虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察
第4回 冥界としてのインターネット 「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」と「serial experiments lain」(1)

6月 22日, 2016 古谷利裕

 
 

記憶(情報)とゴースト

他人の電脳に侵入することで人を自由に操作することのできる「人形使い」と呼ばれるハッカーが出現した、という出来事がこの物語の端緒です。例えばゴミ回収業者の男は、離婚調停中の妻が娘に会わせてくれないため、偶然飲み屋で知り合ったプログラマーに教えられた方法で妻の電脳をハッキングしようとします。しかし本当は、彼はずっと独身で妻も子もいたことはなく、人形使いに偽の記憶で踊らされて、外務省へとハッキングさせられていたのでした。彼は、逮捕されることで事実を知らされますが、自分には目に入れても痛くないほどかわいがっていた娘がいたという記憶自体を消すことはできません。記憶は偽だと知りながら、偽の記憶のリアリティ(娘のかけがえのなさ)は消えないのです。実在しないにもかかわらず、いるとしか思えない娘の記憶とともに、彼は一生過ごさなくてはならないのです。

このエピソードが示すのは、記憶の連続性を自分の連続性の根拠とすることへの懐疑と言えるでしょう。登場人物の一人であるバトーは言います。疑似体験も、夢も、存在する情報はすべて現実であり、そして幻なんだ、と。しかし「攻殻」では、そのような情報=記憶に還元されないものとしてゴーストが考えられています。とはいえ、ゴーストが絶対的なものというわけでもありません。「私」のゴーストはどの程度の記憶の入れ替えまでなら許容し、どの程度以上入れ替えられれば「私」ではなくなるのか。草薙が問うているのはそのような度合いの問いでしょう。「攻殻」においては、二項対立するものの境界こそが問題になっていると言えます。「私」と非「私」の境界、ゴーストとたんなる諸記憶(情報)のネットワークとの境界、人間と機械との境界。テクノロジーの発達が、従来は自明であったはずの対立する二項を根底で連続させ、その境界を揺るがすのです。

(これは相転移に近い事柄かもしれません。水が、どの程度の温度まで液体で、どの程度の温度以下になれば固体化するのか。温度は連続的ですが、物質の状態は不連続で、ある地点で変化します。このことと、どの程度の情報の変更まで「私のゴースト」と言えるのか、という問題は似ているように思われます。)

そして、その境界を超えてしまう存在が人形使いだと言えます。従来であれば、魂(ゴースト)は、魂を持つ者からしか生まれないと考えておけば問題はありませんでした。そして、ゴーストへの懐疑は、あらかじめゴーストを持つ者だけに許された問題でした。しかし人形使いは、情報のネットワークの中から生まれた、ゴーストを持つと主張する者です。つまり、非「私」から「私」へ、たんなる情報のネットワークからゴーストへ、機械から人間へ、あちら側(冥界)からこちら側(現実)へと、境界を超えて現れた者なのです。一方で草薙は、人形使いとは逆方向へ、「私」から非「私」へ、ゴーストからたんなる情報のネットワークへ、人間から機械へ、こちら側から向こう側へという方向に進みながらも、その境界の一歩手前で留まっている者だと言えます。草薙と人形使いはいわば、二項対立の反対の項から境界の方向へ歩き出して、中央の境界付近で出会った似た者同士といえるでしょう。
 

物質的生命と情報的生命

人形使いはネットという冥界から生まれたゴーストと言えます。しかし「攻殻」の世界観はあくまで科学にのっとっているので、それは原初の海で最初に発生した生物と同様のものとして、情報の海から発生した生命(ゴースト)であるという形で表現されます。人形使いは、最初の生命であるが故に孤独であり、あくまで単体であって雌雄性をもちません。

地球上の生命体は約40億年前に出現したとされています。そして、生物は最初の20億年以上の間、細胞内に核をもたない原核生物であり、原核生物には明確な形での雌雄性がありませんでした。自分自身のDNAを複製して分裂し、自己増殖として増えるのです。つまり、原核生物には「個体」がなく、分裂したすべてが「私」であり、他者が存在せず同質的で、だからその種のすべてが絶滅する以外に死もないのです。人形使いは、物質世界に生まれた最初の生物が原核生物であるように、情報の世界で最初に生まれた生物が自分であると主張するのです。

原初の原核生物は20億年以上もかけて進化し、真核生物となり、ようやく雌雄性をもつようになります。体細胞の半分の染色体をもつ二つの異なる個体の生殖細胞(染色体)の結合によって新たな別の個体を生み出すようになり、そこではじめて、個体と性差と死とが同時に誕生したと言えるのです。しかし、人形使いはそのような長い進化の時間を待つことはしません。唯一の情報的生命である自分には、コピーはつくりだせても多様性をつくりだす力がなく、たった1種類のウイルスで絶滅してしまうかもしれないという危機感を語ります。そこで、まったく反対の場所からやって来た似た者同士である自分と草薙との融合を、草薙に対して提案するのです。

これは通常の意味での生殖とは異なります、生殖では、二つの個体の固有性はそのままで、第三の存在として新たな生命が産まれます。しかし、融合という形では、二つの個体は融合後に新たな一つの個体となるのです。それは互いにまったく別物になるということであり、それぞれのゴーストの固有性と連続性の消失なので、ある意味では死だと言えます。

とはいえ、人形使いと融合して別物になった「誰か」にも、草薙であった時の記憶は存在するようです。であるなら、おそらく人形使いの記憶もあるのでしょう。つまり、記憶の連続性を根拠とするのならば、二人はなお生きていると言えます。しかし、融合を果たした「誰か」は、「コリントの信徒への手紙」(童のときは/語ることも童のごとく/思うことも童のごとく/論ずることも童のごとくなりしが/人となりては童のことを捨てたり)を引用し、それ以前の自分(たち)との不連続性を強調します。記憶は連続していても、ゴーストは連続していないということでしょう。物質的な海から生まれた生物と、情報の海から生まれた生物とが、電脳というテクノロジーを媒介とすることで融合を果たし、物質と情報とを跨ぐ、まったく新たな生物(ゴースト)が生まれたのだ、と。

この物語は、「ネットは広大だわ」という有名な台詞で幕を閉じますが、この台詞はバトーによる「一人の人間が一生のうちに触れる情報なんてたかが知れている」という台詞と対応します。人形使い+草薙である人物には、都市の夜景を高みから眺めるかのように、ネットを流れる大量の情報の広がりを直接的に見て取れるのでしょう。融合によって生まれた「誰か」はもはや人間とは別種の存在となったことを示しています。

(草薙は、「私」の固有性に強いこだわりをみせる一方で、すんなりと人形使いとの融合を受け入れます。これは、融合によって、現在の弱い輪郭の「私」ではなく、もっと明確な「私」が得られるという期待があったからでしょうか。その「私」が、もはや「この私」ではなくなっているのだとしても。)

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