学、家族社会学。著書に『家族はなぜ介護してしまうのか(仮題)』(世界思想社、2019(予定))、『最強の社会調査入門:これから質的調査をはじめる人のために』(ナカニシヤ出版、2016年(共編著))、『認知症の人の「想い」からつくるケア:在宅ケア・介護施設・療養型病院編』(インターメディカ、2017年(共著))。