コロナ時代の疫学レビュー 連載・読み物

コロナ時代の疫学レビュー
第1回 感染と情報の爆発

6月 29日, 2021 坪野吉孝

 
 
2020年にはじまった新型コロナウイルス感染症(Covid-19)の拡大以降、いろいろな点で「疫学」が注目されています。病院の診療科目としてはなじみがありませんが、医療の基礎を支える大事な分野です。日本疫学会では「明確に規定された人間集団の中で出現する健康関連のいろいろな事象の頻度と分布およびそれらに影響を与える要因を明らかにして、健康関連の諸問題に対する有効な対策樹立に役立てるための科学」と定義しています。この連載では、そんな疫学をご専門にして、長らく文献レビューに携わってきた坪野吉孝さんが、Covid-19に関連する文献を通して、疫学の基本的な理論をご紹介くださいます。[編集部]
 
 

第1回 感染と情報の爆発

 
 
 新型コロナウイルス感染症(Covid-19)は、科学の歴史はじまって以来の、情報の爆発を引き起こした。
 
 新型コロナに関する論文が公開されはじめたのは2020年初頭からだが、その後1年にも満たない2020年12月はじめの時点で、20万編におよぶ論文が公開・出版されたと推計されている。新型コロナをテーマとする論文を登録する世界最大規模のデータベースには、2021年5月はじめの時点で、41万編を超える論文が登録されているという。
https://www.nature.com/articles/d41586-020-03564-y
https://www.nature.com/articles/d41586-021-01246-x
 
 これらの論文により、わずか1年あまりの期間に、多数の知見が明らかになった。新型コロナウイルスの遺伝子配列、無症状の感染やクラスターが大きく関与する感染の動態、デキサメタゾン(副腎皮質ホルモン)による治療の有効性、ワクチンの安全性と有効性に関する臨床試験などは、輝かしい成果の一部と言えるだろう。
 

情報爆発の光と影

 
 これらの論文の多くは、日本のメディアでも大きく報道され紹介されてきた。

「ファイザー社のワクチンの有効性は95%」
「デキサメタゾンはCovid-19入院患者に治療効果あり」

 ただし、こうした「有効性95%」「治療効果あり」などの研究結果だけが、断片的に報道されることがほとんどだ。研究の具体的な対象や方法、研究の意義や限界などが、しっかりと伝えられることは少ない。これらの研究では、医学研究の教科書を書き換えるようなイノベーションが、いくつも取り入れられている。けれども、これらの研究のどこが革新的なのか、くわしい解説はあまりされてこなかったように思う。
 
 画期的な研究論文がつぎつぎと公表される一方、世界を代表する医学専門誌に掲載された論文が、データの捏造を疑われて撤回されるという、前代未聞のスキャンダルも生じている。論文の爆発的増加に伴う、いわば影の部分の詳細についても、日本ではあまり伝えられていない。
 

伝えられる成果と伝えられない成果

 
 さらに、新型コロナウイルス感染症に関する日本のメディア報道を通して、疫学という研究分野の重要性がにわかに注目されるようになった。
 
 おもに報道されてきたのは、クラスターなど感染の拡大に関する調査や、数理統計モデルを使った感染者数の将来予測の研究などだ。日本の疫学者が、日本の感染状況にかかわるデータを分析して公表するのだから、メディアの関心を集めるのはむろん理解できる。
 
 だが実際には、これらの調査研究は、世界で行われている疫学研究の、ごく一部にすぎない。先ほど挙げたワクチンや治療薬にかかわる研究も、疫学研究の重要な一部だ。ところが、Covid-19のワクチンや治療薬をめぐる世界の研究の進歩に対して、疫学者を含む日本の研究者は、ほとんど貢献できなかった。
 
 こうした事情もあり、おなじ疫学研究であるにもかかわらず、結果が断片的に伝えられるのみで、その詳細が十分紹介されてきたとは言いがたい。
 

激変する生活

 
 筆者はもともと、疫学と健康政策を専門にする研究者で、東北大学の医学系研究科と法学研究科の教授をしていた。2011年3月に東北大学を退職した後は、精神科の臨床医をしながら、世界の科学・医学専門誌を読み続けていた。
 
 ところが、新型コロナウイルス感染症の拡大により、筆者の生活も大きく変わることになった。
 
 最初の緊急事態宣言が出された2020年4月から5月の2か月間、病院勤務を一時中断し、厚生労働省クラスター対策班の参与として勤務した。仙台市の自宅を離れ、東京駅近くのホテルに泊まり、厚労省に通った。
 
 専門誌に掲載されるCovid-19関係の論文が激増したため、最新の研究状況をフォローするのに、朝から夜まで、頭が働く時間の大半を費やすことになった。2021年度からは、精神科の診療を続けながら、東北大学の客員教授(医学・法学・歯学)として、大学の研究教育にふたたびかかわっている。
 

『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』から見えてくる世界

 
 Covid-19関連のもっとも重要な研究が掲載される専門誌の1つは、臨床医学専門誌の『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』(The New England Journal of Medicine、以下NEJM)だ。米国マサチューセッツ州医学会が発行する週刊誌で、1812年に創刊され200年以上の歴史がある。編集部はマサチューセッツ州のハーバード大学医学部の図書館にある。
 
 2019年の同誌のインパクトファクター(雑誌がもつ影響力の指標、IF)は 74.699で、医学専門誌の分野では第1位を誇り、第2位の『ランセット』(Lancet、IF 60.390)や、第3位の『米国医師会雑誌』(JAMA、IF 45.540)を大きく引き離す。『ネイチャー』(IF 42.779)や『サイエンス』(IF 41.846)よりも高い。「世界でもっとも権威ある医学専門誌」という評価が定着している。
 
 筆者は2001年より、同誌の日本版の監修にかかわってきた。主要論文の内容を短くまとめた部分(抄録)の英語原文の、日本語訳を作成するのがおもな仕事だ。NEJMに掲載される主要論文のすべてを、20年間にわたり目を通し続けることで、世界の医学の最新の動向を、いわば定点観測していることになる。
 
 この連載では、おもにNEJMに公表された新型コロナウイルス感染症の疫学研究を紹介しながら、疫学の基本概念や方法論を解説する。
 
 1年以上、朝から夜まで頭が働く時間の大半を費して読み続けてきた研究論文で展開されるイノベーションやスキャンダルのドラマを、読者の方々と共有できれば幸いである。
 
 連載の開始にあたり、今後紹介する論文などが掲載されているウェブサイトを紹介しておく。
 
1 The New England Journal of Medicine (NEJM)のメインのサイト https://www.nejm.org/
2 NEJM日本版を発行する南江堂の日本語サイト https://www.nejm.jp/
3 NEJM Covid-19-NEJMに掲載されるCovid-19 関連の論文の特設サイト https://www.nejm.org/coronavirus
4 NEJM Covid-19-南江堂日本語サイト https://www.nejm.jp/coronavirus/
5 NEJM Journal Watch Covid-19-NEJM論文に限らず、Covid-19に関する世界の主要論文を要約して紹介するサイト https://www.jwatch.org/covid-19
6 NEJM Journal Watch Covid-19南江堂ツイッター―5の記事のタイトルと概要を日本語訳したツイッター https://twitter.com/nankodo_covid19
7 New York Times Covid-19-世界のCovid-19をめぐるNew York Timesのニュースのポータルサイト https://www.nytimes.com/news-event/coronavirus
8 New York Times 世界の感染者数・死亡者数 https://www.nytimes.com/interactive/2020/world/coronavirus-maps.html
9 New York Times 世界のワクチン接種状況 https://www.nytimes.com/interactive/2021/world/covid-vaccinations-tracker.html
 


次回より、本格的に具体的な論文紹介と解説が始まります。いま少しお待ちください。[編集部]
 
 
》》》バックナンバー
第1回 感染と情報の爆発
第2回 パンデミックの転換点を、300語で読む――ファイザー社ワクチンのランダム化比較対照試験①
第3回 「重症化」予防がワクチンの目的か?――ファイザー社ワクチンのランダム化比較対照試験②
第4回 ランダム化比較対照試験の理論――ランダム化・バッドラック・エクイポイズ
第5回 リアルワールドエビデンスの「マジック」――ファイザー社ワクチンの後向きコホート研究
第6回 Covid-19ワクチンによる「発症」予防と「感染」予防――ファイザー社とモデルナ社のmRNAワクチンの前向きコホート研究
 
 

坪野吉孝

About The Author

つぼの・よしたか  医師・博士(医学)。1962年東京生。1989年東北大学医学部卒業。国立がん研究センター、ハーバード大学公衆衛生大学院などを経て、2004年東北大学大学院教授(医学系研究科臨床疫学分野・法学研究科公共政策大学院)。2011年より精神科臨床医。2020年、厚生労働省参与(新型コロナウィルス感染症対策本部クラスター対策班)。現在、東北大学大学院客員教授(医学系研究科微生物学分野・歯学研究科国際歯科保健学分野・法学研究科公共政策大学院)および早稲田大学大学院客員教授(政治学研究科)。専門は疫学・健康政策。