憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第33回 わたしは考える?

 
「憲法学の散歩道」書籍化第2弾『歴史と理性と憲法と』が2023年5月1日に発売となりました。第32回までの連載分に書き下ろし2章分が加わり、長谷部さんならではの散歩道を進むと意外かつ奥深い世界が開けてきます。単行本のあとがきはこちらでご覧いただけます。⇒【あとがきたちよみ:『歴史と理性と憲法と』】
 
そして、お待たせしました。第3シーズン、はじまります。[編集部]

 
 
 
 ルネ・デカルトは1596年3月31日、トゥレーヌ地方のラ・エ(La Haye)で生まれた*1。この町は現在ではデカルトと呼ばれる。父親のヨアヒムは高等法院付きの法律家で、親類の多くは法律家か医師であった。
 
 デカルトはロワール地方のラ・フレーシュ(La Flèche)に設立されたイエズス会の学校で、寄宿生としてギリシャ語、ラテン語および数学を含む自由学芸を学んだ後*2、ポワティエ大学で法学士号を取得した*3。しかし彼は、法律家の道を歩まず、各地を遍歴して経験を積み、世間を学ぶことを志す。フランスのほか、オランダ、ドイツ、イタリアを遍歴した末に、当時としては比較的平和で思想の自由が認められていたオランダで、孤独で隠れた生活を送ることを選んだデカルトは、『方法叙説』、『省察』、『哲学原理』等の書物を次々に著した。
 
 名声を得たデカルトは、スウェーデンのクリスティナ女王の招聘を受ける。住み慣れたオランダを離れて「熊と岩と氷の国」に赴くべきか、デカルトは逡巡したが、1649年10月にスウェーデンを訪れ、翌年2月11日、肺炎によりストックホルムで死去した。いまわの際のことばは、il faut partirであった*4
 

 
 デカルトは、『方法叙説』の第3部で、実生活において依るべき指針をいくつか挙げている*5。自分の国の法律と慣習に従うこと、行動するにあたっては確固として果断であること、外界の秩序を変えようとするよりも自分の欲望を変えることに努めること、そして、世の人々が携わるさまざまな仕事のうち、最善のものを選び出すことである。最後の指針にもとづいて彼は、全生涯をかけて理性を培い、できる限り真理の認識に向けて前進するという仕事を選びとった。
 
 しかし真理を探求する上では、ほんの少しでも疑い得るものはすべて廃棄すべきであり、疑い得ないものとして残ったもののみを受け入れるべきだと、彼は考える*6。この方法にもとづいて思考を進めると、幾何学のもっとも単純な論証についてさえ人は誤りを犯すものであるから幾何学の論証はすべて捨て去り、また、感覚によって認識したものはすべて夢の中のものであり得るため、これもすべて捨て去るべきことになる。

しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものか(quelque chose)でなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する(Je pense, donc je suis)」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがし得ないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した*7

 疑い得るものはすべてこれを偽として退け、それでもなお疑い得ないものとして残ったもののみを真理として受け入れるというこの態度は、行動するにあたっては確固として果断であるべきだとの実践的指針の適用例なのかも知れない。しかしこれは、真理の探求にあたってさえ、指針として広く受け入れられているわけではない。
 
 真理の探求に携わる科学者といえども、すべてを疑うことはしない。どれだけのコストをかけることでどれだけの成果が得られそうか、効率的に成果を挙げることのできる蓋然性の高いのはどの研究方法かを明示・黙示に計算した上で研究を進める。科学研究にあたっても分業は必要なので、当該学問分野において広く受け入れられている公理や仮説は一応の出発点とするし、他の学問分野については専門家の業績に従う。
 
 デカルトは違う。自身でこれは確実・明瞭だと判断したもののみを真理として受け入れ、それ以外は一切排除する。費用─便益分析も無視するし、他者の判断を権威として受け入れることもしない。彼は真理の探求以外のことは一切考慮しない。一人、ただひたすら真理を探求する。真理の探求は、彼にとって唯一の価値である。イギリスの哲学者、バーナード・ウィリアムズは、デカルトを真理の「純粋探求者 Pure Enquirer」と呼ぶ*8
 
 徹底した懐疑の末に最初に到達した結論が、「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」である*9。『方法叙説』で続いてデカルトは、この結論の真理性を支えているのは、考えるためには存在しなければならないことを、私が明晰に理解しているということ以外にはないことに気付いたので、きわめて明晰(clairement)かつきわめて明瞭(distinctement)に理解したことは真理としてよいとの一般原則を受け入れることにしたと述べる*10
 
 ここには若干の説明の混乱があるかに見受けられる。きわめて明晰かつ明瞭に理解したことは真理としてよいという出発点があるからこそ、疑い得るものはすべて疑った末に何が明晰かつ明瞭な真理と判断されるかを探求する道が辿られたのではないのだろうか。きわめて明晰かつ明瞭に理解し得たことを真理としてよいか否かも懐疑の対象となり得るのであれば、懐疑に終わりはあり得ないのではなかろうか*11
 
 とはいえここには、「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」がデカルトにとってどのような意味で真理として捉えられたかがあらわれているように思われる。第一に、ここに示されているのは、「ゆえに」ということばにもかかわらず、推論ではない。推論によってこの言明の真理性が示されたのであれば、まず「考えるものはすべて存在する」が大前提としてあり、それに「わたしは考える」という小前提が加えられて、「わたしは存在する」という結論が導かれていることになる。しかしデカルトは、「考えるものはすべて存在する」という大前提を当初から受け入れていたわけでは、当然ない。確実なものは何もないというのが彼の出発点のはずであった。デカルト自身も、『省察』に関する第二の応答の中で、次のように言う。

「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」と何者かが言うとき、彼は三段論法にもとづいてその存在を彼の思考から導いているわけではない。自身の心を調べさえすれば彼はそれに気付く。そのことは次の事実から明らかである。もし三段論法によって彼が結論を導出したのであれば、彼は「考えるものはすべて存在する」という大前提をすでに知っているはずである。そうではなく、彼は、自身が存在しなければ考えることはあり得ないということを自ら気付くことで、「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」という命題を理解する。われわれが一般命題を構成するのは、個別の知識を通じてである*12

 考える者は誰もが自身の存在に気付く。わたしの存在が、そもそもわたしが考えるために必須であることは、誰もが直感し得ることだというのが、デカルトが言いたいことである*13
 
 デカルトは、ニューカッスル侯への手紙で次のように言う*14

「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」という命題が真理であることに比べれば、あなたの目に映る[外界の]事物の存在がより不確かであることは、あなたも認めざるを得ないでしょう。この命題が示す知識は、あなたが行う推論の結果でもあなたの教師が教えたことでもありません。それは、あなたの心が理解し、感じ、把握することです。

 ここで存在が直観された「わたし」は、あくまで思考を本質とする、思考する実体としての「わたし」である。それは外界の事物である身体からも区別される。たとえ身体がなかったとしても、なお思考する「わたし」は存在する*15
 

 
 ところで直感できるのは、「わたしが考えている」ことであろうか。そこでいう「わたし」とは何であろうか。デイヴィッド・ヒュームは次のように言う。

自分自身(self or person)は、何らかのイメージではなく、われわれの数々のイメージや観念が「それのもの」とされるものである。自分自身は一生を通じて変わらないと考えられているが、恒常的で不変のイメージや観念はない。……イメージや観念から自分自身なるものが帰結することはない。苦痛、快楽、悲しみ、喜び、情念や感覚は、次々と沸き起こっては消え去り、すべてが同時に存在することは決してない。したがって、いかなるイメージや観念からも自分自身なるものが帰結することはない。……私としては、自身の中を調べてみても、暑さや寒さ、光や影、愛や憎悪、苦痛や快楽といった特定のイメージを見出すことはできるが、イメージ抜きの私自身を把握することはないし、イメージしか把握することはできない*16

 こうした見方からすれば、デカルトが言い得るのは、「わたしは考える」ではなく、「考えがある」ことにとどまる。「わたしが存在する」と言うことはできない。
 
 この論点について、ウィリアムズは、次のように分析を進める*17。考える主体ではなく、考えのみがあるとしよう。ところで、「Pという考えがある」と「Qという考えがある」という2つの命題を考えると、この2つの命題だけから「PかつQという考えがある」ことは導かれない。そのためにはPとQが同時に考えられていなければならないが、最初の2つの命題はそれを保証しない。少なくともPとQとが同時に存在する場を想定しなければ、「PかつQという考えがある」とは言えないわけである。そうした「場」として何が考えつくかと言うと、誰であるかはともかくそれを考えている「わたし」だというのが自然な結論ではある。
 
 とはいえ、「わたし」の存在がそれによって客観的に保証されるかと言えば、そういうわけでもない。PとQを考えるのはあくまで特定の「わたし」であり、そのことはほかの誰にも分からない。さらに言えば、考える主体抜きの、「PかつQという考えがある」ことさえ、それを客観的に保証するものはない。PとQとが同時に同じ場にあるとしても、それはその場で意識されているだけの話であって、場の外からそれを認識するすべはない。
 
 つまり「わたし」が存在することはおろか、何らかの考えが存在することさえ、それを客観的に保証する余地はない。意識の上でいかに明晰かつ明瞭であろうとも、そこで理解されているものが何かは、はなはだ不確かである。それはデカルトの方法が徹頭徹尾、「考える」という意識──身体を含めて一切の外界の事物から切り離された意識──に着目したことに由来する限界である。デカルトもヒュームも一網打尽である。
 
 そう言われたデカルトは、どう反応するであろうか。「なるほど、それであなた・・・はどうなんですか」と訊き返しそうではある。
 

 
 『方法叙説』第4部で、デカルトは次に神の存在の論証に移る*18。神が存在してはじめて、外界の事物の存在も含め、その後の探求が明瞭でたしかなものとして確保される。『省察』における神の存在証明もそうだが*19、デカルトは2通りの議論を展開している。
 
 第一に彼は、自身の中に、完全なものという観念があることを見出す*20。ところで、あらゆるものには原因がある。原因はそれ自身であるか、他のものであるかである。他のものであるとすれば、その「他のもの」は何を原因とするかという問いが新たに生まれる。この問いは無限に遡行することはできないので、究極の原因となるものが存在するはずである。そして何ごとについても、原因となるものは、結果として生ずるものより大きな力を有し、より完全な存在であるはずである。
 
 そうすると、デカルトが抱くこの完全なるものという観念が何に由来するかと言えば、それは現にそうした完全なる存在者、つまり無限にして永遠不変、全知全能にして万物の創造主である神が存在していてその神から分け与えられたものに違いない。他方で、デカルトの抱く神の観念の原因となるものそれ自身が、その原因なのであるとすれば、そのものは以上の理由からして神自身に他ならないこととなる。いずれにしても、神は存在する。
 
 デカルトの抱く完全なものという観念は、デカルトを創造した神が創造の記念として残した刻印である*21。つまり神の観念は、生得(innate)のものである。
 
 あらゆるものに原因があるというのはスコラ哲学の標準的な前提ではあったが、ヒュームはこの点について、すべてのものに原因があるという命題自体、直観によって明晰・明瞭であるとは言い難く、論証抜きで前提してかかることはできないはずだと指摘している*22
 
 またウィリアムズは、デカルトの抱く神の観念の原因となるものが、デカルトより完全でより大きな力を有する何ものかであるとしても、それだけでは、それが無限にして永遠不変、全知全能の神である保証はないことを指摘する*23。結局のところ、デカルトの抱く生得の神の観念を産み出したのが無限にして永遠不変、全知全能の神であるとの結論が最初から先取りされていて、だからこそ被造物たるデカルトはそれを限りなく希求するのだという逆転した「論証」となっている疑いがある*24
 
 第二の神の存在証明は、完全なる神の観念を鍵とする。神はもっとも完全な実体であるが、完全な実体の属性は、それが存在することである。存在しないものは完全ではない。したがって、完全なる神は存在する*25
 
 この論証については、果たして「存在すること」は実体の属性なのかという疑問を提起することができる。ペガサスは翼の生えた馬であり、その属性として存在することを含むと定義すれば、ペガサスが存在することとなるわけではないであろう。ペガサスやケンタウロスのような恣意的に想定された実体と異なって、神の存在にそうした恣意性はなく、存在は神の真実にして不変の本質(une vraie et immuable nature)だというデカルトの主張は*26、それ自体、恣意的であるかに見える。この点について恣意的な主張と恣意的でない主張とを見分ける規準はあり得るだろうか*27
 
 とはいえ、完全なる神の観念を現に私は抱いているというデカルトには、そんな疑問を呈しても意味はないのであろう。『哲学原理』において、デカルトは次のように言う。

[造られることなく思考する独立した実体としての]神の観念は、神性を認識することなど人間には不可能だと理由もなく信じようとする者でない限り、誰もそれを否定することはできない*28

 挙証責任を負うのは、神は存在しないとする側である。存在すると主張する側ではない。
 

 
 完全なる神の存在を論証した(はずの)デカルトは、完全なる神は慈愛に満ちた存在であり、したがってデカルトを騙すはずはないと議論を進め、したがって、彼が明晰かつ明瞭に理解し得ることがらは真実であると結論付ける*29。明晰かつ明瞭に理解し得ることがらが真実であることは、完全にして慈愛深い神が保証してくれているというわけである。かくしてデカルトは、自身の身体を含む外界の事物が存在することも正しい認識だとして物理学の分析を進めていくことができる。もっともそれらは、感覚で把握される通りのものとして存在するわけではないが*30
 
 デカルトは、無神論者も三角形の内角の和が180度であることは理解できるとしながらも、無神論者である以上、その知識について確信は持てないはずであって、したがってそれは真の知識ではないとも言う。神の存在を信じていない以上、邪悪な悪魔によって騙されている可能性を排除できないからというのがその理由である*31
 
 しかし、神が存在することも、少なくともデカルトにとっては、それが直観し得るものではなく推論を経てのことではあれ、結果としては明晰かつ明瞭に理解し得ることだからこそ論証されたのではなかったであろうか*32。そうであれば、推論の結果として明晰かつ明瞭に理解し得た幾何学の証明について、さらなる神の保証は余剰であり、そもそも意味のある保証にはならないであろう。神の存在自体も同じ根拠──明晰かつ明瞭な理解──にもとづく確信にすぎない。それが別個の論拠として保証を与えることになるという主張は、ダブル・カウンティングであろう。
 
 パスカルは、次のように述べる。

私はデカルトを許せない。彼はその全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思っただろう。しかし、彼は、世界を動きださせるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにいかなかった。それから先は、もう神に用がないのだ*33

 結局のところ、デカルトは神なしですませてしまっているのではないだろうか*34
 

*1 デカルトの生涯については、Steven Nadler, Descartes: The Renewal of Philosophy (Reaktion Books 2023)およびGenevieve Rodis-Lewis, ‘Descartes’ life and the development of his philosophy’ in The Cambridge Companion to Descartes (John Cottingham ed, Cambridge University Press 1992)を参照した。
*2 後にデイヴィッド・ヒュームは、この地で研究生活を送っている。拙著『歴史と理性と憲法と』(勁草書房、2023)191頁参照。
*3 彼が大学で医学を修めた形跡はない(Rodis-Lewis (n 1) 28)。
*4 Ibidem 49.
*5 René Descartes, ‘Discours de la méthode, troisième partie’ in his Œeuvres et lettres (André Bridoux ed, Gallimard 1953) 140−43;『方法叙説』谷川多佳子訳(岩波文庫、1997)34−39頁。訳に必ずしも忠実に従っていない。
*6 Descartes, ‘Discours, deuxième partie’ in Descartes (n 5) 137; 邦訳28頁および‘Discours, quatrième partie’ in Descartes (n 5) 147; 邦訳45頁。
*7 Descartes, ‘Discours, quatrième partie’ in Descartes (n 5) 147; 邦訳46頁。
*8 Bernard Williams, Descartes: The Project of Pure Enquiry (Routledge 2005) 33.
*9 先行する類似した言説として、Augustine, The City of God Against the Pagans (RW Dyson ed, Cambridge University Press 1998) 483−84 [XI.27] が挙げられることがある。See ‘Letter to Colvius, 14 November 1640’ in The Philosophical Writings of Descartes, vol III: Correspondence (John Cottingham et al trans, Cambridge University Press 1991) 159−60.
*10 Descartes, ‘Discours, quatrième partie’ in Descartes (n 5) 148; 邦訳47−48頁。
*11 この論点は、本稿末尾で触れるように、なぜデカルトが神の存在証明にこだわったかという問題と関連する。
*12 Descartes, ‘Secondes réponses’ in Descartes (n 5) 375−76.
*13 Peter Markie, ‘The Cogito and its importance’ in The Cambridge Companion to Descartes (John Cottingham ed, Cambridge University Press 1992) 145−46.
*14 ‘Lettre au Marquis de Newcastle’ Mars ou avril 1648, in Descartes (n 5) 1300−01.
*15 Descartes, ‘Discours, quatrième partie’ in Descartes (n 5) 148; 邦訳47頁。 デカルトは、『省察』において、魂の不死については触れていない。しかし、精神(魂)が身体とは別個の存在であることを示すことで、精神が身体とともに死滅するのが必然ではないことは示したと彼は述べる(‘Lettre au Mersenne, 24 décembre 1640’ in Descartes (n 5) 1105)。
*16 David Hume, Treatise of Human Nature (David Fate Norton and Mary J Norton eds, Clarendon Press 2007) 164−65 [I.4.6].
*17 Williams (n 8) 79−85.
*18 Descartes, ‘Discours, quatrième partie’ in Descartes (n 5) 148−50; 邦訳147−52頁。
*19 Descartes, ‘Méditation troisième’ in Descartes (n 5) 298 and ‘Méditation cinquième’ in Descartes (n 4) 312−13; see also Jean-Marie Beyssade, ‘The idea of God and the proofs of his existence’ in The Cambridge Companion to Descartes (John Cottingham ed, Cambridge University Press 1992) 175−76.
*20 そんな観念は自分は抱いていないという人には、この段階でもはやこの論証は通用しない。トマス・ホッブズは、「自分は神という神聖な名で呼ばれるものに対応する観念を抱いてはいない。偶像崇拝が禁じられているのもそのためだ」と述べる(Thomas Hobbes, ‘Troisièmes objections’ in Descartes (n 5) 407; see also Thomas Hobbes, Leviathan (Richard Tuck ed, Cambridge University Press 1996) 23)。『省察』に関するホッブズの批判とデカルトの応答はすれ違いに終わっている(Nadler (n 1) 153 –55)。
*21 Descartes, ‘Méditation troisième’ in Descartes (n 5) 299.
*22 Hume (n 16) 57 [I.3.3].
*23 Williams (n 8) 128.
*24 Bayssade (n 19) 181−82.
*25 この論証は、スピノザによって受け継がれた。拙著『神と自然と憲法と』(勁草書房、2021)88−90頁参照。実体(substance)と属性(attribute)と様態(mode)の関係については、たとえばスピノザ『エチカ』第1部定義3~5参照。
*26 Descartes, ‘Méditation cinquième’ in Descartes (n 5) 314.
*27 Williams (n 8) 140−41.
*28 Descartes, ‘Les principes de la philosophie, première partie’ in Descartes (n 5) 596 [I.54].
*29 Descartes, ‘Discours, quatrième partie’ in Descartes (n 5) 151−52; 邦訳54頁. See also Descartes, ‘Méditation cinquième’ in Descartes (n 5) 316.
*30 Descartes, ‘Méditation sixième’ in Descartes (n 5) 325.
*31 Descartes, ‘Secondes réponses’ in Descartes (n 5) 376.
*32 Descartes, ‘Méditation cinquième’ in Descartes (n 5) 314−15.
*33 Blaise Pascal, Pensées (Texte établi par Louis Lafuma, Seuil 1962) 419 [Frag 1001]; 『パンセ』前田陽一・柚木康訳(中公文庫、1973)56頁。
*34 デカルトは最初から計算ずくだったとの見方として、林達夫「デカルトのポリティーク──『哲学の原理』(佐藤信衛訳)に寄せて」がある。『林達夫評論集』中川久定編(岩波文庫、1992)所収。

 
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憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。山を熟知したきこり同様、憲法学者だからこそ発見できる憲法学の新しい景色へ。
 
2023年5月1日発売
『歴史と理性と憲法と 憲法学の散歩道2』
長谷部恭男 著

3,300円(税込) 四六判 232ページ
ISBN 978-4-326-45128-9

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b624223.html
 
【内容紹介】 勁草書房編集部webサイトでの好評連載エッセイ「憲法学の散歩道」の書籍化第2弾。書下ろし2篇も収録。強烈な世界像、人間像を喚起するボシュエ、ロック、ヘーゲル、ヒューム、トクヴィル、ニーチェ、ヴェイユ、ネイミアらを取り上げ、その思想の深淵をたどり、射程を測定する。さまざまな論者の思想を入り口に憲法学の奥深さへと誘う特異な書。
 
本書のあとがきはこちらからお読みいただけます。→《あとがき》
 
 
連載書籍化第1弾『神と自然と憲法と』のたちよみはこちら。→《あとがき》
 

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第8版』(新世社、2022年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。