3:: まとめと解説
相反する考え方がにらみ合う場面を離れ、一歩引いて冷静に見下ろし、この事例をすこし学問的に考察してみたい。
日本の記者クラブについては、外国メディアをはじめ、ネットメディアやフリーランスのジャーナリスト、そして出版社系雑誌からも批判され続けているが、今回は「報道」の定義を入り口にジャーナリズムの目的について考えてみたい。
「報道とはなにか――」
厳格な定義を言えなくても取材の仕事は務まる。一般的に新聞社や放送局で取材活動をしている人たちは、自分たちの仕事が「報道」そのものと認識している。とりわけ大手メディアの編集局や報道局とよばれる部署にいる記者やディレクターたちは、じぶんが「報道」のど真ん中にいるという認識からスタートする。このため、「報道とは……」と胸に手を当て自問自答する機会に恵まれない。
「報道の定義を」と問われ、「おれたちの仕事」などと答えるジャーナリストは意外と多い。だが、それでは答えにならない。
岩波書店『広辞苑』によれば、「報」には「しらせること・しらせ」という意味が、「道」にも「言うこと・語ること」という意味がある。熟語の「報道」は「社会の出来事などを広く告げ知らせること/ニュース」と説明される。ちなみに「ニュース」は「新しい出来事。また、その知らせ」のほか、「特に新聞・ラジオ・テレビによる報道」という語釈がある。つまり報道といえば、「新聞・ラジオ・テレビ」が代表的なものとして連想されているのだ。
しかし、報道する主体は、なにも新聞・ラジオ・テレビといったマスメディアにかぎらない。思考実験で触れられていたように、報道の担い手は、政治結社でも、NPOでも、宗教団体でも、市民でもかまわない。
2016年夏に日本で公開された映画『ニュースの真相』では、著名なニュースキャスターが放ったスクープが、ブログの記事をきっかけに「誤報」へと暗転する過程が描かれている。映画ではそのブログを「保守系」と形容し、陰謀説にも言及しているが、ブログが果たした機能も、ひとつの「報道」と呼んでもよいのではないだろうか。
日本共産党の機関紙である『しんぶん赤旗』の場合はどうか。機関紙は政党の広報や宣伝を目的に発行される。日本新聞協会への加盟は認められないだろう。だが『赤旗』は時事通信とロイターの配信を受け、一般紙が後追いする大スクープを幾度も掲載し、日本ジャーナリスト会議[1]からも表彰されている[2]。
岩手県大槌町には、東日本大震災の翌年から仮設住宅住民向けに発行されている週刊新聞がある。菊池由貴子が独力で創刊した『大槌新聞』だ。菊池にジャーナリスト経験はなかったが、町の定例会見でほかの報道機関の記者に交じって質問しており、地元メディアからも「報道」として認識されている[3]。
新聞協会が2006年に改定した「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」は、記者会見について次のように明言した。「参加者をクラブの構成員に一律に限定するのは適当ではありません[…]公的機関が主催する会見は、当然のことながら、報道に携わる者すべてに開かれたものであるべきです」。だが、ここでは「報道」の定義がなされていない。記者クラブ側から「あなたは報道記者ではないので、会見には参加できない」と言われれば、引き下がるしかないのが実情だろう。
記者会見には明文化されていないルールがある。参加者にはジャーナリズムを実践しているという意識が求められ、ジャーナリズムの営みを通して民主主義に寄与するという目標が共有されていなければならない。マイノリティを排除する差別的な結社や、会見の妨害を目的とした団体が、「じぶんたちの活動も報道だ」と主張しても、それを受け入れるわけにはいかない。報道と非報道との間に線を引くのは難しいが、判断基準として有効だと思われるのは、到達目標とするところのゴール。古代ギリシャ哲学者アリストテレスの言葉を借りればテロス(telos)である。
アリストテレスの師プラトンは、イデア論で世界を説明しようとした。アリストテレスに言わせれば、プラトンのイデア(idea)は、静的なカテゴリーだった。これに対し、アリストテレスは「可能態/現実態」という動的な概念を用いて師の限界を超えんとした。人にも物にも万物にテロスがあり、世界は合目的な運動を続けている。そんな世界観は現代科学とは相容れないかもしれないが、日々の暮らしに追い立てられる現代人に人生の目的を考えさせてくれる哲学的な教えだ。
今回の「報道」という言葉をめぐる思考実験の議論に立ち返ろう。「報道」それ自体の意味は、国語辞典や百科事典を調べれば、おおよその説明はできる。報道のイデアが不特定多数の人に客観的な事実を伝える行為だとすれば、報道のテロスはジャーナリズムの使命が完遂された状態と理解できる。
ジャーナリストなら、「報道の定義」くらい誰からいつ問われても説明できるにこしたことはない。だが、たとえ定義できなくとも、報道の究極目的――その報道はなんのためか、じぶんたちはなにを目指しているのか――を見失ってはいけない。挑発が得意な権力者に隷従・萎縮したり、敵対行為に終始したりするだけでは、ジャーナリズムの目的や価値を失ってしまいかねない。
「報道とはなにか」という問いは浅い。ときに「ジャーナリズムが目指すもの」という深い問いを立てて議論をしてはどうか。
4:: 実際の事例
2014年春、橋下徹大阪市長(当時)の会見が急遽「中止」になった“事件”を知っている人はどれくらいいるだろうか。それをいまも記憶している人となると、かなり少ないだろう。橋下関連のニュースの中ではかすんでしまう程度の些事であったかもしれない。
日刊スポーツ新聞社のウェブサイトnikkansports.comに「橋下市長が映像撮影めぐり会見延期」(2014年3月27日18時45分)と題した記事が掲載された[4]。それによれば、事実関係は以下のようであった。
- 会見に先立ち、橋下は、地域政党「大阪維新の会」の映像取材スタッフが記者会見のもようを撮影させてくれるよう、大阪市政記者クラブに申し入れていた。
- クラブ側も会見前に「(維新の映像は)報道目的ではない」との理由で申し出を拒む回答をしていた。
- 会見当日、橋下は「事実をありのまま(公式HPで)伝えたい。維新による報道だ」と主張し、クラブ側に再考を求めた。
- クラブ側は「そうなると、市民団体も…となる。(報道機関と)市民団体など、どこかで線引きをしないといけない」などと応答。
- 橋下は〈政務〉会見を、廊下の立ちレクでおこなうことを新たに提案。
- クラブ側の結論が出ず〈政務〉会見は中止。ただし〈市政〉会見はおこなわれた。(橋下は当時、大阪市長であると同時に、大阪維新の会の代表でもあり、定例会見は〈市政〉と〈政務〉の二部制でおこなわれていた)
これを報道したのはnikkansports.comのほかにもあったかもしれないが、朝日新聞や毎日新聞の記事データベースには見当たらなかった。
その問題よりも、もっと重要なニュースはいくつもあった。そもそもこの会見は、橋下の再選から4日後に開催されたものだ。大阪都構想の制度設計を担う法定協議会の議論がもたついていたため、橋下は出直し選挙で民意を問うた。「大義なき選挙」「税の無駄づかい」との批判を浴び、投票率は史上最低の23.59%で、橋下の得票数も前回2011年の市長選(約75万票)から半減の37万に落ち込んだ。
だが橋下は、2012年秋に旗揚げした「日本維新の会」を石原慎太郎の「太陽の党」と合流させ、国政への足がかりをつかんでいた。ローカルな政治家ではなく、日本政界の「台風の目」となっていた。
インターネットの世界でも橋下人気は飛び抜けていた。ツイッターのフォロワーは2013年4月時点で100万人に達していた。じぶんに批判的な文化人や学者をバカ呼ばわりし、新聞社や放送局の記者にも呵責のない罵倒を浴びせていた。向かうところ敵なし。フリージャーナリストの松本創によれば、二部制の定例会見も「なし崩しになり、完全に橋下の独演会」になっていた[5]。
そんななか、橋下はじぶんを党首とする党スタッフを、市政記者クラブの記者会見に参加させたいと申し入れた。前代未聞の申し出。クラブとしてどう対応するかについて、この日は「次回までに回答する」と答えるにとどまった。会見場前列の記者たちは橋下の一言一句をパソコンで記録する機械と化し、後ろの記者たちも橋下に圧倒され続けていた。
記者会見のもようは「japan kansai」と名乗る人(組織?)がYoutubeにアップロードした動画で閲覧できる。動画の中で橋下から「報道の定義」を尋ねられた記者たちは、答えをもっていなかった。それを見た橋下はこうたたみかけている。
僕はじぶんがしゃべったことを全部伝えたいという思いがありますから、維新のホームページという媒体を使って事実を客観的に伝えること……事実を客観的に伝えることを報道、というふうに僕は定義していますから……株式会社であろうが、新聞社であろうが、テレビ局であろうが、報道の免許や資格要件はないわけですから、政党であったとしても、報道になると思うんですけどね。[中略]難しいですよ、だって、報道機関が出している報道だって、政治活動に当たる場合があるわけじゃないですか。新聞社が出している政治的主張は政治活動そのものですね。政治活動と報道というのは区別ができないんです。だから、報道という定義は、事実を客観的に伝えることというふうに憲法上はそう定義されていますよ。
記者クラブは、橋下からの問いかけに対し、記者クラブ側が後日、どんな回答をしたのか。記事や論考は管見の限り見つからない。
日本維新の会のホームページを閲覧したところ、「2014年4月9日(水)橋下徹市長 定例会見」と題するYoutube上の動画ファイルにリンクが張られていた。投稿者は「日本維新の会(党本部)」。クラブ側は維新スタッフが映像取材することを受け入れたことは間違いない。5:: 思考の道具箱
■記者会見 press conference/press interviewの訳語。広い意味で公的な立場にある人が取材者たちと面談すること。マスメディアが主要なニュース・ソースとする官公庁や企業、政党、各種団体などで開催されることが多い。新聞協会は、「公的機関の一方的判断によって左右されてしまう危険性」を排除するため、「記者会見を記者クラブが主催するのは重要」という考えを公表しているが[6]、記者クラブの閉鎖性への批判は多い[7]。IT企業ドワンゴのニコニコ動画は、いくつかの記者クラブに参加し、会見の一部始終をネットで公開して人気を博している[8]。朝日新聞記者の木村英昭は「記者会見が取材現場のすべてであると錯誤し、そこでジャーナリストが質問しないことに反発と苛立ちをもつという倒錯した印象を(ネット利用者に)植え付けてしまった」[9]と述べる(カッコ内は筆者)。
■記者クラブ 記者クラブにはPress ClubとKisha Clubの2種類がある。Press Clubのルーツとして、ワシントンで1908年に設立されたナショナル・プレス・クラブ(NPC)が挙げられる。NPCは取材で首都を訪れた地方紙記者たちが酒を飲んだりカード遊びをしたりする溜まり場として生まれ、現在もジャーナリストたちの親睦機関という性格が強い[10]。日本外国特派員協会(FCCJ)や日本記者クラブ(JNPC)も親睦組織といえる。これと区別して、日本の公的機関などに設けられている組織が近年、Kisha Clubと表現されるようになり、その排他性や横並び体質が批判されている。これに対し、日本新聞協会は「公的機関が自らのホームページで直接、情報を発信するケースも増え、情報の選定が公的機関側の一方的判断に委ねられかねない」と警戒感を示し、記者クラブ(Kisha Clubのこと)には「公権力の行使を監視するとともに、公的機関に真の情報公開を求めていく社会的責務を負ってい」ると強調している。
[注]
[1]「再び戦争のためにペン、カメラ、マイクを取らない」を合い言葉に1955年に結成された団体。1958年から優れたジャーナリズム活動を顕彰している。会員数は約800人。
[2]赤旗の金権・腐敗問題追及取材チームによる「細川・佐川マネーを追及した一連の報道」(1994年)にはJCJ奨励賞が、日曜版編集部による「『ブラック企業』を社会問題化させた一連の追及キャンペーン報道」(2014年)にはJCJ大賞が贈られている。このほか赤旗は、2012年には敦賀原発1号機の放射能漏れ事故隠しめぐって検査の手抜きをスクープした。
[3]京極理恵(2015)「6月で創刊3周年の被災地メディア『大槌新聞』」『読売新聞(YOMIURI ONLINE)』(2016年8月18日取得、http://www.yomiuri.co.jp/economy/feature/CO016932/20150612-OYT8T50257.html?page_no=1)
[4]日刊スポーツ新聞社ウェブサイト「橋下市長が映像撮影めぐり会見延期」nikkansports.com[2014年3月27日18時45分](2015年3月29日取得、http://www.nikkansports.com/general/news/fgntp3201403271276260.html;リンク切れ)
[5]松本創(2013)「集中連載「橋下徹とメディア」第3回「フェアな競争」に踊らされる記者たち」「第4回 詭弁で切り抜け、多弁で乗り切る「橋下式言論術」」(2016年8月18日取得、http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36272;http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36294)
[6]「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」(2002年1月17日第610回編集委員会、2006年3月9日第656回編集委員会一部改定)
[7]上杉隆(2008)『ジャーナリズム崩壊』幻冬舎、ローリー・アン・フリーマン(2011)橋場義之訳『記者クラブ―情報カルテル』緑風出版、マーティン・ファクラー(2012)『「本当のこと」を伝えない日本の新聞 』双葉新書ほか。
[8]niconico(2016年8月20日取得、http://www.nicovideo.jp/)
[9]木村英昭(2013)「ニコニコ動画」早稲田大学ジャーナリズム教育研究所編『エンサイクロペディア 現代ジャーナリズム』早稲田大学出版部,p.175
[10]The National Press Club ホームページ参照(2016年8月20日取得、http://www.press.org/about/history)
[その他参考文献]
小林正弥(2010)『サンデルの政治哲学:〈正義〉とは何か』平凡社新書
東野真和(2016)「岩手県『大槌新聞』から考える震災復興とメディア:町も新聞も小さいほうがいい」『金曜日』pp. 42-44
日本新聞協会(2009)『取材と報道 改訂4版』
マイケル・サンデル(2012)『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業〔上/下〕』ハヤカワ・ノンフィクション文庫
[担当者の定義] 記者会見は開放されるべきだとは思いますが、実際に橋下会見を見ると1時間を超える長広舌。それをそのまま単に流せば「客観的」で、「報道」なのか? 違和感が残ります。記者クラブそのものについてもいずれ取り上げる予定です。
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