虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第17回 フィクションのなかの現実/『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』(1)

3月 22日, 2017 古谷利裕

 
 

貴伊子と千年前の姫

では貴伊子はどうでしょうか。「マイマイ新子…」において貴伊子と千年前の姫とは最初は重ねてられて描かれます。千年前の姫が船で周防に到着するところを新子が想像しようとして中断する場面に次いで、汽車で防府に到着した貴伊子が改札を抜ける場面が置かれます。そして、貴伊子がクラスで孤立している描写が続きます。

しかし、実は姫と貴伊子の境遇がぴったりと重なっているのはここまでです。新子が、一人で寂しそうに下校する貴伊子の後をついてゆき、半ば強引に家に上がり込んで、それがきっかけで二人は次第に親しくなっていきます。新子と貴伊子が、千年前からそこにある道の上で楽しそうにはしゃいでいる時、その同じ場所で、千年前の姫は一人ぼっちです。貴伊子はその後、せせらぎをせきとめて池をつくる作業を通じて、土地の子供たちとも馴染んでいきます。しかし姫は、いつまでたっても遊び友達をみつけることができません。最初は共通していた貴伊子と姫の境遇ですが、その差はどんどん大きくなります。

ここで、物語の現在である昭和30年と、千年前の世界との関係は確定的ではありません。千年前の姫にいつまでたっても友達があらわれないのは、その世界を想像している新子と貴伊子が姫の友だちの具体像を思いつけないからなのか、それとも、その世界は新子たちの想像から自律して存在していて、その世界において姫の友だちがあらわれないから、新子たちもそれを想像することができないのか、どちらとも言えません。ただ一つ言えるのは、千年前の世界との繋がりを貴伊子にもたらしたのが新子だということです。昭和30年の防府と千年前の周防の結びつきは、まず最初に新子の頭のなかで起こりました。そして、仲良くなった貴伊子にその話をすることで、貴伊子の頭のなかにも徐々に繋がりが開けてゆくのです。最初はただ新子の話を一方的に聞くだけだった貴伊子も、少しずつ自分でも想像してみようと試みるようになります。

タツヨシに、リーダー格として力と正義を行使することを可能にさせていたのがモデルとしての父のイメージだったことと対照的に、貴伊子の積極性のなさや気弱さは、母のイメージの不在のためだったと言えます。しかし、土地の子供たちと馴染んでゆくことで、子供たちにとって高貴なものの象徴であるひずる先生に母のイメージを重ねることで、貴伊子は積極的に振る舞えるようになります。しかし、ひずる先生への幻滅と、それを象徴的に表現する金魚「ひずる」の死によって、貴伊子はふたたび塞ぎ込むようになります。

タツヨシにとって、木刀の価値の再定位のための行為はバーへ乗り込む「決死隊」でした。貴伊子にとってそれは、新子に頼らずに独力で千年前の世界へアクセスし、そこで一人ぼっちの姫に友達をもたらすことです。貴伊子に、地元の子供たちと共有される「池の小宇宙」が与えられたのは、新子が自分に積極的にアプローチして友達になってくれたからでした。貴伊子にとって、あらゆるものは新子から与えられたとさえ言えます。今度は、自分が新子のような役割となって、千年前の姫に友達をもたらすのです。夢のなかで姫と入れ替わった貴伊子は、いつも「はやく来て」とばかり言っていた姫に、自分の方から友達になりたい相手に会いに行かせ、そこで人形遊びを行います。貴伊子もまた、自らの行為によって、ひずる先生という大人に頼らない形で金魚「ひずる」(高貴さ)の価値を再定位し、その失墜を食い止めようとするのです。そして、再設定された世界で、新たな「ひずる」である金魚が再発見されます。
 

新子とは誰なのか?

タツヨシは、物語の現在である昭和30年で行為を起こし、貴伊子は、夢を通じて千年前の世界にアクセスし、そこで行為します。タツヨシにおいても貴伊子においても、価値のあるものの失墜を自らの行為を通して食い止めるようとする時、その媒介となっているのが新子という存在です。タツヨシの行為では、彼を焚きつけて決死隊に同行し、貴伊子の行為では、彼女に千年前の世界とのアクセスを導くことによって。では、新子とはどのような存在なのでしょうか。

新子は、明るくて屈託がなく、誰とでもすぐ友達になれるし、自在に走り回り、飛び回ることのできる、ゴムのように跳ねる柔軟な身体をもつ、『アルプスの少女ハイジ』以降の、アニメで描かれる典型的な快活な少女のように見えます。しかし、ラストに近い場面で重要なことが明かされます。新子は言います。「さっきはうち、かけっこで貴伊子に勝てんかった、ほんとはうち、組で一番遅いんよ」「でも、緑の小次郎にだけは勝てるんよ」、と。それに対して貴伊子は「新子ちゃん、すばしっこそうに見えるのに」と言います。つまり、新子の柔軟で自在にみえる運動性は、多分に新子自身の空想による補正がかかっているということです。新子は、頭のなかでアニメの少女のように走り回っているイメージをもちながら、実際はドタドタぎこちなく走っているというのです。

このことは何を意味するのでしょうか。本当はどんくさい新子がなぜ「すばしっこそうに見える」のでしょうか。我々が見ていたのは、新子の自己イメージの方だったのでしょうか。これはたんに、新子は本当はどんくさい女の子だった、ということなのでしょうか。しかし、この物語はなぜ、新子をどんくさい感じには描かず、それなのに、それを最後になってわざわざ明かすのでしょうか。

物語のはじめの方で、麦畑の道を走りながら、新子が貴伊子に千年前の都の話を語って聞かせる場面では、新子が先に立って走り、貴伊子はそれにやっとついていけているという感じで描かれています。しかし物語の終盤になると、先を走る貴伊子が「新子ちゃん、遅い」と言うようになり、立場が逆転するのです。貴伊子は転校してきた当初、気弱でおどおどしているように見えました。色鉛筆を貸せという要求に、否と言うこともできなかったのです。それが終盤のこの場面では、金魚「ひずる」が見つかったという新子の知らせに、「見たい、見たい、見たい、見たい」と自分の願いを大声で叫びつづけながら、新子を追い抜いて走っていくのです。そして、この後の場面で貴伊子の母親の子供の時の写真が示されるのですが、その姿は貴伊子よりむしろ新子に似ています。しかしそれを見た新子は、貴伊子はお母さん似だ、といいます。

貴伊子の夢のなかで、千年前の周防の姫と貴伊子が入れ替わったように、この昭和30年の防府では、新子と貴伊子が入れ替わったかのように感じられます(夢のなかで貴伊子は、新子と同じマイマイを持っていました)。終盤で新子の足が遅いのは、序盤の貴伊子と入れ替わったからなのではないでしょうか。そして、入れ替わりが完了し、貴伊子が防府に馴染むことで自分の役割は済んだとでもいうように、祖父の死をきっかけに新子は防府を去るのです。貴伊子が、周防の姫の友だちを見つけた後、夢から醒めて千年前の世界から去ったように。

新子が、まるで快活なアニメの少女のように見えたのは、彼女がまさにフィクションとしてのキャラクターだからではないでしょうか。貴伊子にとって新子は、未だ見いだせていなかった適切な自己像へと自分を導いてくれる、イマジナリーフレンドのような架空のキャラクターだったのではないでしょうか。この物語の空想好きな新子は、現実のなかでフィクションの人物が演じるような役割を、物語のなかで担っている人物だとは言えないでしょうか。

タツヨシは子供たちのなかでリーダー格ですが、しかし、常に木刀を持ち歩き、無口で笑わない彼は、最初は皆から恐れられて孤立していました。こだわりのない新子が、子供たち皆で池をつくる時に当然のようにタツヨシにも協力を要請したので、それがきっかけで子供たちの集団に彼が加わったのでした。つまり、タツヨシも貴伊子と同様に、新子の媒介によって、池づくりを通じて皆と馴染むようになったのです。新子は、消えゆく媒介者として、東京から来た貴伊子や孤立するタツヨシを防府の子供たちと結びつけ、役割を終えて消えていったと考えられるのではないでしょうか。
 
引用したのは、以下のテキストです。
片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(後編)
 
この項、つづく。次回4月12日(水)更新予定。
 
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