虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第9回 日常としての異世界・中二病 『AURA  魔竜院光牙最後の闘い』と『中二病でも恋がしたい!』(1)

10月 05日, 2016 古谷利裕

 
 

中二病とリア充と、その間

良子は自分のことを「全権保持者――神のような存在?――の命によって異世界からこの現象界へ竜端子という特別な物質を集めるために派遣されたリサーチャー」だと言い、突飛な服装を気にする一郎に対し、「光学的な魔術により一般人には視認できない」と言います。もし彼女が本当にそう信じて行動しているとしたら、彼女はたんに病気であると言うべきでしょう。しかしそうではなく、いわば、「この世界全体」を「別の世界」として見立てて(設定して)、彼女はその「見立てられた世界」のなかに住んでいると考えられます。つまり彼女は、「この世界のなか」にいることを認識しながらも「この世界が現実であること」を拒否しているのです。彼女は意識的に「演じて」いるわけですが、その「演じられた自分」の方こそが真の自分であると感じている。あるいは、「演じられた虚構の自分」のなかにしか、「自分」の居場所はないと感じていると言えます。

『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』のマーティにとってのロック(ギター)や年長の友人ドクのような、地元が強いる関係性とは「別の関係性」へと開いてくれる文化や友人が、良子のいる世界には存在しないので、良子は自分の力で自分一人だけの「異世界」を創造(妄想)するしかないのです(そのための素材やリソースはファンタジー系のラノベでしょうが)。良子の生きる環境における「別の関係性」への装置の貧しさは、この連載のモチーフであるフィクションの価値低下と繋がっています。

では、リア充グループはどうでしょうか。彼らはまさに「現実」のクラス内権力において最高位を得ていて、自らの青春を充分に謳歌しているはずです。彼らは彼らの存在する環境に最適化し、現実的に勝利しているのだから、「別の世界」を見立てなければ居場所の見つけられないような人たちに興味をもつ必要などまったくないように思われます。そんな人たちのことは、たんに放っておけば、あるいは嘲笑していればいいはずです。しかし何故か彼らには、中二病系の人たちが、気に障る、我慢のならない存在と感じられ、攻撃しないと気が済まないようなのです。

この感情は、ある程度は一郎にも共有されています。一郎は、リア充グループによる中二病系生徒への圧力や良子へのいじめに対して、理不尽で許せないという感情をもっていますし、良子の世界に対しては共感さえもっているように思われます。それでも一郎は、彼らや良子のことを我慢できないくらいに「恥ずかしい」と感じています。一郎もまた、彼らをただ放っておくだけで済ますことができないのです。しかしこの恥ずかしいという感情が最も強く向けられているのは、自分の過去でしょう。一郎は、ただ過去を悔いているのではなく、恥と感じているのです。一郎は自分の過去を知られることを最も恐れていて、その「恥ずかしさ」の前にへたり込んでしまいます。

リア充グループは確かに現実的に勝利しています。しかしその「現実」は、地方都市にある一高校のなかでだけ成立している現実だと言えるでしょう。それは、いま・ここにある人間関係(権力関係)という意味では否定しようのない現実ですが、ほんの少し視界を拡張してやるだけで意味を失ってしまう程度の現実です。リア充グループの人々は、そのことに気づかないほど愚かではないはずです。それは、彼らにとっては「それしかない」という意味でなけなしの現実ですが、少し視野を広げれば「その程度でしかない」というようなものです。リア充グループの人々は、それが貧しい現実でしかないことを知りつつも、それを受け入れ、そのなけなしの現実のなかで、それなりに努力して現在の位置を勝ち取っているのです。勝者であるリア充グループもまた、中二病の生徒たちと同じ閉塞のなかにいるのです。彼らにとって良子の振る舞いは、自分たちの苦労と成功を踏みにじるような、「自分たちを最上位に置く世界の秩序」そのものの否定であるように映るのだと考えられます。

良子たちにとってみれば、現実に居場所がない(適応できない)からこそ、異世界を作り上げて「自分の存在のリアル」をそちら側へと移行せざるを得ないのですが、リア充たちからみるとそれは、自分たちがそのなかで努力して勝ち上がっていった価値観そのものを、超然とした視点から否定されているように感じられるのでしょう。良子たちが平然と現実を無視することが、自分たちの努力を見下している行為であるかのように感じられるのだと思われます。これは、「公式の現実」に関する戦いであり、我々の生きるべき「公式の現実」の秩序(ルール)に従えという強制であるでしょう。

これは一郎が感じる「恥ずかしさ」と通じるでしょう。良子たちが「超然と現実(公式ルール)を無視すること」を、リア充たちは自分たちの価値観を無視する気に障る振る舞いだと感じるのですが、それが一郎には、現実のゲームを受け入れずに、自分勝手なルールで自分勝手に「勝ったつもり」になっている独りよがりのように映るのでしょう。現実の(公式の)ゲームから見れば明らかに負けているのに、自分のなかでだけ勝ったつもり(自分が特別な存在であるつもり)でいるのがたまらなく恥ずかしく感じられるのだと思われます。一郎には、公式のゲームと自分だけのゲームとの両方がみえていて、その落差を公式の側からみていると言えます。一郎は、自分だけの独自ルールをつくらなければならない必然性を深く理解しながらも、他者からの視線として、公式のゲームの規範を自身の内に内面化し、それに強く抑圧されているから恥ずかしいのです。
 

たった一人のための異世界と、一郎への通路

良子の「異世界」は、地元が強いる関係(=公式ルール)とは別の関係性を指向するものだという点では、マーティのロック(ギター)やドクのタイムマシンと同じだと言えます。しかし異なっているのは、それが他のどことも繋がっていないという点です。良子の「異世界」は、二重の意味で現実的ではありません。第一に、この宇宙の物理は良子が考えているようなものとは違うという、科学的実在論に基づく意味において。第二に、その世界観が他の誰とも共有されていない、あるいは、他者への通路をもっていないという意味において。マーティのロックは第二の意味において、ドクのタイムマシンは(少なくとも『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の物語世界では)第一の意味において、世界との通路をもっています。でも、良子の「異世界」には良子一人の居場所しかありません。

しかし、良子は一郎と出会います。異世界のなかにたった一人で住んでいるはずの良子がなぜ一郎と出会えたのでしょうか。それは、異世界の設定を一部共有するかのように振る舞ったこと(良子の言動を無視せずに乗っかったこと)によって、一郎が良子の異世界の内部に登場人物として現れたからだと言えるでしょう。一郎は、良子の異世界に現れたはじめての他者だったのかもしれません。二人は、決して「現実」の深夜の学校で出会ったのではなく、虚構としての「良子の異世界」のなかで出会ったのです。そこがたった一人の閉じた世界だったからこそ、そこへの不意の侵入者である一郎との出会いが特別な出来事として起ち上がったのです。

良子にとっての一郎との出会いの意味は、たった一人の世界に他者への通路が開かれたことでした。では、一郎にとっての良子との出会いの意味は何でしょうか。一郎は高校デビューに成功し、公式ルールに従っての地位向上も順調に進んでいました。独りぼっちの世界から抜け出て、公式ルールと折り合いをつけることに成功したようにみえます。しかし一郎は、自分の過去を強く恥じており、過去が露見してしまうことを何よりも恐れています。この強い恥の感情は、公式ルールと折り合いがついたというよりも、公式ルールによる抑圧をあまりにも強く受け過ぎていることの証しだと言えます。もし適切に折り合えたのならば、(伊集院光がラジオでそうしたように)自分の過去をネタにして笑い飛ばすことも可能となるはずです。この強すぎる抑圧は、公式ルールを無視していた過去に彼が被った不利益(家族関係の崩壊、学校でのいじめ)の傷の重さに起因すると考えられます。

良子と出会ってしまったことで一郎は、公式ルールのなかでの出世という道を閉ざされます。それにより一郎は、公式ルールで上位の人々からも独自ルールの人々からも等しく距離をとる立場となります。その位置からの良子との付き合いは、一郎にとって、強く作用しすぎている公式ルールの抑圧を相対化するプロセスであり、恥の感情を克服するための試練だと言えるでしょう。

この物語で一郎は、良子たった一人の異世界のなかに二度出現することになります。一度目は出会いの時の深夜の学校です。一郎は偶然に良子と出会い、彼女の世界に「思わず」引き込まれてしまったのでした。しかし二度目は自分の意志によって、恥の感情を突き破るようにして、異世界に進入してゆくのです。学校の屋上に神殿を作り上げ、儀式の末にそこからの自由落下(死)によってこの世界を捨てて向こう側に帰ろうとする良子を、こちら側に引き留めるために、一郎は封印した(きわめて恥ずかしい)はずの異世界の騎士の衣装に着替えて良子の結界に入っていって説得します。この二度目の異世界内での邂逅が、良子には異世界の外部との通路を、一郎には公式ルールの強すぎる抑圧の解除をもたらします。繰り返しになりますが、この出来事は現実空間(公式ルール)ではなく、虚構としての異世界(独自ルール)の内側だからこそ起こったことなのです。

しかしこの作品のラストはやや消極的だといえます。簡単にいえば、自分の世界は自分の世界として大切に保持したまま、公式ルールにもある程度配慮し、うまく折り合いをつけてやっていきましょうというのが、この物語の一応の結論といえます。二人の出会いも、問題の克服も、どちらも虚構としての異世界において起こるという意味では、虚構に対して大きな地位が与えられています。しかし、公式ルール=現実=リア充による支配は、動かし難いものとして無傷のままあります。独自ルールによる孤独な虚構世界が公的ルールを変えることもあるかもしれないという可能性は考慮されていません。つまりこの作品の立場は、この連載の第1回で取り上げた「体制内アウトロー」の物語のあり様に近いのです。

今回はここまでです。次回は『AURA』の設定をほぼそのまま引き継ぎながら、公式ルール(現実)と独自ルール(中二病的妄想)の関係をより柔軟に、より多角的に追求していると思われる『中二病でも恋がしたい!』について考えます。
 
この項つづく。次回10月26日(水)更新予定
 
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