燃えよ本 連載・読み物

燃えよ本[第6回]エイハブの執念が滅ぼしたものとは? 白鯨と捕鯨の近代史

 

発酵デザイナーの小倉ヒラクさんが、けいそうビブリオフィルにご登場です。書評連載なのですが、なかでも「燃えた」本についてご紹介くださる予定です。「燃えた」とはどういうことなのか? 「燃えよ」と願う本があるのか? どうぞお楽しみください。[編集部]

 
 

[第6回]エイハブの執念が滅ぼしたものとは? 白鯨と捕鯨の近代史

 
 
 19世紀、アメリカ及び世界文学の金字塔であるハーマン・メルヴィル『白鯨(モビー・ディック)』。
 アメリカといえばグリーンピースはじめ鯨やイルカなどの海洋哺乳類の保護活動に熱心な「反捕鯨国」なのだが、実は20世紀初頭まで世界一の捕鯨王国だった。世界中の海でクジラを獲って獲って獲りまくった前近代の捕鯨黄金期の記憶が刻まれたのがメルヴィルの『白鯨』なのである。現代の倫理観から見るとあまりにも血生臭く、差別的。かつ文学の枠組みを大きく逸脱した怪作を僕なりに読み解いてみよう。
 

 
 まずは物語のあらすじを。時代設定は執筆時期と同じく19世紀中盤。イシュメールという青年がアメリカ東海岸のナンタケット島の港に流れ着く。ここはインディアンの時代から名高い捕鯨の出港地。ピークオッド号という捕鯨船に雇われ、はるか大西洋ど真ん中まで「モビー・ディック」と名付けられた巨大なマッコウクジラを追いかける。この凶悪なクジラは、ピークオッド号の船長、エイハブの片足を食いちぎった宿敵。狂気のエイハブは船員の制止を振り切ってモビー・ディックに三日三晩の戦いを挑み、最後は船や部下もろとも海に消えていく。棺桶にしがみついてただひとり生き残ったイシュメールは、二年以上にわたる航海の語り手となる。
 
 ……というアウトラインなのだが、これだけ抜き出しても『白鯨』を語ったことにならない。僕が今回精読した岩波文庫版では上中下で1500ページくらいあり、そのうち「いわゆる小説的」なパートは全体の半分弱。残りは鯨に関する古典の引用集や唐突な劇中劇、鯨の生態学や分類、捕鯨の技術解説や古代の文献に見る捕鯨の歴史的意味付けの考察など、普通だったら別冊にまとめそうな雑多な論考やシェイクスピアじみた戯曲がブリコラージュされた謎すぎる構成。19世紀アメリカの出版業界に編集者はいなかったのだろうか?と心配になる(いたとしてもこの狂気に満ちた原稿を受け取った編集者は十中八九ノイローゼになってしまうような気も……)。
 
 そう。これは鯨と人間の戦いを描いた物語であると同時に、鯨をテーマにした博物誌であり、遠洋航海の技術史であり、妄執にとりつかれた人間の末路をあぶりだす世界劇場であり、さらにユダヤの古代神話を重ね合わせた寓話でもあるという超多層構造の書物なのだ(ちなみに語り手のイシュマールは『創世記』に登場する砂漠の漂泊民、船長エイハブは『列王記』の邪教を崇拝するアウトサイダーな王の名からきている)。
 
 『白鯨』をどのように読み解くのか……という作業は文学の研究者に任せるとして。この1500ページの超大作を精読してみて僕がまず感じたのは「小説というプラットフォーム」に賭ける期待の大きさだ。
 もし『白鯨』のような物語を現代で書こうとすれば、小説パートだけ編集して、他の部分は人気マンガの副読本(『鬼滅の刃』などがやっているように)として5冊くらいに分解するはずだ。この構成のままでは絶対に企画会議を通らない。物語は物語、生物学は生物学、戯曲は戯曲として体裁を切り分けて出版しそうなものだ。
 
 しかしメルヴィルはそうはしなかった。メルヴィルにとって小説は「色々あるコンテンツのなかのワンオブゼム」ではなかった。そうではなく「全てのコンテンツを統合するプラットフォームである」と捉えていた節がある。ていうか、

「小説で世界の森羅万象を全て描写し尽くすからよろしく!」

というストロングマインドは、19世紀の文豪に広く見られるものだ(ドストエフスキーとかバルザックとか)。メルヴィルにとって小説は「面白い」だけでは到底満足できなかった。小説は古今東西の人文学や科学がまるごとごった煮になった「エブリシング(全て)」でなければいけなかったのだ。
 
 サルトルは20世紀中盤に「全体小説」を提唱したが、彼の『自由への道』と『白鯨』を読み比べてみると、残念ながらサルトルよりもメルヴィルのほうが「エブリシング度」が格段に上である(文脈なく入れ替わる語り手の視点や、章ごとにまるっきり変わる文の体裁など、サルトルが理論でつくろうとしたカオスを、メルヴィルは純粋なノリでつくっている)。
 
 支離滅裂で1ミリも読みやすいわけではなく、最後まで読み終わっても結局何を言いたいかよくわからない、教訓も泣けるエモさもない『白鯨』がなぜ文学史に残る傑作になったのか。それは「クオリティの高いコンテンツ」としての評価ではなく、「プラットフォームとしての小説」の可能性を誰もマネできないレベルで引き出したからなのだ。
 
 しかし。僕たちが生きる21世紀には、ネトフリも漫画もニンテンドースイッチも、最近ではVRと組み合わせた演劇なんかもある。小説は到底プラットフォームではありえず、様々な表現のワンオブゼムとして「小説ならではの面白さ」を追求して生き残りを図っている。メルヴィルの「エブリシング」なマインドセットとは違いすぎるので、『白鯨』を咀嚼することは、「ワンオブゼム」の物語に慣れた現代の僕たちにはめちゃ難しい。
 
 この連載で難易度高めの古典の精読に慣れているはずの僕も、全ページ読み終わった後に脱力してしばらく床に臥せって動けなかったことを告白しておく。
 

 
 では話をもうひとつ。『白鯨』下巻、第105章「鯨の大きさは縮小するか?――鯨は絶滅するか?」と題された論考がある(ちなみに全体で135章まであるんだよ汗)。19世紀半ばでの状況ではあるが、著者は「今のまま捕鯨を続けても鯨は絶滅しないであろう」と結論づけている。
 しかしこれは誤りだ。実はピークオッド号型のアメリカ式捕鯨は19世紀においてすでに海洋生態系に大きなダメージを与えていた。
 
 物語の後半でピークオッド号が日本の太平洋沿岸に差し掛かる場面が出てくる。19世紀中盤の日本の捕鯨の状況を見てみると、江戸時代後半まで比較的安定して捕れていた鯨の漁獲量が、明治初期から中期にかけて急速に減っていく。原因はアメリカはじめ西洋式の捕鯨の影響だ。
 
 19世紀のアメリカの捕鯨方式は、母船式と呼ばれる。大きな母船と鯨を仕留めるための小型ボートがセットで遠洋に出て、捕獲した鯨を母船上で解体し、皮や肉から油を搾り取って長期保存した。『白鯨』では年単位で船に乗っているが、これは港の工場に寄ることなく鯨を加工・貯蔵することができる母船式だからこそできることだ。
 
 翻って、同時期の日本はどうだったのか。基本的には近海に近づいてくる鯨を小型の船で囲んで捕獲し、港まで運んでその都度解体・加工する捕鯨方法が主流だった。ピークオッド号のように「年単位で鯨を遠洋まで追いかける」ということはしなかったので、同時期のアメリカに比べると捕獲頭数がはるかに少なかったのだ。
 
 アメリカと日本の捕鯨を比較するともうひとつ大きな違いがある。アメリカでは鯨の肉を商品として流通させることはほぼなく、鯨は油をはじめとした「工業原料」だった。それに対して、日本では「工業原料」かつ重要な「食料」でもあった。冷凍庫のない時代では、食料としての鯨は近海で捕獲した新鮮なものをすぐに加工する必要がある。しかし「工業原料」用途のみのアメリカ式捕鯨では油さえゲットできればそれで良かったので長期航海にメリットがあったのだ。
 
 日本人の僕たちの常識では驚きだが、アメリカにとって鯨はつまり石油のようなものだった。燃料や工業加工に使う油脂分を効率よく大量に確保することができる、海洋資源だったのである。このニーズを満たすために、アメリカは水平線の果てまで巨大な鯨を追いまくり、日本の近海でも乱獲を繰り返した。エイハブ船長の執念が追い詰めたのはモビー・ディックだけではなく、そこに実は日本の伝統捕鯨も含まれていたのだった。
 
 20世紀に入ると、日本はじめ近海で伝統的捕鯨を行っていた国々も、減少した捕獲数を補うためにアメリカの母船式捕鯨を行うようになった。『白鯨』に出てくるマッコウクジラやナガスクジラ、セミクジラなど大型鯨はさらに加速度的に数を減らしていき、1980年代後半には国際捕鯨取締条約によって先進国での商業捕鯨は禁止されることになった。禁止への先導をした国の一つが、かつての捕鯨大国アメリカなのは奇妙に思えるが、理屈はシンプルだ。時代は石油の世紀、鯨の工業資源としてのメリットはほとんど消滅していたのだね。
 
 そこから20世紀後半以降、捕鯨は世界屈指の「炎上案件」になっていく。「人間と同じ哺乳類」「心優しき賢い生物」として鯨やイルカは保護の対象とされた。『白鯨』の白い悪魔のイメージから見事な180度の転換である。
 
 この背景を踏まえた上で『白鯨』を読むと、近代から現代へと向かう人類の「罪深さ」の黙示録であることがわかる。19世紀に鯨を獲り尽くさんとした人類は、続く20世紀にはさらに海の底から石油を掘り尽くさんとする。世紀をまたいで、人間は優しくなったわけではない。単により大量で合理的なターゲットを見つけただけだ。
 
 妄執にかられたエイハブ船長は、資源を略奪して開発競争に明け暮れる現代人のカリカチュアなのだ。
 
 
【追記1】いくつかある訳のなかから僕が選んだのは、八木敏雄訳の『白鯨』(上中下、岩波書店)だ。手に入れやすい角川文庫や新潮文庫よりもボリュームが多いのだが、文章も比較的平易で、図版や注釈も多く、とにかく読破するぞ!という人にピッタリ。
 
【追記2】『白鯨』とあわせて、大隅清治『クジラと日本人』(岩波書店、2013年)を読むと、本稿の後半部分の背景がさらに明快に読み解けるのでオススメ。
 
【追記3】この世界には二種類の人間がいる。『白鯨』を読破した者と、そうでない者だ。本稿をきっかけに前者が一人でも増えることを願う。You!こっちの世界にきちゃいなYO!
 
 


 
《バックナンバー》
[第0回]ご挨拶
[第1回]逃避としての読書、シェルターとしての書店
[第2回]「たまたま」のレトロスペクティブ ① 粘着ダーウィン、意味を破壊する
[第3回]「たまたま」のレトロスペクティブ ② スペンサーは本当に弱肉強食を唱えたのか? 粘着ダーウィン、意味を破壊する
[第4回]「たまたま」のレトロスペクティブ ③ 「人は意味なしで生きていけるか?」とクンデラは問うた
[第5回]なぜ本は燃えやすい? 石炭紀とカビ・キノコ

小倉ヒラク

About The Author

おぐら・ひらく  発酵デザイナー。下北沢『発酵デパートメント』オーナー。YBSラジオ『発酵兄妹のCOZY TALK』パーソナリティ。著書『手前みそのうた』(農山漁村文化協会、2014)、『発酵文化人類学』(角川文庫、2020)『日本発酵紀行』(D&DEPARTMENT PROJECT、2019)など。写真集に『発酵する日本』(Aoyama Book Cultivation、2020)。山梨県の山の中で日々菌を育てながら暮らしています。