【お知らせ】本対談連載ご登場の方々による書き下ろし単行本『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』(那須耕介・橋本努編著)が、2020年5月、ついに刊行となりました! この対談とあわせてぜひお読みください。また「けいそうビブリオフィル」では『ナッジ!?』の「はじめに」「おわりに」と各章冒頭をたちよみ公開しています。こちらもぜひご覧ください。→→【あとがきたちよみ/『ナッジ!?』】
那須耕介: ここまで5人の方々にリバタリアン・パターナリズムやナッジをめぐってお話をうかがってきたのですが、私の人脈の狭さもあり、法哲学や政治理論の研究者が中心でした。今回はじめて、実定法分野の先生のお話をおうかがいすることになるわけです。そこでまず、成原さんご自身の研究についてお聞かせいただけますか。ご存じない方もいると思うので、できれば、情報法がどういう分野なのかについてもお願いできますか。
成原慧: 法学には憲法、民法、刑法を中心とした伝統的な領域がありますが、情報法、環境法、消費者法、労働法、知的財産法あたりは比較的新しい分野です。これら新しい法分野は、それぞれ固有の対象に着目していて、情報法ですと情報という対象に着目した法分野ということになります。
情報法は、こうした捉えどころのない情報がつくられて、流れて、享受されていく過程にかかわる法的な問題を総合的・体系的に研究する分野です。
■情報法の2つの文脈
成原: 日本の情報法の歴史には、2つの文脈があります。1つはメディア法の文脈で、印刷メディアや放送メディアを通じてさまざまな情報が届けられる、その過程で生じる法的な問題を扱うものです。新聞記事による名誉毀損やプライバシーの侵害、あるいは引用と著作権との関係などです。従来多くの情報の生産、流通、消費のプロセスを担ってきたのは、マスメディアを中心とするメディア企業でした。新聞社、テレビ局、あるいはその担い手であるジャーナリストに関する法のあり方を問うてきたわけです。
もうひとつの源流は、情報公開、個人情報保護という分野です。情報の保護や公開に関する問題が扱われてきた分野で、日本では、1970年代から80年代にかけて、一部の先進的な地方公共団体が先駆けて個人情報保護法条例や情報公開条例を定め、やがて国レベルでも情報公開法や個人情報保護法が整備されました。
ただ、これらの法律はスタート時点ではマイナーな分野で、情報法がこれだけインパクトをもつようになったのは、やはりインターネットの発展が大きいですね。それまでの情報法は、行政機関やマスメディアといった一部の主体にしか関係ない、業法に近いところがあったのです。
■「一般人」にも法律問題が発生しはじめて……
成原: ところが、90年代にインターネットが発展すると、一般の個人もネットで簡単に情報を発信できるようになりました。そうすると、個人が表現の自由を実質的に享有できる環境が実現した反面で、掲示板に人の悪口を書いたり、私生活に関する情報を書いてしまったりして、名誉毀損やプライバシー侵害といった法的問題が顕在化しやすくなったんです。こうして情報法が注目の的になってきました。
また、従来のメディア以外にも、いろいろな企業が、個人情報を取り扱うようになるなど、情報法にかかわるようになり、ビジネスの場面でも注目を集め始めました。
那須: インターネットの登場は情報法の関心のあり方自体を変えたんですね。
成原: 当初は、インターネット上に「サイバースペース」という仮想空間が広がる中で、「サイバースペースは現実の世界となにが違うのか」ということが議論されていました。現実の世界であれば、法的に規制したり、あるいは共同体の社会規範により規制していくことができる。ところが、インターネット上では、情報流通の越境性や匿名性の高さなどにより、法や社会規範による規制が困難となる一方で、問題のある投稿をする人をブロックしたり、著作権を侵害するような振る舞いを不可能にしてしまったり、子どもが有害なサイトを見られないようにフィルタリングをしてしまったりとか、そういう物理的・技術的手段を用いて人々の行動を制約することが増えきたんです。
■アーキテクチャ論が開いた新しい自由観
成原: そうした時に、ローレンス・レッシグをはじめとする当時のサイバー法学者が、「アーキテクチャによる規制」という概念を提示して、問題を可視化しはじめました。私が情報法を研究しはじめた際の問題意識は、アーキテクチャという新たな権力によって我々の行為が制約されるようになった際に、我々の自由のあり方はどのように変わるのか、ということでした。具体的にはインターネット上のフィルタリングやブロッキングなどによる有害情報の規制、著作権侵害コンテンツの排除といったことに関心をもって研究をしてきました。
那須: 成原さんもアーキテクチャ論を入り口にしてこられたんですね。
成原: アーキテクチャは我々の自由を制約するものとして警戒されてきました。しかも、法とは違って、私たちの行為の可能性自体を制約してしまい、逆らえない。見えないところで環境が操作されて、私たちがその制約を認識することも困難です。企業が開発した場合には民主的な統制も難しい。
とくに日本では、アーキテクチャ論が、実定法学者以上に、法哲学者や哲学者、社会学者の方に広く受容されたところがあって、哲学的な問題、あるいは現代思想的な問題意識のもとに議論されることが多かったんです。
そうした議論にも一定のシンパシーをもっていたので、「我々の自由を制約するものとしてのアーキテクチャ」にどう対峙していくかという問題意識は、やはり強かったと思います。
那須: 情報法という分野が、専門的な実定法学者だけではなく、いわゆる現代思想に関心のある人たちにも強くアピールした背景には、「そもそも自由とは何なのか」という問い直しがそこで進められていたからでしょうね。
我々の自由は自然に与えられるものではなくて、生活上の環境を組み替える権力作用を通じて人工的につくり出されるものだということが、情報法の世界にとてもわかりやすい形であらわれた。
しかし、その仕組み自体は我々にはまるでわからないし、その仕組みをつくり出すのも我々ではない。そんな状況から、「自由を制限しているものは何なのか」という問いと、「そもそも、自由を可能にしているものは何なのか」という問いとが、一体となって立ち上がってくるような経験があったのではないかなと思います。
■「アーキテクチャに先立つ自由」は考えられるのか?
成原: おっしゃるとおりで、アーキテクチャには、自由を制約するだけではなくて、構成する側面もあります。レッシグにもそういう問題意識はあるんですけれど、後者の側面を明確にしたのがサンスティーンの議論でした。そこが彼の功績だと思うんですが、アーキテクチャによる自由の構成を語った瞬間に、「アーキテクチャに先立つ自由」のようなものを観念することが困難になってしまった、という問題があります。
サンスティーンは法についても似たようなことを以前から語っていました。我々のさまざまな自由が、国家による法的規制によって成り立ち、構成されているのならば、「法に先立つ自然な自由」の領域は、少なくとも我々のように高度に制度化された社会生活を送っている文脈では想定しがたい。
アーキテクチャについても同じことが言えて、インターネットははじめから人工的なので、なにがベースラインなのかが明らかではなく、どこまで行動できるかもアーキテクチャにより決められています。たとえば、「ここまでしか移動できません」というのは、自由の制約なのか、あるいは、そこまで自由が可能になっているといえるのか。ペットボトルに半分お茶が残っていたら「半分も残っている」と思うのか、「半分も飲んでしまった」と思うのかというのと似たようなものですね。
私も含めて、情報法ではアーキテクチャを「自由に対する制約だ」と素朴に語ってきたところもあったんですが、サンスティーンの問題提起を真剣に受けとめると、そういう素朴な語り方が許されなくなってしまうんですね。たしかにアーキテクチャは、その設計のあり方ゆえに我々の行動を制約するかもしれないけれども、そもそも我々の行動が可能になっているのも、アーキテクチャの設計のおかげだ、と。
インターネット上の人工的な空間はもちろんのこと、我々の現実の世界にしても、都市をはじめ大部分は人工的に設計されている。「どこまで歩いていけるか」といったこともアーキテクチャによって決められているとすると、「それに先立つ自由はどこまであるのか」という難問にぶち当たるんですね。
■古いタイプの自由観と「選択肢集合としての自由」
那須: 古いタイプの自由論は「政府の力の行使が減れば個人の自由が拡大する」という単純な「消極的自由」の構図で考えられてきたけれども、J・S・ミルは、圧政の解除によって即座に自由になれるわけではなくて、さまざまな社会的権力と対抗することも重要だと強調しました。しかし、この社会的権力を排除するにはしばしば国家権力が必要になる。
またさらに、「積極的自由」の問題もあります。人が実際に選べる選択肢の幅が実際どれくらいあるか。これもまた、「圧政の除去」だけでは実現されない自由です。自由の問題は、この三つ巴の構図をとることによって解きにくくなりました。
大屋雄裕さんはかつて、「アーキテクチャなし」の状態はありえないんだから、これをどう設計するか、という形でしか我々の自由の条件は考えられない、というサンスティーンのレッシグ批判を紹介して、これがアーキテクチャ論の一つの転回点になった、と指摘されました。しかし成原さんは、「サンスティーンの批判以後もレッシグの問題関心は生きていて、両者は互いの盲点を補い合う、相補的な関係にあるんじゃないか」という仮説をとっておられるように思うんです[成原「アーキテクチャの設計と自由の再構築」松尾陽編『アーキテクチャと法』弘文堂、2017年]。どうでしょうか。
成原: ご紹介いただいた拙稿でも論じたことがありますが、「レッシグとサンスティーンの視点の違い」というのはおもしろい話ですね。その前提として、サンスティーンの自由観は、人が実際に選べる選択肢の幅という意味での「積極的自由」を想定しているんじゃないかというお話がありましたけれども、たしかにそういう面があって、アマルティア・センの言う「潜在能力としての自由」に近い気もします。制度なり、アーキテクチャを構築することを通じて、我々の選択肢の集合を増やす。サンスティーンの「選択アーキテクチャ」の議論には、そういう側面が確実にあると思います。
■多すぎるメニューよりも数種類の定食がいい?
成原: ただ、もう一方で、サンスティーンの著書『選択しないという選択』(勁草書房、2017年)のタイトルも示唆しているとおり、我々は、選択肢が多ければ多いほど自由かというと、必ずしもそうではない面もあります。
レストランでもメニューが多すぎると、かえって選択しにくくなってしまう。メニューは5個ぐらいで定食が選べたほうが、当人にとっても幸せで、実質的な選択の自由を行使している感覚も味わえる。つまり、選択肢が多ければ多いほどいいわけではなくて、選択しないことがむしろ我々の自由にとって重要な場合もある。そうなると、単に量的な意味で、選択肢の集合が多ければいいとは、必ずしもサンスティーンは考えていない。
この点は情報法にとっても示唆的です。一昔前の私たちは新聞も政治的な志向や応援する球団などに応じて読売、朝日、日経、毎日、産経あたりからどれかを選んでいたでしょうし、テレビのチャンネルも、NHK・民放を含めてせいぜい7チャンネルとか8チャンネルぐらいから情報を選択していた。情報は、かなり稀少だったわけです。
それがインターネットになると、もう無数に情報があふれています。選択肢が多すぎるので縮減してもらいたいと思っている。そこで、私たちは、グーグルのような検索エンジンや、アマゾンのお勧めに頼って価値のある選択肢を抽出してもらおうとしています。
■自己情報の制御も人まかせ?
成原: 私たちは情報の選択肢が多すぎることに、そろそろ嫌気がさしている。これは単なる自由からの逃走だと単純に否定できるものではなくて、私たちの中に「選択の自由を実効的に享受できる」範囲に自由を縮減したいという願望があるのだと思います。
同じ問題が、情報の享受だけではなくて、個人情報をいかに保護するかという場面でも出てきます。プライバシー権は、もともとは「ほっておいてもらう権利」「私生活をみだりに公開されない権利」として理解されてきました。マスメディアが私生活に入ってこないでほしい、記事にしないでほしいという権利だと理解されてきたんですけれども、20世紀後半に入りコンピュータが発達すると、自分の情報を自分でコントロールすることができる価値が強調されるようになって、日本でも京都大学の佐藤幸治先生らが自己情報コントロール権としてのプライバシー権を提唱するようになり、今日に至るまでのプライバシー権論や個人情報保護法制にも影響を与えてきました。
ただ、今日の私たちがいちいち自分の個人情報を「提供していいですか、いかなる用途で活用していいですか」と聞かれても、困ってしまう。実際、ネットのサービスを使う時も、プライバシーポリシーを真面目に読んでいる人は少ないですよね。適当に「同意します」を押してしまう。形の上では自己情報をコントロールしているかもしれないけれども、「ほんとうに私たちのプライバシーって尊重されているの?」という問題が出てきています。
そうすると、「自己情報をコントロールする」という考え方自体にもう無理がきているんじゃないか。むしろ、我々の認知限界を認めて、ナッジのようなものを活用してイラストでわかりやすく選択肢を示したり、個人ではなくて、信頼できる機関に任せて、専門家にそのコントロールを委ねたりしたほうがいいんじゃないか、ということになる。
慶應義塾大学の山本龍彦先生らが提唱されている「プライバシーの構造論的転回」、ここでいう構造は英語で言うと「アーキテクチャ」ともいえるんですけれども、個人がそれぞれ自分でコントロールすることは認知限界があるのであきらめるか、あきらめないにしてもサポートするアーキテクチャをしっかりつくっていくという考え方ですね。実務でも、これに近い発想をとるプライバシー・バイ・デザインやプライバシー・ナッジと呼ばれるアプローチが活用されているようになっています。
■「自由/不自由」=「便利/不便」?
那須: まとめていただくとよくわかりますね。これまで「自由とは強制されないこと」あるいは「自由とは選択できること」だったのが、「自由とは便利であること」に力点が変わってきたのかもしれない。自分が妨げられずに、円滑に行動できている状態。どうでもいいことの選択も、場合によっては自由の妨げになる。ここで言われている自由はもはや、「間違うことも含めて自分で選ぶことこそが自己実現」というミル的な自由観とも違ってきているような感じがします。
成原: 突き詰めていくとおっしゃるとおりで、我々はどうでもいいことは選択しなくなってきて、大事なことについて選択の自由を行使したい。となると、我々にとって「ほんとうに大事なこと」ってなんなのか、と。
■「自由」という感覚自体が変容してきた?
成原: しかし、さらに進めると、ほんとうに大事なことについても、それを真によく理解している他者がいるならば、代わりに選択してもらった方が楽かもしれない。アイザイア・バーリンのいう「積極的自由」について、当人がほんとうに願望していることが、他の誰かにより選択されることも「積極的自由」の実現になるのではないかという議論もあったかと思いますが、今日では現実の世界でも自由の実現を代行してくれるパターナリズム、極端な形では全体主義が願望されるようになっているところがあるようにみえます。
究極的には、外的な主体が――ビッグブラザーでも、AIでもなんでもいいですけれども――、私のほんとうに望んでいることを自動的に実現してくれるなら、もうそれが一番いいんじゃないか、それを「自由」と呼ぶかどうかはともかくとして。そういう感覚が広がっているのかもしれません。
那須: 「便利」にはそういう感覚も含まれている。スティーブ・ジョブズは、「みんながすでに望んでいるものではなく、見てはじめて『そうか、これが欲しかったんだ』と思えるようなものをつくれ」と言っていたそうです。マーケティングの定石かもしれませんが。欲求・欲望の実現どころか、欲望の発見や創造も、先取り的に手助けしてもらうことを望む。というか、それがない状態を、不便、不自由と感じるようになりつつある。
それを全体主義と呼ぶかどうかはともかく、そこでは「それってほんとうに自分のやりたかったことだろうか」という問いと、「これがやりたかったんでしょう?と言ってくるジョブスのような立場の人は何を考え、何をしようとしているのか」という問いが、問われにくくなっていく、ということはあるでしょうね。
■サンスティーンのねらい
成原: サンスティーン的な立場から言えば、我々の選好自体が社会的な文脈によって形成されるものです。つまり、iPhoneのようなイノベーティブなアーキテクチャの登場によって形成されるものだということになってしまうのかもしれないですね。
那須: サンスティーンはそこがラジカルだったと思いますね。「みんな、もともとこれを望んでいたんでしょう?」という選択肢をあらかじめ示して、反発がなければそれでいい、と考える。もちろんそこに批判が集まりもしました。彼には、ソフトなようでいて、じつはきわめて強いパターナリズムに対する志向がある。
成原: ええ、そのとおりで、まさにパターナリズムを起点にして、パターナリズムの枠内で自由を設計するということですからね。
那須: 批判者には、「もうパターナリズムと言うのはやめて、最初から『ウェルフェアリズム』でいいじゃないか」という人もいます。「リバタリアン・ウェルフェアリズム」でなにが悪いんだ、と。
■ハックする!――レッシグ的自由と対抗運動
那須: そんなサンスティーンに対して、レッシグはいまでも違和感を留保しているのではないかという感じがするんですが。
成原: レッシグは必ずしも明示的に述べていないと思いますが、彼が言ってきたことを解釈すると、賢いエリートが環境を設計して、そのなかでパターナリスティックに誘導して一定の範囲で自由を求めるというサンスティーン的な自由観には、違和感をもっているはずです。一般の人たちが下から組み替えていく、そういう可能性をつねに持ち続けていることが、やはりレッシグにとって、自由の欠かせない要素であるはずです。
そうしたときに、アーキテクチャを組み替える力を個人がもっていること、つまり、ハッカーとして振る舞える技能をもっていることが、レッシグにとっては重要になります。
那須: それは、単にアーキテクチャの仕組みを見破って批判するだけではなくて、新たにつくり出すことも含んでいるんでしょうか?
成原: もともとレッシグの憲法学者としての認識でも、構造を意識して、批判的にとらえなおしていくことが強かったでしょうけれども、2000年代にスタンフォード大学で西海岸の文化にじかに触れて、インターネット・カルチャーやいろいろな運動を牽引していくなかで、自分たちで技術を組み替えるということに力点を置いているようです。
那須: なるほど。彼はフリーカルチャーの推進者の一人でもありましたね。
成原: そうです。クリエイティブ・コモンズとか。
■「修理する権利」という主張
那須: iFixit[カリフォルニアの電子機器修理業者]の人たちが推進しているような「修理する権利」と似たものを感じます。
ゲーム機やiPadの本体にシールして、「ここを開けたら補償の対象にしませんよ」と、購入者が機器の内部構造やプログラムにアクセスすることを、メーカー側が著作権を盾にしてブロックしてしまう。それに対して、「いや、購入した以上は修理やカスタマイズする権利が消費者にはあるんだ」という批判が出されていますよね。
成原: レッシグのフリーカルチャーやストールマンのフリーソフトウェア運動、あるいは、アメリカの「デジタルミレニアム著作権法」への対抗運動とつながりますね。この法律には、著作物を保護している技術的手段の回避を規制する条項や、回避するための装置の提供を規制する条項があり、これによって、DRMだけでなくて、それこそスマートフォンが修理できないとか、ゲームを自分でカスタマイズできないといった制約が出ていると問題視されてきました。EFF(電子フロンティア財団)らにより、こうした過剰な自由の制約を是正しようという運動も行われ、その成果もあり規制の内容も相当程度改善されてきたのですが、こうした運動に対して、レッシグはシンパシーをもって肩入れしているんです。「修理する権利」の動きは、それと共通するところがありますよね。
那須: アニメや漫画の二次創作も含まれるかもしれませんね。
成原: ええ、広い意味で二次創作の自由にもつながってくるところがありますね。
■自己実現の自由としての「ハック」
那須: レッシグがそこで考えている自由は、昔ながらの自由観とも、サンスティーンの今日的な自由観とも違っているのではないでしょうか?
成原: そうですね。ええ。サンスティーンの自由観が「アーキテクチャによって設計されたA、B、Cという選択肢からいずれかを選択すること」だとすれば、レッシグの自由観は「既存の選択肢を相対化して新しい選択肢をつくること」、つまりその選択肢をずらして再定義することを自由としてとらえているように思います。
ただ、レッシグの自由観も更地の自由じゃなくて、A、B、Cという選択肢がある既製品を与えられたら、カスタマイズしてDという選択肢を加えたり、AとBを組み合せてABみたいな選択肢を自分でつくったりだとか、既存のものをうまく組み替えてハックする自由のようなものを想定しているようにみえます。
那須: 「ハックする自由」は、ある意味では従来通りの自己実現の自由だけど、「ゼロからの創造」のような、ロマン主義的な自己実現の自由という牧歌的な色彩はないと。
成原: そうですね。既存の制度やアーキテクチャを前提としてそれを組み替える自由ということができるかと思います。
■都市生活を前提とした自由観
那須: 今日の情報社会では、我々の主体性そのものが社会的に構成されているということは前提として受け入れる。でも自分がそのつど「自由だ」と感じられるというだけでは何かが足りない、という感覚があるように思います。
成原: アメリカにおけるある種の古典的な自由觀が、西部開拓時代のフロンティアにおける自由だとすれば、レッシグの想定する自由は、都市が築かれたところで、既存の都市の文化や技術を組み替えたり、読み替えたりして、いかに新たなものを築いていくかというもので、都市生活を前提とした自由観だと思いますね。
那須: いまのAIをめぐる議論は、19世紀後半の競争市場をめぐる議論とどこか似ているように思うんです。
特定の個人の意図や選択、知識や技術に収斂しない、したがって責任の所在もはっきりしない巨大な過程が進行していて、人々の生活はそれなしには成り立たない。でもそれが深刻な貧困や不平等を引き起こし、治安や衛生状態の悪化を招いている。社会主義国家や福祉国家はこの問題との格闘の産物ですが、その中で、古典的な自由観も見直しを余儀なくされてきました。
今日のAIもまた、我々の生活にとって不可欠の存在となりつつありますが、同時にさまざまな不安や疑いのもとにもなっている。我々の生活を支える情報ネットワークそのものが、誰一人包括的にはとらえられず、制御もできない巨大な知性を形成しつつあるのではないか。我々は、否応なくこれに「支配」されてしまうのではないか、といった具合です。
そんな中で、どんな仕組みを考えれば自由でいられるのかを考えねばならない。しかしそもそも、「自由」をどうとらえればいいのかもわからない。変数が二つあるのに、方程式が一つしかない、そんな状態に陥っているんじゃないかな、と。
■成原さんの仕事の思想史的位置づけ
成原: 非常に難しい問題ですよね、ほんとうに。AIも、アーキテクチャの一種といえますけれども、レッシグ的なアーキテクチャ観とも、サンスティーン的なアーキテクチャ観とも、ぴったり収まりきらないところがあります。
那須: なるほど。そうなんですね。
成原: サンスティーンのようにアーキテクトが設計するにしろ、レッシグのようにハッカーが組み替えるにしろ、人が設計したり組み替えたりすることが前提とされていました。従来は人の作為によってアーキテクチャのあり方が変容するという前提がありましたが、AIは自律的にデータから学習を通じて成長し、進化していくので、人がなにか改善したり設定したりしなくても、AIやアーキテクチャみずからが変わっていく可能性があります。
そこでは、アーキテクトであろうがハッカーであろうが、制御しきれない変化が起きてくる。それをどうとらえるか。それが自由にとって脅威をもたらすのか、それとも、自由を豊穣化するのかは、難しい問題ですよね。
那須: 自由のための制度設計と自由概念の再定義を同時進行で進めざるをえない。インターネットも、最初は「政府にも世界企業にも制御しきれない自由の空間だ」という楽観論が支配的でしたが、レッシグは、むしろそこが不可視の権力に支配されかねない危うい場所であることを指摘して、これを人間的な場所にする方策を考えてきた。
サンスティーンも、もちろんそうですよね、リベラルな共和主義者として、アメリカの建国以来の美徳をいまの社会の文脈で生かすにはどんな憲法的なデザインが必要かということを考えようとしているんでしょう。
そういう意味で、ちょうど19世紀的な自由主義国家システムが「ハック」されて福祉国家に変容したのと似たようなことが、情報空間の世界で始まろうとしているのではないか。成原さんのお仕事は、そういうところにかかわっているのかなというイメージなんです。
成原: ありがとうございます。イメージを聞かせていただいて、置かれている状況がよくわかりました。
■超越者なき時代に生まれる「専門家」と「素人」の溝
那須: ただ、レッシグの擁護するハッカー文化にせよ「修理する権利」論にせよ、結局知識や技術のある一部のエリートが主導権を握って、大半の人々は受動的な立場におかれることになるかもしれない。情報技術の専門家と素人の権力関係が、レッシグの構想の中でも問題として残るかもしれませんね。
成原: サンスティーンはアーキテクトというエリートを、レッシグもハッカーというある種の対抗エリートを想定しているわけですね。たしかにレッシグは、フリーカルチャーを支持する文脈で、読むだけのリード・オンリー・カルチャーはだめで、リード・アンド・ライト・カルチャーでなければいけないといってます。
でも、伝統的な社会では読み書き両方できて、その意欲もあるというのは、かなりのエリートですよね。インターネットが出てきて、誰もが情報の発信者になれるという時代の到来が期待されましたが、少なくとも、多くの人に読んでもらえる情報を発信できるのは今でもかなり稀少な資源ですし、限定された人たちした持つことができていないのではないでしょうか。
さっきまでは自由論の話が中心でしたが、もし、私たちの自由を成り立たせるためにはなんらかの制度に依存しなければならないのだとすれば、制度を個人が単独でつくることはできないので、集合的に決めていかないといけない。その「集合的に決めていくための仕組み」というのが民主主義なので、民主主義の仕組みも自由のあり方を考えるうえで、やはり問うていかなければいけないでしょうね。
近年のレッシグは「民主主義」のプロセスに一番の関心があって、アメリカの民主主義をいかに回復するか、金権政治の腐敗をいかに是正するかに取り組んでいます。
那須: それは結局、「意識の高い人たちが社会を変えていく」という形をとることになるんじゃないでしょうか。
■レッシグもサンスティーンも「意識高い」系
成原: たしかに「意識の高い」はひとつのキーワードかもしれないですね。レッシグが想定している人間像は、人の作ったものを享受するだけでなく、自分でもものを作る「意識の高い人間」ですから。
サンスティーンも、彼自身は意識の高い人間ですよね。もっとも、サンスティーンのようなアーキテクトは意識の高い人間でないと務まりませんが、選択アーキテクチャのなかで生きる、ナッジを受ける側の人間は意識が低くてもかまわないのかもしれません。
那須: サンスティーンの議論で、さすがよく考えられていると思うのは、そこです。アーキテクトとして活動するときはもちろん反省的で合理的な思考システムがちゃんと機能するけれども、我々はほとんどの場合、非合理的で愚かな人間として生きている。大事なのはその使い分けで、「四六時中意識高いままではいたくない」ということをサンスティーンは大事なことだと考えている。
成原: ええ。その点は、「選択の自由を限定しよう」という話に通じていきますね。
那須: それに対してレッシグの感覚は、ちょっと古いんですかね? 「いつも意識高くいなきゃいけない」みたいな。
成原: いや、必ずしもそうじゃないと思いますけど、アメリカ西海岸のシリコンバレーの人たちにはそういう雰囲気があるかもしれないですね。つねに意識を高くして、と。我々だと、少なくとも私にはついていくのは難しいかもしれない(笑)。
■アーキテクトたちの関心
那須: 具体的な政策についていうと、今後、どんなところにレッシグ的な観点やサンスティーン的な発想が生かされる可能性があると思いますか?
成原: 日本でも、環境省に「日本版ナッジユニット」がつくられましたし、各省庁、自治体、企業でもナッジや行動経済学を活用していこうという動きが強くなっています。
道具としてのナッジなり、行動経済学がさまざまな場面でこれから使われるんでしょうけれど、その際に、理念としてのリバタリアン・パターナリズム、つまり、「選択の自由を尊重しつつ、当人の厚生を改善する」という考え方にどこまで忠実になれるかは難しいところです。実際の政策の現場はそうした理念だけでは動かない側面もあるので。
「当人のためになるデフォルトを設定しました」と、アーキテクトは言うんでしょうけれど、たとえばスマホのアプリでユーザーの位置情報をデフォルトで提供するようにするのか、それともプライバシーを守るためにデフォルトでは提供しないことにするのか、両方とも「当人のためになる」という説明は可能だと思うんですよ。
プライバシーの尊重という観点からは提供しないという選択をデフォルトにしたほうがいいでしょうが、反対に位置情報をデフォルトで提供したほうが、それを活用してさまざまなサービスを提供できるので当人のためになるという考え方もできる。正当化のロジックとしては、いずれも言える。政策の現場では、リバタリアン・パターナリズムは、ある種のレトリックとして使われることになるのかもしれません。
結局のところ、どちらがデフォルトに置かれるかは企業や行政の中で設計する人たちのインセンティブに依存している。企業だったら自社の利益なり、行政だったら何らかの政策目的にしたがってアーキテクチャを設計できるので、「当人のため」という正当化のレトリックを後付けで出すことになるかもしれない。
だからこそ、「ナッジを活用しています」という企業や行政が、どこまで当人のためにアーキテクチャを設計しているのか、彼らの設計したアーキテクチャにおいてどこまで選択の自由が尊重されるのかは、やはり消費者や国民がチェックしていかないといけないだろうと思います。もっとも、技術が高度化すると、そうした役割も、一般の個人には困難になってくるでしょうから、それを担う専門家の育成が必要になってくるのかもしれません。
■サンスティーンの言い抜け
那須: サンスティーンの最近の論文に、「ナッジが失敗するとはどういうことなのか」という問題を扱ったものがあります[“Nudges that fail,” Behavioural Public Policy (2017)1]。そこで彼は、「ナッジが失敗したとしても、人々にそれを避けたいという強い選好があることがそれでわかったのだから、そう受け止めればいい」と言ってる。ひどい言い抜けですけれども。
成原: サンスティーンらしいですね(笑)。
那須: だけど、おもしろい観点だと思うんですよね。社会的合意がまだない問題について、それでも何かしないと行政が突き上げをくう。そういう場合に、観測気球的にいろんな刺激を与えて、その反応を見ながら、社会的合意そのものを探索するプロセスを考えてもいいんじゃないか。ナッジはその方法としても使える。
だから、「ナッジのいいところは、抵抗されると簡単に失敗してしまうところだ」というとらえ方があってもいいのでは、という感じがしています。
成原: それは政策の現場にとっても大事な発想ですよね。
■失敗するナッジの活用
那須: どんな政策も、いろんな力のせめぎ合いの中で実際の結果が決まっていく。ナッジ論がひらいた視点に立てば、そのこと自体を計画に取り込んで政策をデザインできる。そうとらえるなら、サンスティーンとレッシグの相補的な部分が見えてくるんじゃないか、という気がします。
成原: 要は「設計の限界を設計に組み込む」みたいなことですか?
那須: サンスティーンは「決めないでおくことの美徳」を繰り返し強調しています。綿密な計画をたてて確実に実現する、というのではなくて、計画時の見落としや状況の変化に対応できるように余白部分を残しておく。これはある意味で、政策への評価を人々にゆだねる、ということでもあるでしょう。アーキテクトは、そこからも学ぶことができる。従来の「すみずみまで管理できる完璧なブループリントを描け」という発想とは逆ですが。
■統治にあえて残された余白としての自由
成原: いまの話で思い出したのは、フーコーの統治性の議論です。自由は、個人の自然権のような国家にとって外的な制約として予めあるのではなくて、国家の統治をうまく機能させるために、あえて残された内的制限なのだと、それが近代国家による自己制限という選択なんだという議論ですね。フーコーによれば、そうした思考は、国家から市場へと軸足を移しつつ、戦後ドイツのオルド・リベラリズムとアメリカのシカゴ学派に引き継がれていきます。自由は統治の外部にある自然なものではなくて、統治のメカニズムの中に築かれた人為的な構成要素だという発想ですね。サンスティーンもシカゴ学派なので……。
那須: そう、そのような姿勢を体現しているところがあると思います。これまでは政府がお金も人も政策資源は独占して、主導権を握って一方的に進めていくようなイメージでした。「ガバナンス」や「公私協働」という標語はそのやり方が限界にきていることの表れでしょう。一人ひとり勝手に振る舞っている市民の、柔軟な、開かれた選好のあり方自体が統治のための資源とみなされるようになってきたということかもしれませんね。
成原: ええ。
■サンスティーンを孤独なスターにさせないために
那須: この見方をそのまま、レッシグ側から見たらどういうことになるのかが、これからの問題なのではないかと思うんですよ。
成原: ハックの契機すらも実はアーキテクトに仕組まれていたというようなことですね。
那須: 政府の側は、ハックされることを前提に政策をデザインする。しかし市民の側も、政府の介入を、生きていく上での道具、資源として読み替えていく。成原さんがご論文の中で「脱構築」とおっしゃっているのはそういうことかなと。
サンスティーンはアーキテクトとして全部を管理したいタイプの人かもしれませんが、そういう人が安心して仕事をするには、レッシグみたいな人がそれをちゃんと受け止めて、余白部分をうまく埋めてやる必要があるんじゃないか。そうでないと、サンスティーンはすごく孤独なスターみたいな感じになってしまいそうですよね。
成原: コインの表裏の関係ですよね。
那須: 成原さんには、ぜひサンスティーンとレッシグの対立を、彼らの固有名を超えて概念化して広げていっていただけたらと思っています。
成原: ありがとうございます。
【対話の〆にby那須耕介】今日の情報法をめぐる議論には、近現代の自由観の変遷がみっちり凝縮されているのだなぁ、というのが今回の率直な感想です。この分野がいま思想的、理論的関心を集めているのはそれゆえなんでしょうね。その意味でもこの分野の牽引者の一人、成原さんにこの企画の掉尾を飾っていただけたのは、たいへん幸運だったと思います。読者のみなさん、5回にわたる連続インタビューにお付き合いくださりありがとうございました。
――春から続いてきた対談連載、いかがでしたか。じつは、この対談は那須さんの「原稿依頼ジャーニー」でもありました。ご登場いただいた5人の方に加えて、福原明雄さん、橋本努さんにご執筆いただく単行本『ナッジ!?(仮)』(那須耕介・橋本努編著)の制作が年内刊行を目指して着々と進行中です。いまリバタリアン・パターナリズムやナッジを語るのであれば欠かせない8人による1冊。楽しみにお待ちくださいませ![編集部]
《バックナンバー》
第1回:連載をはじめるにあたって《那須耕介》
第2回:なぜいま、民主制の再設計に向かうのか《大屋雄裕さんとの対話》
第3回:ぼくらは100点満点を目指さなくてもいい?《若松良樹さんとの対話》
第4回:80年代パターナリズム論の光と影のなかで《瀬戸山晃一さんとの対話》
第5回:熟議でのナッジ? 熟議へのナッジ?《田村哲樹さんとの対話》
第6回:サンスティーンという固有名を超える!《成原慧さんとの対話》
番外編1:「小さなおせっかい」の楽園と活動的生(前編)《『ナッジ!?』刊行記念編者対談》
番外編2:「小さなおせっかい」の楽園と活動的生(後編)《『ナッジ!?』刊行記念編者対談》